日本の海の安全を守るべく日夜奮闘する海上保安庁には、庁内の組織図にも載らない諜報(ちょうほう)チームが存在するという。『FOX 海上保安庁情報調査室』はそんな彼らの知られざる活躍を描いた、暴露型スパイ小説だ。
本作は、大手テレビ局のプロデューサーである著者の川嶋芳生(かわしま・よしお)氏が長年の取材で集めてきた、普通はメディアで報じられることのない危ない事実の数々をモデルに書かれている。ネタがネタだけにもちろんペンネーム、顔出しNG。そうまでして伝えたかった真実とは?
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――『FOX』、非常に面白かったです。一気読みでした。
川嶋 ありがとうございます。
――誰もが気にするところだと思いますが、書かれていることのどこまでが本当なのですか?
川嶋 この本はノンフィクションではなく、あくまでも小説だということは先にお伝えしておきたいです。事実かどうかの指針は、警察が事件化したり、裁判で有罪判決が出たり、または国の機関が正式に発表したり、そうしたところにあると思いますが、私がこの本で書いた出来事は、まだそこに至っていないものばかりです。そういう意味では、事実ではありません。
――主人公は海上保安庁情報調査室の室長、山下正明。朝鮮語と韓国語の違いを瞬時に聞き分け、格闘術や潜水術をマスターした魅力的な人物ですが、モデルはいるのでしょうか?
川嶋 はい、実在します。仮にHさんとしましょう。もう退官されてだいぶたちますが、実際に海保情報調査室のリーダーとして、北朝鮮に関する事件を次々と摘発された方です。
例えば、日本の某社が農薬散布用に開発したラジコン機を、北朝鮮に密輸しようとしている人がいました。攻撃用ドローンを開発する技術の参考になるから、北朝鮮は欲しがるわけですね。
その情報をキャッチして未然に防いだり、北朝鮮から麻薬を受け取った船を港まで追跡して摘発したり、海保の中でもずばぬけた諜報力で活躍なさっていました。
彼が退官されてしばらくたった頃、「自分がやってきたことをなんとか後の世代に伝えられないか」とご相談をいただきまして。そこでHさんの活動をもとにした小説を出せばどうかと考えて書き始めたのがこの作品です。
――山下の祖父は陸軍中野学校卒の元情報将校で、彼の考えに大きな影響を与えたことが印象的に書かれていました。
川嶋 そこはHさんのお話のままといってよいと思います。第2次世界大戦中、祖父が必死に集めた情報が生かされなかったために多くの人命が奪われたと。それに対する悔いをHさんも受け継ぎ、ご自身の任務の動機にされていたようです。
――ノンフィクションでなく、小説にしたのはなぜですか?
川嶋 Hさんや海保の活動を多くの人に知ってもらうだけではなく、楽しんでもらえるものを作りたかったからです。また、ノンフィクションにすると、「ここまでは突き止めたけど未確認」のような形になってしまい、読み物としては消化不良の印象を与える懸念もありました。
――なるほど。初めての小説とのことですが、工夫された点をお聞かせください。
川嶋 新たに情報室に着任した谷りさ子という人物の視点で進める、と決めていたのですが、女性視点を描くのは難しかったですね。あと、危険を伴う任務を書いているのでアクションはそれなりに入れましたが、あまり陰惨になりすぎないようにしました。執筆には2年近くかかりましたが、担当の編集者さんがよく相談に乗ってくれたので楽しかったですよ。
――諜報に関する取材をしてこられて、ご自身が危険を感じたことはありますか?
川嶋 いえ、私はありません。ただ現役時代のHさんは何度かあったそうです。電車に乗っていて、背中がスースーするな、と思ったらスーツもシャツもバッサリ切られていた、とか。
――作中にも北朝鮮がらみの脅しが描かれていましたね。殺すのではなく、「いつでもやれるよ」と見せつけるような手口の。
川嶋 はい。それもHさんが実際に経験されたことです。彼のいた部署はいまでも残っていますが、Hさんがいたときとは違い、あまり独自の功績を上げてはいないようです。
――本書を読んで、海保に興味を持つ人も多いと思います。組織としての海上保安庁にはどんな面白さがありますか?
川嶋 警察や自衛隊と違って、海保では緊急時に、現場指揮官の判断で行動をとることが許されています。
例えば巡視船が不審船と遭遇した場合などです。もちろん本部に逐一報告はしますが、威嚇射撃のような実力行使も含め、現場の判断に委ねられているのです。本部の命令を待っていたら、乗組員の命に関わる場合もありますからね。
予算の申請は国土交通省を窓口として行なうなど、防衛省とは雲泥の差の弱い立場にありますが、ユニークな組織ですよ。
――中国が海洋進出の動きを活発にするなか、海上保安庁の担う役割はますます重要になってくるのではないでしょうか?
川嶋 そうですね。アメリカのバイデン大統領もおっしゃっていましたが、これからは軍ではなく海上警備の人員を用いて対中国の監視体制を強化していく戦略を、日、米、そして東南アジアの国々で共有していくようです。
アメリカならコーストガード、日本なら海上保安庁の力を使うということです。軍同士が対峙(たいじ)すると緊張が高まってしまうので。すでに海保は巡視船を東南アジアの国々に提供し、運航できるよう人員教育まで行なっています。
ただ、ますますマンパワーが足りなくなるのが心配です。沿岸部でウニなどの高級食材を密漁するケースが多発しており、その監視も海保の仕事ですし、遊覧船の事故があれば捜索もするし、手いっぱいな印象です。
――多忙な海保の中にも諜報部門があるくらい、情報戦は重要なのですね。
川嶋 われわれの生活の背後には常に国益のぶつかり合いがあり、情報戦が繰り広げられています。ひとつの情報が、有事の際には国民の命を守る強力な盾になりうる。そのリアリティを感じてもらえたらうれしいです。
――ちなみにペンネームの由来は「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれる関東軍の女スパイ、川島芳子ですか?
川嶋 はい。単純に、スパイ小説だからこうしました(笑)。
●川嶋芳生(かわしま・よしお)
1970年生まれ。大学卒業後、某大手テレビ局入社。報道記者として海上保安庁を担当。2001年に東シナ海で発生した北朝鮮の不審船による九州南西海域工作船事件のほか、2017年大陸間弾道ミサイル発射など、多くの事件や事変を担当。アメリカ連邦捜査局(FBI)捜査官を取材したほか、金ファミリーや北朝鮮の現役工作員へのインタビューを敢行。現在、旧東ドイツの諜報機関・シュタージに関する取材も続けている現役のテレビプロデューサー
■『FOX 海上保安庁情報調査室』
徳間書店 1980円(税込)
海上保安庁情報調査室は、海上ルートで密輸される麻薬の摘発や対テロ関連の捜査、北朝鮮に関連する事件や調査を主な任務とする謎の組織。室長の山下正明(二等海上保安監)は、アメリカのCIA(中央情報局)や韓国の国家情報院と太いパイプを持つ人物だ。ある日、組織の再編に伴い、谷りさ子(二等海上保安正)が情報調査室に着任。山下と行動を共にするうち、谷は知られざる国際謀略と犯罪、駆け引きの世界を目の当たりにすることになる――