中国の武漢ウイルス研究所は、2002年に流行したSARSを教訓に、その起源を追究するべく新型コロナに似たウイルスの研究を行なっていた 中国の武漢ウイルス研究所は、2002年に流行したSARSを教訓に、その起源を追究するべく新型コロナに似たウイルスの研究を行なっていた

アメリカの経済紙「ウォール・ストリート・ジャーナル」が、米エネルギー省の報告として、新型コロナウイルスが中国の研究所から流出した可能性が高いと報じた。しかし、この報道で、何か新たな根拠が示されたわけではない。

パンデミック以降、何度も話題に上がっては消える「中国ウイルス研究所起源説」。どこかモヤモヤするこの問題を、われわれはどうとらえたらいいのか? 『週刊プレイボーイ』本誌でもおなじみのウイルス学者・佐藤 佳(さとう・けい)先生に解説してもらった。

* * *

■「研究所から流出の可能性高い」と結論

事の発端は、2月26日にアメリカを代表する経済紙「ウォール・ストリート・ジャーナル」が報じた「新型コロナの起源、研究所から流出の可能性高い=米エネルギー省」と題した記事だ。

米エネルギー省は新型コロナのパンデミックの起源について、中国の武漢(ぶかん)ウイルス研究所から流出した可能性が最も高いと結論づけ、それがホワイトハウスや米議会の主要議員に提出された報告書から明らかになったという。

この報道は注目され、米中対立も深まる中、3年前の感染拡大初期にも見られたような「新型コロナは中国の研究所から漏れた」「中国が人工的に造ったウイルスだ」といった反応が、アメリカをはじめ日本でも再燃している。

ただし報道を見ても、今のところ根拠となる新たな情報は示されておらず、それどころかエネルギー省自ら今回の判断を「確度は低い」とするなど、なんとも煮え切らない微妙な内容になっている。

研究所からの流出か、それとも自然界から広がったのか。アメリカ政府機関でもその見解は割れていて、米国家情報会議(NIC)という諮問機関は「自然界の動物から人間に感染した」との立場を取る一方で、今回のエネルギー省や米連邦捜査局(FBI)は研究所流出説を主張している。

ちなみに、ウイルスの起源に関しては、パンデミック当初から幾度となく議論を呼んできたが、研究所流出説は多くの専門家によって否定されてきた。世界保健機関(WHO)や各国の研究チームによって、新型コロナは中国・武漢の華南(かなん)海鮮卸売市場が発信源で、偶発的に起きた動物から人への感染で広まったという認識が、広く共有されてきたはずなのだが......。

■人造だと思っているウイルス学者はほとんどいない

突如として蒸し返された研究所流出説を、どうとらえたらいいのか? その疑問に正面から答えてくれたのが、ウイルス学者で新型コロナの変異株の研究コンソーシアム「G2P-Japan」を主宰する、東京大学医科学研究所の佐藤佳教授だ。

「ウイルスの起源について考えるとき、そこには、『自然由来なのか、それとも人工的に造られたものなのか?』という由来の話と、『どこから出てきたのか?』という場所の話のふたつの意味合いがありますが、そこは分けて考える必要があります。

中国・武漢で見つかった最初の株から、ウイルス学者の予想を超える「大進化」という変異を繰り返した新型コロナ(写真提供/国立感染症研究所) 中国・武漢で見つかった最初の株から、ウイルス学者の予想を超える「大進化」という変異を繰り返した新型コロナ(写真提供/国立感染症研究所)

まず前者についてですが、ほとんどのウイルス学者が自然由来説を支持していると思います。その理由は、新型コロナに似たウイルスが、中国以外の東南アジアの国々に生息する野生のコウモリからも見つかっているからで、こうしたウイルスが自然界に存在しているのは確固たる事実です。

それが人に伝播(でんぱ)して新型コロナになったと考えるのが妥当です。人造のウイルスだということを支持する根拠も証拠もなく、そのように考えているウイルス学者はほとんどいないと思います」

では、後者の「場所」についてはどうか。

新型コロナが自然由来だとしても、そのウイルスを扱う研究所からなんらかの事故によって外部に漏れた可能性はないのか? そもそも「最初に動物から人への感染が起きた場所」を科学的に特定することができるのか?

