1973年生まれ、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国(現・ウクライナ)北部のノヴォフラード・ウォリンスキー出身。1997年にオデーサ陸軍士官学校、2014年にウクライナ国防大学を卒業、21年から現職1973年生まれ、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国(現・ウクライナ)北部のノヴォフラード・ウォリンスキー出身。1997年にオデーサ陸軍士官学校、2014年にウクライナ国防大学を卒業、21年から現職

軍事力世界2位の大国が苦戦している――。今や当然となりつつあるこの事実だが、何もロシア軍が弱いワケではない。そこには、装備の数も質も圧倒的なロシアを欺き、常に先手を打ち続ける軍師の存在がある。「ロシアは私が最も対応しやすいシナリオを選んだ」。そう語るザルジニー総司令官に見えているものとは。

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■用意周到な準備と柔軟な人員配置

9月にアメリカの雑誌『TIME』の表紙を飾ったザルジニー総司令官。同誌で5月に発表された「2022年 世界で最も影響力のある100人」にも選出された9月にアメリカの雑誌『TIME』の表紙を飾ったザルジニー総司令官。同誌で5月に発表された「2022年 世界で最も影響力のある100人」にも選出された

侵攻開始当初、ロシアは12時間で首都キーウに到達し、3日以内に制圧できると考えていた。しかし、それは1週間、1ヵ月と延び続け、そしてついには開戦から半年以上が経過した。

大国ロシアの予想に反するウクライナの善戦の背景には欧米からの武器供与がある。しかし、それ以上に大きいとされるのがウクライナ軍のヴァレリー・ザルジニー総司令官(49歳)の存在だ。

米雑誌『TIME』の表紙を飾るなど世界的に注目度が高まっており、同誌が「ウクライナ侵攻が一冊の歴史本になるとすれば、彼が主役を担うだろう」と記すほど。

慶應義塾大学SFC研究所上席所員で、安全保障アナリストの部谷直亮(ひだに・なおあき)氏は、彼の用意周到な準備がロシアの出はなをくじいたと分析する。

「ロシア軍の大規模侵攻が迫っているという諜報機関の報告に懐疑的だったゼレンスキー大統領に対し、時間の問題だと考えていたザルジニー氏は、兵器を基地から移動させました。開戦と同時に相手の主要施設や装備を叩くのは戦争の常道です。

彼は、ロシア軍に悟られないように、いつもの演習をするフリをしながら航空機、大型無人機、戦車、装甲車、そしてウクライナの制空権を守るのに活躍した対空システムを隠したのです」

侵攻が始まった際、彼が掲げた目標はふたつ。「キーウを陥落させないこと」と「領土を奪われるときは、必ず相手にも出血させること」だった。

「その考えが顕著に表れたのは64㎞にも及ぶロシア軍車両の大渋滞を引き起こした作戦。あえてキーウの手前まで長蛇の列をつくらせてから、最前列と最後尾の車両をドローンや砲撃で潰すことによって、進むことも退くこともできなくさせたのです」

ロシア軍の車両の多くが整備不足で暖冬のぬかるんだ道を走ることができず、脇道にそれることも不可能。長期戦を想定していなかったため、数日間の立ち往生で兵站(へいたん)も尽きた。

「対抗策も講じない様子にザルジニー総司令官はビックリしたそう。『ロシアは私が最も対応しやすいシナリオを選んだ』とインタビューで語っています。

実際、彼は2020年時点で対戦車ミサイル『ジャベリン』の実験を含む軍事演習も指揮していました。この演習自体は失敗に終わりましたが、彼はロシアが攻め込んでくることを確信しており、着々と準備し続けていたのです」

ウクライナ出身の国際政治学者のグレンコ・アンドリー氏は、彼の、適材適所に人員を配置する才能が最悪の事態を防いだと分析する。

「侵攻直後の混乱しているときに、彼は将軍らに裁量権を与え、それぞれの得意な地域に派遣し防衛させたのです。例えば、キーウにいたマルチェンコ少将をミコライウという南部の都市に派遣しました」

侵攻(2月24日)直後、キーウからウクライナ南部のミコライウに駆けつけ、ロシアの侵攻を食い止めたマルチェンコ少将。防衛したミコライウは彼の地元だった侵攻(2月24日)直後、キーウからウクライナ南部のミコライウに駆けつけ、ロシアの侵攻を食い止めたマルチェンコ少将。防衛したミコライウは彼の地元だった

ミコライウはウクライナ南部の造船業の中心地で、マルチェンコ少将の地元だった。そのすぐ南のヘルソンはすでにロシア軍に占領されており、ミコライウが陥落するのも時間の問題だと思われた。

しかし、マルチェンコ少将が地元民と塹壕(ざんごう)を造り粘り強く抵抗したことで、包囲していたロシア軍を追い返すことに成功したのだ。

「また、もうすでに現役を退いていたクリヴォノス将官にはキーウ・ジュリャーヌィ国際空港の防衛を任せました」

すでに退役していたクリヴォノス将官はキーウ・ジュリャーヌィ国際空港の防衛に徹した。大統領府からわずか7㎞の距離にあるこの空港への上陸を阻止したすでに退役していたクリヴォノス将官はキーウ・ジュリャーヌィ国際空港の防衛に徹した。大統領府からわずか7㎞の距離にあるこの空港への上陸を阻止した

