報道では「越境攻撃」と表現されることが多いが、総兵力1万人を超える進軍は「逆侵攻」と呼ぶべきだろう
昨夏の反転攻勢の失敗以来、防戦一方だったウクライナ軍が、誰も予想しなかった奇策に打って出た。全体の戦況ではまだ優位にいるロシアだが、局所的には明らかに後手に回り、戦争は新たな局面を迎えつつある。
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■奇襲開始と同時に〝目・耳・口〟を封じた
2022年秋にウクライナ軍(以下、ウ軍)が大規模な反転攻勢を成功させてから約2年。ウクライナのスーミ州と国境を接するロシアのクルスク州に、ウ軍が8月6日、突如本格的な「逆侵攻」を開始した。
ロシア軍(以下、露軍)のゲラシモフ参謀総長は当初、プーチン大統領に「1000人規模の敵軍部隊が攻勢に出たが、進軍は阻止している」と報告したが、これは大間違い(もしくは真っ赤なウソ)だった。
実際のウ軍は総兵力1万5000人、6個旅団で進軍を続け、そこには精鋭の空挺部隊や特殊部隊も参加していたのだ。
プーチン大統領は侵攻を防げなかった軍や治安当局への不信感を強めているとの観測もあり、今後の軍・情報機関幹部の人事も注目されている
ウクライナのゼレンスキー大統領は19日の時点で、1250平方キロメートル(東京23区の約2倍の面積)の地域を制圧し、多くの露軍兵を捕虜に取ったと発表。さらなる作戦の継続を明言している。
元陸上自衛隊中央即応集団司令部幕僚長の二見龍氏(元陸将補)が解説する。
「奇襲が成功した最大の理由は、ウ軍が作戦行動を完全に秘匿できたことです。ウクライナ東部戦線で劣勢に立たされ、戦力不足にあえぐウ軍が新たな戦線を構築して攻勢を行なうことはないだろうと私は考えていましたし、露軍も間違いなくそう思い込んでいました。
ウ軍は奇襲開始と同時に、ドローン攻撃と電子戦で露軍の偵察無人機を無力化。さらに通信レーダー施設を自爆ドローンで破壊し、露軍が情報を収集・共有するための〝目・耳・口〟を封じたのです。これによって露軍は状況把握ができなくなり、増援部隊の運用も混乱しました」
その背景には、ウ軍の綿密な情報収集もあった。
「クルスク州やその隣のベルゴロド州に対しては今年の春以降、ウ軍傘下の『自由ロシア軍団』がたびたび越境攻撃を行なっていました。今にして思えば、あれは単なる陽動ではなく、進軍できる経路の選定や露側の対応など、さまざまな情報を収集する威力偵察だったのです。
実際、ウ軍のクルスク侵攻ルートには地雷原も対戦車壕もなく、基礎訓練を受けただけの士気の低い露軍兵しかいませんでした。そこにウ軍は戦車、歩兵戦闘車の機甲戦力を投入し、精鋭旅団が組織的に攻撃したわけです」
その後もウ軍は増援に向かっていた車両数十両、兵員数百人の露軍予備兵力の車列に、ハイマースからクラスター弾頭のロケット弾を撃ち込んだり、貴重な指揮官がいる露軍の指揮所を戦闘機から爆撃したりするなど、戦闘の主導権を握り続けている。
一方、露軍はウ軍の進撃を止めるべく、ウクライナ東部戦線で戦果を上げている滑空誘導爆弾による爆撃を始めたが、偵察情報の不足により命中率は低く、効果的な攻撃にはなっていないのが現状だ。
■支配地域を南東へ拡大するのが理想的
とはいえ、奇襲であるからにはウ軍にも失敗のリスクはあった。また、ここに精鋭部隊と多くの装備や砲弾を投入したということは、東部戦線ではその分、ウ軍の陣容も厳しくなっていることは間違いない。それでもこのイチかバチかの「逆侵攻」に踏み切った目的はなんなのか?
