ホーチミンの人民委員会庁舎。急速な独裁化は日越関係にどう影響するか(写真:photo-ac.com) ホーチミンの人民委員会庁舎。急速な独裁化は日越関係にどう影響するか(写真:photo-ac.com)
日本からの投資額が23億7000ドルに達し、日本国内の在留外国人数では1位の中国に次ぐ規模(約47万6000人、2022年6月現在、法務省統計)に達している国・ベトナム。今年9月には外交関係樹立50周年の重要な節目を迎える両国だが、日越関係は外交上の岐路にあるという。

「べトナム共産党のトップである現書記長への権力集中が目立つようになってきたことで、今後、日本とベトナムとの外交関係、さらには日本企業の現地での経済活動にも重大な支障が出てくる恐れがある」。去る1月17日、ベトナムの国家主席が突然辞任するというニュースが世界を駆け巡った際、ある政府関係者はこう嘆息を漏らした。

共産党一党支配のベトナムでは、最高指導部の顔ぶれを5年に一度の共産党全国代表者大会(党大会)で選出してきた。ここで選出される党書記長、国家主席、政府首相、国会議長の「四柱」と呼ばれる主要4つのポストは「四柱」と呼ばれ、集団指導体制の根幹となってきた。

ところがこの国家主席の辞任により、今後は最高指導者のグエン・フー・チョン書記長に権力が一層集中することとなったのだ。

チョン氏一派はかねてから、権力基盤の強化策として『反汚職』運動を展開してきた。「政府内に蔓延(はびこ)る汚職を一掃する」と喧伝(けんでん)して、政府高官らを次々と更迭し、政敵を駆逐してきたのである。

これはまるで、元重慶市党委員会書記の薄熙来や、元党政治局常務委員の周永康を失脚に追い込み、権力を一手に掌握した習近平の手法に倣(なら)ったかのような手法である。

そして、反汚職の矛先はついに、政権ナンバー2にまで向けられることとなる。冒頭のフック国家主席の辞任は、事実上の更迭だったのだ。

「引き金になったのは、チョン氏が主導する『反汚職』運動の一環で浮上した不正疑惑です。

2022年6月に新型コロナウイルス検査キットの導入に絡み、国有企業を介して高額なディベートを受けていたとして保健大臣が逮捕され、フック氏に近い立場にある副首相2人ら政府高官が相次いで逮捕されたのです。フック氏自身にも不正の嫌疑が掛けられ、遂には解任に追い込まれた」(全国紙外信部記者)

実はチョン書記長は、数年前から独裁への野心を露(あら)わにしていた。2021年1月に開催された党大会で、最高指導者のグエン・フー・チョン書記長が再任を果たし、党規約を超える異例の3期目に入ったのだ。ちなみに中国でも、3選禁止を定めた党規約を改正したことにより、習近平政権3期目入りが確定している。

■変化を把握できなかった日本

日本政府にとっても、このフック主席の辞任は「寝耳に水」(政府関係者)の出来事だった。

実は、フック氏辞任直前の1月9日、菅義偉元首相がベトナムを訪問し、フック氏との会談の席についている。菅氏にとっては、首相退任後初めての外遊先で、菅氏は自身のツイッターで「日越間の人的交流、経済協力、人材育成などを通じ二国間関係の更なる発展と強化のために協力していくことで一致しました」と会談の成果をアピールもしている。

訪問先のハノイで当時のフック国家主席と握手を交わす菅元総理。この1週間あまりのち、フック氏は失脚した(写真:時事通信社) 訪問先のハノイで当時のフック国家主席と握手を交わす菅元総理。この1週間あまりのち、フック氏は失脚した(写真:時事通信社)
フック氏の辞任は、この会談のわずか1週間あまり後のことだ。

「菅氏側は、フック氏が辞任に至るまで追い込まれていることを全く把握できていなかった。それだけに衝撃は大きかった。それに菅氏は、首相在任時の2020年10月にも初めての外遊先としてベトナムを訪れ、フック氏と会談している。

フック氏は安倍元首相の国葬儀にも参列したことからも明らかなように、安倍・菅政権下で強固な信頼関係を築いてきていたのです。フック氏は南シナ海への進出を進める中国にも強い姿勢で臨むなど、中国のアジアでの覇権拡大を牽制する上でも日本にとって外交上の重要なパートナーとなっていた。

安倍氏が『中国包囲網』の構築を目指して提唱した安全保障戦略『自由で開かれたインド太平洋戦略』を進める上でも、ベトナムの協力は不可欠。そうした外交面でも、フック氏の失脚は痛恨事でした」(前出の政府関係者)

■今後の日本への影響は?

「親日派」としても知られていた実力者が失脚する事態を受け、官邸も動いた。2月9日、岸田文雄首相とチョン党書記長とのテレビ会談を急遽実施し、外務省を通じて「様々な戦略的な課題について連携を強化していくことで一致」したと会談成果を発表している。

「首相官邸のテレビ会談には岸田首相側近の木原誠二官房副長官、嶋田隆首相秘書官、秋葉剛男国家安全保障局長らも出席しました。政府側が警戒しているのは、チョン党書記長が中国よりの政治姿勢を執っていることです。

『台湾有事』が取り沙汰され、米中対立がかつてないほどに高まっている中で、ベトナムが政権の独裁色を強め、中国に急接近する事態は看過できない。チョン党書記長は、自身と同じく総書記として異例の3期目に入った習近平氏とは個人的にも親しい間柄です。

これまではフック氏ら『親日派』の存在と権力が分散される『四柱』体制が中国シフトに傾く歯止め役となってきましたが、今後はそれも期待できない。深刻な事態だといえます」(同)

チョン党書記長が主導する「反腐敗」運動の余波は、政治・外交面での影響にとどまらない。失脚したフック氏の周辺では、2020年ごろから、過去の公共施設の建設プロジェクトに関わる汚職などさまざまな疑惑が噴出し、逮捕者が相次いでいた。その中には、日本企業との共同プロジェクトを進めるベトナム政府関係者も含まれている。

摘発対象となっているベトナム政府関係者が関わる、日越間で連携する事業の中には、日本経済に直接、波及するようなものも含まれており、今後の動向に注目が集まっている。

「ベトナムではいま、日本の製薬会社と共同で新型コロナの治療薬の開発も進められていて、そう遠くない時期の商品化も見込まれています。ほかにも医療ツーリズムの展開や中国の『チャイナ・リスク』が顕在化する中で、新たなサプライチェーンの役割も期待されている。

実際、アパレル企業などでは主要な製造拠点とする動きも活発化しています。このままベトナムで独裁化が進展し、『チャイナシフト』が加速すれば、ベトナムに生産拠点があったり、現地企業と連携する日本企業への影響は避けられない。関係再構築は待ったなしの外交課題になりつつあります」(前出の政府関係者)

支持率低迷に加え、出口が見えないウクライナ問題や迫る「台湾有事」の危機。内憂外患の岸田政権にとっては、頭の痛い課題がまたひとつ増えたようだ。

●安藤海南男(あんどう・かなお) 
ジャーナリスト。大手新聞社に入社後、地方支局での勤務を経て、在京社会部記者として活躍。退社後は警察組織の裏側を精力的に取材している