「この点については、昨年『サイエンス』という科学雑誌に掲載された2本の論文があるのですが、いずれも流行の発信源は、武漢の華南海鮮卸売市場である可能性が高いと結論づけています。

この論文、まるで科学探偵のような内容で興味深いのですが、新型コロナの流行が始まってすぐの2020年初頭に、中国感染症対策センター(China CDC)が華南海鮮卸売市場で『環境サンプリング』という調査をやっているんですね。

これは、刑事ドラマの事件現場の捜査で、鑑識や科捜研が行なうみたいに、武漢市内で最初に新型コロナの感染者が多く出た華南海鮮卸売市場の床や、動物が入れられていたケージ(檻)などからサンプルを採取して、新型コロナウイルスの遺伝子の痕跡を丹念に探していく作業です。

そうすると、同じ市場の中でも、ウイルスの痕跡が明らかに集中している場所やケージがあり、それをまだ閉鎖されていない時期に中国のSNSに投稿されていた華南海鮮卸売市場の写真と照合すると、当時、(そこでの生きた野生動物の取り扱いは違法であったにもかかわらず)生きた野生動物が売買されていたことも明らかになった。

こうした状況証拠を総合すると、これまでいわれていたように、市場で食用として売られていたコウモリやセンザンコウなどの生きた野生動物から人に感染が広がった可能性が高いと考えられるのです。さらに、今年3月に示された最新の報告では、タヌキを中間宿主として人への感染が起きたことが示唆されています。

このように、野生動物由来説を支持するいろいろな状況証拠が積み上げられているのに対し、武漢のウイルス研究所からウイルスが広がったことを示唆するデータや証拠は、今のところひとつもありません」

■ウイルス研究で生物兵器はできない

もちろん真実はわからない。だから、誰かが悪意を持って研究所にあったウイルスを海鮮卸売市場にバラまいたという可能性だって100%否定することはできないだろう。

しかし、新型コロナの流行が中国社会や経済に与えた深刻な影響を考えれば、わざわざ市場にウイルスをバラまいて、パンデミックを引き起こす理由があるとは思えない。

佐藤教授は「今なおくすぶり続ける中国研究所流出説の背景には、研究室で兵器として造られた人造ウイルスが事故で外部に流出した、あるいは何者かによって意図的にバラまかれたという、SF的な妄想の広がりがあるのではないか」と話す。

米エネルギー省の看板。新型コロナは中国の研究所から流出した可能性が高いという同省の見解を、米経済紙が2月26日に報じた 米エネルギー省の看板。新型コロナは中国の研究所から流出した可能性が高いという同省の見解を、米経済紙が2月26日に報じた FBIのレイ長官も流出説を主張するが、自然由来を支持する米政府機関もある。新型コロナの起源に関する見解は割れている FBIのレイ長官も流出説を主張するが、自然由来を支持する米政府機関もある。新型コロナの起源に関する見解は割れている

また、佐藤教授によれば「リバースジェネティクス」と呼ばれる遺伝子工学技術を使えば、ウイルスを人工的に造ることは技術的には可能で、研究目的で日常的に行なわれているという(ちなみに日本の場合には、そのような実験を実施するためには、その目的や計画・内容を説明した文書を文部科学省に提出し、承認を受けなければならないとのこと)。

ただし、そうした最新の科学技術を駆使したとしても、生物兵器として実用化できるようなウイルスを造るノウハウは、現時点で確立されていない。

そして、そもそもウイルスや細菌を、簡単に軍事利用につなげられるという発想自体がナンセンスだと語る。

「原子力(発電と原爆)やIT(ネットとハッキング)、化学(薬と化学兵器)などは、社会生活に役に立つ半面、軍事用途に使われるリスクもあり、そうした技術を『デュアルユース』といいます。ウイルスや感染症の研究の場合は、予防ワクチン開発につながる一方、生物兵器に使われてしまう、などとよくいわれます。

しかし、実際に兵器として使用した際の効果や影響を想定し、それを制御できる原爆や化学兵器と違って、ウイルスの振る舞いを予測したり、それをコントロールしたりするのは現状不可能です。これを兵器として実用化できるような技術や知識は、今の人類にはありません。

