今年2月17日から25日にかけて、ブラジルのリオデジャネイロで開催された「リオのカーニバル」。COVID-19(コロナ)のパンデミックが世界中に広がる直前の2020年2月の開催は無事に行なわれたが、翌21年は100年の歴史で初めて中止に追い込まれ、22年は小規模での開催を余儀なくされた。
そして今年、念願のフルスペックでの開催となったリオのカーニバルを、1997年からリオに渡り、長年、現地で幅広く活動を続けてきた日本人のケイタブラジル氏が、コロナ禍によって2年9ヵ月ぶりの"リオへの帰還"となった自身の思いを交えながらリポートする!
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■待ちに待った「規制無し」の通常開催
ブラジル第2の都市・リオデジャネイロで開催され、「人類最大の祝祭、地上最大のショー」の異名を持つリオのカルナヴァル(日本では英語読みでカーニバルが一般的だが、ここでは現地のポルトガル語発音に近いカルナヴァルとする)。コロナが猛威を振るう直前の2020年(2月後半から3月1日)のカルナヴァルは、国内外から約210万もの人が集まり、記録的な大盛況となった。
今回、23年の動員数はリオ市からまだ発表されていないが、1997年からリオのカルナヴァルを取材してきた筆者から見ても、コロナ前と変わらないくらい連日盛り上がっていた。またリオ市警に加えて、1万人以上の警備をほかの州から臨時増強していたこともあり、例年より治安も良かったと思う。
ブラジルはコロナの死者が約70万人(23年3月現在)にのぼり、多くの悲しみと喪失を経験した。さかのぼれば、20年のカルナヴァル直後の3月末、リオデジャネイロ州知事は緊急記者会見を開き、州のロックダウンを宣言。外出禁止令が出て、街は軍警によって封鎖された。航空会社の各路線も欠航が相次いだ。筆者も日本への一時帰国が困難になり、リオデジャネイロで抱えていた長期の仕事を失うなど、大きな打撃を受けた。
その後のリオのカルナヴァルといえば、コロナの1日あたりの死者数が1000人を超えた21年2月の開催は中止に追い込まれ、死者数が落ち着き始めた22年も喧々諤々、異論反論の末、リオ市は中止を決定する。
しかし、リオ市民にとって経済的にも精神的にも、リオのカルナヴァルはなくてはならないものだ。市民の不満は限界に達し、当局はこれ以上開催しないわけにもいかなくなり、紆余曲折を経て、同年4月に小規模での開催にこぎつけた。
そしてついに今年、リオ市民はもちろんのこと、それまで毎年のように海外からカルナヴァルに参加していた世界中の人々が待ち望んでいた、規制無しのフルスペックでの通常開催となったのだ。
■リオでの半生を取り戻す日々
筆者は子供の頃から憧れていた"サンバとカーニバルとサッカーの本場"に10代から単身乗り込み、リオデジャネイロを中心に日本や世界各地で活動してきた。
本場リオを代表する名門サンバチームImpério Serrano(インペーリオ・セハーノ)や、名門クラブチームCR Vasco da Gama(CRヴァスコ・ダ・ガマ)の一員としてさまざまなイベント活動を行ない、ブラジルを代表するTV各局の番組にはミュージシャンやインフルエンサーとして出演していた。
ほかにも、国際企業の調査員、日本メディアの現地のレポーター、ジャーナリストとしても活動した。
しかし、コロナによって失意の帰国を強いられた筆者は、今年のカルナヴァルまでの2年9ヵ月、物理的、精神的なブランクによって、アイデンティティークライシスに陥った。
日本では、がん闘病中だった母親を亡くし、祖母は介護施設内で起きたクラスターでコロナに感染し亡くなった。ふたりの家族を失い、満身創痍でのリオデジャネイロ帰還となったが、一方でかつての仕事仲間のブラジル人、現地の友人たちとの再会を待ちわび、自分を取り戻す過程に幸せも感じていた。
それでも出国前に恐怖がなかったわけではない。それは、約3年の間に起きた日本とブラジルの変化に対し、大きなブランクがある自分が合わせられるのだろうかという畏怖だった。また、リオで長年付き合ってきた友人5名をコロナで失った悲しみ、その遺族、仲間との再会も待ち受けていた。