ひとつ目はよくいわれるように、ロシアとの交渉材料、あるいはプーチン政権への圧力という政治的目的だ。
「ウクライナはこれまで、露軍が占領しているウクライナ領土を返還させるための交渉カードを一切持っていませんでした。しかし、今回侵攻したクルスクは原発、天然ガス計測施設、鉄道主要駅を有する戦略的に重要な地域です。
さらに言えば、今回の作戦によって、クルスクは第2次世界大戦後初めて他国に侵略されたロシア領土ということになりました。プーチン大統領が『特別軍事作戦』と呼び続けているこの戦争の現状を、露国民に知らしめるインパクトもあるでしょう。
また、プーチン政権はこの侵攻への対応についても『対テロ作戦』という建前を今のところ貫いています。しかし実際のところ、侵攻してきたウ軍を撃退するためには、露軍はウクライナ東部や南部の戦線から優秀な機甲部隊を引き剥がし、クルスク戦線に転進させる必要がある。そうなると当然、ウクライナ国内では露軍の戦力が薄くなるという副次効果が生まれます」
ふたつ目は、占領地域を新たな〝バッファーゾーン(緩衝地帯)〟として利用することだと二見氏は言う。
ウ軍は15日、クルスク州の支配地域に「軍司令部事務室」を設置したと発表。さらに18日までに、クルスク州西部のセイム川にかかる3本の橋をすべて破壊した。
「橋の破壊により、露軍は補給路と退路を断たれつつある。この包囲戦が成功し、露軍を完全に排除できれば、セイム川はウ軍の防御線に使える自然障害となります。軍司令部を置くというのも『退がらない』という意思表示ですから、ウ軍は中長期的に駐留を続けるつもりでしょう。
理想を言えば、ウ軍はここから南東のベルゴロド州方面へ戦線を拡大し、占領地域を国境に沿って広げたいところでしょう。
これがバッファーゾーンになれば、ベルゴロド州と国境を接するウクライナ北東部ハルキウ州などで、これまでは地理的な制約からできなかった縦深防御(距離を取って敵の進軍を遅らせる戦術)を行なうことが可能になるからです。
また、ハルキウ州北部に進撃している露軍の背後をベルゴロド州側から叩ければ、ウクライナ国内の戦況にも大きな変化を与えることができます。そうなれば、露軍はいよいよ優秀な部隊をクルスク・ベルゴロド戦線に転進させざるをえなくなる。ウ軍から見れば東部戦線の状況が改善し、各地で勝ちを拾える可能性が出てきます」
■米大統領選での両陣営の方針にも影響?
一方、国際政治アナリストの菅原出氏は、ウ軍のクルスク奇襲は「対米欧諸国」の観点からも大きな意味があったと指摘する。
「ここ最近、国際社会では『ウクライナは勝てない』という見方が広がっていました。また、ロシア領土に攻め込んだらプーチンが核を使うかもしれないという理由で、米欧諸国は供与した武器の使用方法にも制限をかけてきました。
そこでウクライナは今回、アメリカなどに相談することなく、独自の判断で大きなリスクを取り、奇襲攻撃に踏み切って見事、成功させたわけです。ロシアはこの程度では核を使えないし、自分たちは支援に値する戦いができるんだということを強くアピールできたといえます」
このアピールは、最大の支援国であるアメリカの大統領選挙を巡る共和党・民主党の動きにも影響すると菅原氏は指摘する。
「この勢いを駆って、大統領選で支持を伸ばしている民主党のハリス陣営は、ウクライナ支援の継続をきっちり打ち出そうとしています。逆に、これまでウクライナ支援に非常に冷淡だった共和党副大統領候補のヴァンスも、この状況では『ウクライナが勝利するとは信じられない』などとは当面言えなくなるでしょう。
また、ロシア側の動揺についても注目すべきです。侵攻を受けた当初は『大した問題ではない』とトーンダウンしようとする狙いが明らかに見てとれましたが、クルスク州での占領状態が長期化すればするほど、プーチンの戦争指導に対する批判があちこちから出てくるでしょう。
ゼレンスキー大統領の最側近のひとり、ポドリャク大統領府顧問は『ロシアは戦術的に大きな敗北をしないと、停戦交渉のテーブルには近づかない』と指摘していましたが、この『逆侵攻』への対応が、『大きな敗北』の端緒となりえるかもしれません。
ウクライナからすると、当面はなるべく支配地域を確保し続けることが狙いになりますが、仮にこのバッファーゾーンを露軍に奪還されても、ゼレンスキー政権にはさほどのダメージはありません。すでに政治的なインパクトは与えたわけですから、何かしら理屈をつけて、戦略的に撤退すればいいのです」
国境周辺の露軍兵は練度も士気も低かったとされ、ウ軍は多くの捕虜を取ったと発表。ロシアに取られているウ軍兵の捕虜との交換要員となる
そうなると、ウ軍にとって目下最大のリスクは、今後さらに支配地域を広げようと戦線を拡大したときなどに、占領地域の防衛線に緩みが出たり、露軍が奪還のために大規模攻勢をかけてきたりして、戦略的な撤退もしきれず、精鋭部隊を含む貴重な戦力を失うというシナリオだろう。
こうした事態を防ぐべく、ウクライナはイギリスとフランスに対し、供与されている航空機発射型巡航ミサイル「ストーム・シャドー」をロシア領内で使用する許可を求めている。遠隔地から露軍の航空戦力や補給拠点を叩ければ、占領地域の安全性が向上するからだ。
前出の二見氏は、今後の注目点をこう語る。
「軍がひとつの作戦で機敏に動き続けられるのは、だいだい1ヵ月くらいまでです。それ以上になると、防勢態勢への移行準備、部隊交代などの動きが出てくるでしょう。つまり、まずは9月初旬から中旬頃までに、ウ軍が何をどこまでやろうとしているのかが見えてくるのではないかと思います」
ウクライナは値千金の戦果を今後どう広げ、どう使っていくのか。