それは、新型コロナのこれまでの流行や変異を見ても明らかだと思います。それを原爆や化学兵器と同じような文脈で理解されているところがあるのですが、そこにはフィクションの要素が多分に含まれていることも理解されるべきだと思います」

新型コロナウイルスの自然宿主と考えられているキクガシラコウモリ。このコウモリから直接、人に感染したのか、それとも別の中間宿主を経由して人間に感染したのかはわかっていない。今年3月に示された最新の報告では、タヌキを中間宿主として人への感染が起きたことが示唆されている 新型コロナウイルスの自然宿主と考えられているキクガシラコウモリ。このコウモリから直接、人に感染したのか、それとも別の中間宿主を経由して人間に感染したのかはわかっていない。今年3月に示された最新の報告では、タヌキを中間宿主として人への感染が起きたことが示唆されている

■科学者が起源を追及するのは「犯人探し」が本来の目的ではない

その上で、科学者が新型コロナの起源を追究するのは、ウイルスがどこでどのように発生したのかを理解することが、パンデミックの再発防止に欠かせないからであり、「犯人探し」が本来の目的ではないと強調する。

「そもそも、武漢ウイルス研究所の研究者が新型コロナに似たウイルスの研究をしていたのも、02年に中国で流行したSARS(重症急性呼吸器症候群)の起源を探求していたからです。それを中国西部の洞窟に生息するコウモリにまで絞り込んだ成果は目を見張るものがある。

僕はもともとHIV(ヒト免疫不全ウイルス)の研究をしていましたが、HIVの起源でも同じことが行なわれ、アメリカの研究チームが、カメルーン南東の山奥に生息するチンパンジーが保有するウイルスが起源だと突き止めた。

また、新型コロナの感染拡大後に、フランスのパスツール研究所を中心とした研究チームが、タイ、カンボジア、ラオスなどに生息するコウモリから新型コロナと似たウイルスを見つけている。

こうした発見が新興感染症への対策につながります。そのような話を聞いて、『アメリカやフランスがひそかに人造ウイルス兵器を造ろうとしている』といった妄想を膨らませたりしませんよね」(佐藤教授)。

ちなみに、米エネルギー省は核兵器の製造および管理、原子力技術の開発も担当する行政機関なので、一見、唐突にも思える中国研究所流出説の主張は、米中対立が深まる中での政治的な思惑の意味合いもあるのかもしれない。

一方で、中国当局は今年1月にいったんは公開した華南海鮮卸売市場でのサンプリングデータを、最近になって消去していたことが判明している。

WHOは3月17日、新型コロナの発信源を野生動物に結びつける可能性を示唆するデータが今年1月まで公開されず、現在はデータの一部が失われていることについて、中国当局の対応を強く批判した。

テドロス事務局長は「本来であれば、これらのデータは3年前に国際社会と共有されているべきだった」と非難し、失われているデータは「直ちに共有される必要がある」と訴えた。

中国政府は、「武漢ウイルス研究所流出説」はおろか、「華南海鮮卸売市場での野生動物起源説」にも否定的な立場を取り続けており、この説を裏付ける科学的なデータの公開で「中国起源説」が強まることを嫌い、その証拠となるデータを消去したのだとすれば、国際社会から批判されるのは当然だろう。

モヤモヤは残るが、新型コロナと人類の戦いはまだ終わったわけではない。「犯人探し」や「国のメンツ」に無駄なエネルギーを使い、摩擦や対立を深めるよりも、今のパンデミックを終わらせ、二度と繰り返さないための努力に集中するべきではないか。

東京大学医科学研究所 システムウイルス学分野の佐藤佳教授 東京大学医科学研究所 システムウイルス学分野の佐藤佳教授

●佐藤 佳(さとう・けい) 
東京大学医科学研究所 システムウイルス学分野 教授。1982年生まれ。京都大学ウイルス研究所助教などを経て、2018年に東京大学医科学研究所准教授、22年に同教授。研究コンソーシアム「G2P-Japan」を主宰し、新型コロナウイルスの変異株に関する研究成果を次々と発表している。
公式Twitter【@SystemsVirology】