リオに着いてまず目にしたのは、コロナ禍の労苦によって経年以上に年老いた友人たちの姿だった。またリオでは、所属していたサンバやサッカーチームの関係者や友人、ファンから熱烈な歓待を受け、連日取材攻勢に会い、番組出演も重なった。
そうしてコロナ以前のリオでの日常に戻ったかのような気持ちにもなったが、その一方で、日本にいては知ることのできなかった友人たちのさらなる訃報を聞く悲しみの日々でもあった。カルナヴァル当日のパレードでは、残念ながらそこに立つことの出来なかった仲間を弔い、その名前を衣装や楽器に記して出場する友人たちの姿があった。
コロナ禍でリオではいろいろなことが変わり果てていて、筆者は浦島太郎の様な気持ちにもなった。こうしてリオに帰ってきたことで、はじめてそれまでリオで取り組んで来た半生が何だったのかを取り戻す日々を噛み締めた。そして無事に、カルナヴァルに20年以上前から所属するチーム、インペーリオ・セハーノの一員として出場することができたのだ。
■「カルナヴァルが、サンバが帰ってきた!」
リオでは「カルナヴァルが、サンバが帰って来た!」という、リオ市当局によるTVCFが連日流れていた。世界最大の多人種・混血・異文化混成の国、ブラジルを象徴するカルナヴァルは、パレードを行なう地元の有名サンバチームにたくさんの外国人が参加することでも知られている。
筆者も以前から知るブラジル以外の南米各国、オセアニア、北中米、欧州、アジアからの戦友と再会し、同時に新たな出会いも数多くあった。
カルナヴァルのメインイベントは、リーグ入替制のコンテスト採点式パレードチャンピョンシップだ。
リオ市周辺の地域に根差す歴史的なサンバチームが毎年、テーマ、楽曲、山車、衣装、振り付け、演出、打楽器隊のアレンジを刷新してパレードする。1エスコーラ(1チーム)3,500人ほどの老若男女による「サンバオペラ」といわれるストーリー展開型のパレード劇を制限時間内に行なう。
壮大なテーマや楽曲、演奏、演出とともに、いわば"欽ちゃんの仮装大賞の巨大ハイクオリティー・プロフェッショナル版"のような仕掛けで、観客をアッと言わせる面白さも競っている。
採点対象の花形ダンサー役は、プロダンサーや有名人が務める。オーディションのある打楽器オーケストラや若手ダンサーグループも花形のひとつで、世界各地からオーディションを受けに来て出場を目指す外国人挑戦者が増えている。
古くは、あのジャニス・ジョプリンも1970年のリオのカルナヴァルで、花形ダンサー役で出場したがったというエピソードやアーカイヴが有名だ。
そのほか、大勢のプロ・アマを問わない参加者たちが、さまざまな衣装と振り付けでパレードの全体を構成する。そんなクリエイティヴさで順位を争う熾烈な真剣勝負のパレードも、フルスペックで復活したといえる内容だった。
パレードの優勝チームは、21年ぶりにImperatriz Leopoldinense(インペラトリズ・レオポルディネンセ)が手に入れた。そのほかの順位も、例年にない大きな変化のある年だった。
急速に変わりゆく世界と人類を表し、同時に古き良き、人類の普遍な信愛を見つけることができるリオのカルナヴァル。この地で再び魂を洗い、励まし合い、蘇る人々が来年もやってくる。
KTa☆brasil(ケイタブラジル)
東京都出身。高校卒業後、アメリカ留学を経て1997年からブラジルに渡る。本場リオを代表する名門サンバチームImpério Serrano(インペーリオ・セハーノ)、名門クラブチームCR Vasco da Gama(CRヴァスコ・ダ・ガマ)に所属。国内外で打楽器奏者、DJとしても活躍し、ケツメイシのアルバムレーコーディング参加、パリコレでの演奏など幅広い。2004年の『MTV Brasil』をはじめ、2023年まで自身の特集番組がブラジルで多数放送される。リオ市観光局の公式プレゼンターにも認定され、ブラジルに渡った97年から取材を続け、多くのメディアに実績がある。2009年にニューズウィーク日本版「世界が尊敬する日本人100」に選出される
【公式サイト】https://keita-brasil.themedia.jp/