クリヴォノス将官は特殊作戦部隊の創設者のひとり。2014年のロシアによるクリミア侵攻の際、東部のクラマトルスク飛行場の防衛を指揮したこともあった。

今回の侵攻直後、キーウ近郊のホストメリにあるアントノフ国際空港は激しい戦いの末にロシア軍に占領されたが、大統領府から7㎞の距離にあるキーウ・ジュリャーヌィ国際空港はクリヴォノス将官によって守られた。詳細は明かされていないが、滑走路を工夫し、ロシア軍機の上陸を阻止したのだ。

アントノフ国際空港 激戦の末、2月25日にロシア軍が制圧したアントノフ国際空港。大型輸送機も破壊されたアントノフ国際空港 激戦の末、2月25日にロシア軍が制圧したアントノフ国際空港。大型輸送機も破壊された

■旧ソ連型から米軍式の軍隊へ

ザルジニー氏の柔軟な人材配置の妙はどこから来るのか。前出の部谷氏は、彼の学生時代の研究だと語る。

「彼は軍人の家に生まれ、高校卒業後はオデーサの士官学校に入学し、修士論文では米軍の権限移譲型の組織づくりを研究しました。凝り固まった上意下達な意思決定に依存する旧ソ連モデルを維持しているウクライナ軍を、NATOの軍隊のようにしたいと考えていました」

そして昨年7月、ゼレンスキー大統領は腐敗した軍を改革できる人材として、まだ中間管理職だった彼を総司令官に大抜擢。任命の電話は、奥さんの誕生日パーティでビールを飲んでいるときにかかってきたという。

「彼はすぐにロシア侵攻に向けた組織改革をしました。任命から数週間で、現場部隊の将校は、作戦目的を実現するための判断には上級指揮官の許可は不要だというルールを作りました」

それによって、将軍がそれぞれの戦況に合わせて軍を使うことができたのだ。

ザルジニー総司令官が一目置く、ロシアのゲラシモフ参謀総長。軍事行動に加え、情報戦や心理戦など非軍事的手段を用いる「ハイブリッド戦争」の提唱者ザルジニー総司令官が一目置く、ロシアのゲラシモフ参謀総長。軍事行動に加え、情報戦や心理戦など非軍事的手段を用いる「ハイブリッド戦争」の提唱者

「また、ザルジニー氏はロシアの傑出した軍事思想家、ゲラシモフ参謀総長を高く評価しており、彼の著作や論文はすべて読破し、執務室に所蔵しているほど。

ゲラシモフはフェイクニュースやサイバー攻撃など、非軍事活動による情報戦や心理戦と軍事力を組み合わせて鮮やかに勝利する『ハイブリッド戦争』を編み出した人物で、クリミア併合を成功させた立役者です」

ロシアの軍略も彼は予習済みだったというワケだ。

■もし今、大統領選を実施したら......

国民にも軍人にも愛されているザルジニー総司令官。10月に開設したばかりのTwitterアカウントはすでに20万人以上にフォローされている国民にも軍人にも愛されているザルジニー総司令官。10月に開設したばかりのTwitterアカウントはすでに20万人以上にフォローされている

前出のアンドリー氏は、ザルジニー氏の絶対的な信頼感がウクライナ軍の善戦につながっていると分析する。

「例えば、9月に重要拠点を取り戻したハルキウ奪還作戦。これを成功させるには部隊をかなりのスピードで移動させる必要があったので、軍内部からは『補給は大丈夫なのか』とか『深入りしすぎると逆に包囲されるのでは』といった心配の声もあったんです。

でも、ザルジニー総司令官が『いける』と判断したとなれば、軍全体が信じて従うんです。少しむちゃに思える作戦も、彼がそう言うなら大丈夫だろう、と」

その強固な信頼感を生んだのは彼の優れた人間性だとアンドリー氏は話す。

「軍の上に立つと、兵士を駒として見てしまうものです。ある程度死なせてしまうのは仕方ない、と。でも彼は、兵士ひとりひとりの命をしっかり重く受け止めており、戦死した兵士の葬式に参列し、遺族に謝罪し、涙をこらえながらご遺体の唇に触れるシーンも報道されました。才能はもちろん、人柄も素晴らしいのです」

幼少期はコメディアンを目指していたというザルジニー氏。彼への称賛は軍を超え、ウクライナ全土に広がっている。

「戦時中なので世論調査は禁止されているんですが、非公式で行なわれているという噂があり、それによると『もし今、大統領選を実施したら、ザルジニー氏が圧倒的多数で勝つだろう』って結果が出たそうなんです。

ゼレンスキー大統領の支持率も高いのですが、当然、支持する人もいれば不支持の人もいる。でも、どちらであれ、ザルジニー氏を絶賛している。彼の支持は100パーセント近いと思います」

軍人にも国民にも愛される軍師・ザルジニー総司令官。彼がいる限り、ウクライナに隙はない。