深刻な地盤沈下と海面上昇により、海に沈みつつある都市が、インドネシアの首都ジャカルタだ。同国政府は19年頃から首都移転の計画をスタートし、今月から遷都は本格化している。しかし、ジャカルタ市民の中にはこの事業について、無関心だったり怒りを示したりする人も多い。現地取材で見えたのは、日本とは比較にならないほどのジャカルタの格差だった――。
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■2050年には95%が海に沈む
「この島は近い将来、海に沈んでいくそうだ。子供たちが大きくなったとき、この土地も思い出も、すべては海の中なんだろ? 本当にそんなことが起こるのか。今でも俺には信じられないよ」
そう話すのはアミルさん(60代男性)だ。インドネシアのジャカルタ北部にある小さな漁村で出会った彼は、近隣の海で捕(と)れた小魚を売って生計を立てている。
汗が染みついたポロシャツに短パン姿。車両が通るたびに砂埃(ぼこり)が激しく舞う路上の片隅が彼の職場だ。路面に並べた小魚を黙々と籠の中に入れている。そして、咥(くわ)えたばこの煙をくゆらせながら、こう続けた。
「これからの生活? 何も決めてない。自分たちではどうすることもできないんだ。だけど俺は死ぬまでここに住みたいと思っている。ただそれだけだ」
首都水没――まるで映画や小説のような話が今、ジャカルタで起きている。地盤沈下が急速に進み、島が海に沈みつつあるのだ。
世界最大の群島国家インドネシア。その首都ジャカルタはジャワ島北西部に位置し、現在も東南アジアの発展を牽引(けんいん)している経済都市だ。
そのジャカルタが、大きな危機にさらされている。インドネシアにある国立バンドン工科大学の研究によれば、2050年にはジャカルタ北部の95%が海の中に沈むという衝撃的なデータがあるという。
「地盤沈下の主な原因は住民や企業による地下水の汲(く)み上げです。ジャカルタは水道の整備が行き届いておらず、住民の多くが違法な井戸水を汲み上げて生活しています。
現在は、年間15㎝ほど地盤沈下が起きていて、最も激しい場所では、年間28㎝という速さで土地が沈んでいるといいます。すでに北ジャカルタの約40%が海面より低い位置にあるのです」(現地特派員)
こうした地盤沈下に加え、50年には海面が現状から25~50㎝上昇、2100年までにインドネシアの沿岸都市のほとんどが海水に漬かると予測する専門家もいる。
そんな危機的な状況の中、19年にインドネシア政府が打ち出したのが、首都移転という一大プロジェクトだ。
■新しい首都は地価が爆騰中
首都ジャカルタを目指し、筆者がスカルノ・ハッタ国際空港に降り立ったのは7月28日。赤道付近のインドネシアは乾期ということもあり、太陽が容赦なくアスファルトを照りつけ、乾燥した空気が肌にまとわりつく。
最初に向かったのはムルデカ宮殿だ。大統領の官邸である。その周辺には中央省庁が立ち並ぶ。各省庁や裁判所には紅白の横断幕や旗が飾られ、一様にこんなスローガンが書かれていた。
〈インドネシア前進〉
内務省の正面から写真を撮っていると、入り口にいた恰幅(かっぷく)のいい強面(こわもて)の警備員がすかさず近寄ってきた。
「どこから来た? 旅行か? 良い旅を!」
そう言って拍子抜けするほどの笑顔を見せた。
この日、首都中心部は観光バスが列を成し、街全体が独立記念と首都移転を祝うムードに包まれていた。
新首都となる「ヌサンタラ」はジャカルタから約1200㎞離れたカリマンタン島(ボルネオ島)東部にあり、ジャングルを切り開いた場所だ。
その名称は"群島"を意味しており、いくつかの候補の中から現大統領が決めた。政府は45年までに、この地が200万人規模の街になることを目指している。
ジャカルタからは飛行機で約2時間。だが、新首都近くの空港はまだ完成していない。現時点では、カリマンタン島東部のバリクパパン空港まで飛行機で行き、そこから車で約2時間かかる辺境の地だ。
すでに新大統領宮殿や大統領府は完成している。庁舎や公務員向けの集合住宅の一部も出来上がっていた。
「9月からは大臣や公務員の移住が段階的に進められ、まずは38省庁、約1万人の職員が居住する予定になっています」(前出・特派員)
森林都市をイメージして造られるヌサンタラでは、開発ラッシュの勢いも止まらない。
例えば、中国から最新技術を取り入れた自動運転列車を購入したかと思えば、民間企業が中心になって"空飛ぶタクシー"の開発も進められている。
「インドネシアの国営航空機製造会社など数社が空飛ぶタクシーの開発に参入しており、韓国の自動車メーカー・ヒョンデは、ヌサンタラ付近で試験飛行を行なっています」
高級ホテルも次々と建設が予定され、米ホテル大手のマリオット・インターナショナルの建設計画も昨年9月に発表された。
「首都移転を政府が公表してから、密林だった土地の価格が高騰しています。実際に私も19年に5haの土地を購入しましたが、今は価格が2倍になっていますね」
東京ドーム1個強の広さの土地が当時のレートで約1000万円だったという。この社長は将来、購入した土地に住宅街を造ることを計画しているそうだ。
「知り合いの投資家も、ヌサンタラ近くに広大な土地を取得していて、マクドナルドやスターバックスコーヒーを誘致したいと話していました」
この5年間で地価が3倍、4倍に跳ね上がっている場所もあるという。ヌサンタラでは局地的なバブルが発生している。オランウータンの生息地でもあったジャングルが、急速に近未来都市へと変貌しつつあるのだ。
■前のめりの政府と引き気味な市民
政府は、こうした移転計画が順調であることを国内外にアピールしている。7月29日にはヌサンタラにメディアを集め、大統領が新首都に宿泊し、初の執務を行なったことを一斉に報じさせた。
「水も豊富。電気も大丈夫だ」
報道陣の前で、そう胸を張る大統領は余裕の笑顔を見せていた。ところが――。次の瞬間、大統領の表情がわずかに曇った。記者から宿泊した感想を求められると、「あまり眠れなかった」と漏らしたのだ。
現地特派員はこう話す。
「開発が予定どおり進んでいない焦りから、よく眠れなかったというのが本音でしょう。事実、8月17日の第79回独立記念式典には招待客8000人を呼ぶ予定だったものの、インフラの不備などが原因で、直前になって1000人強まで減らす方針転換をしました」
実はヌサンタラでは、水道などインフラは整備されつつあるが、まだ完全とは言い難い。36棟建てる大臣宿舎も、取材時点で3分の1程度しか使用できる状況になかった。
また、総工費4兆円超ともいわれる新都市開発は、外国資本を当てにしている。
「総工費の8割近くを民間企業と外国からの資金で賄おうと各国に投資を呼びかけています。そうした事情もあり政府は、最先端の都市開発が順調に進んでいることを国内外にPRすることに必死なんです」
しかし、海外からの投資は順調に集まっているとは言い難い。例えば、当初は首都移転に協力を表明していたソフトバンクグループも、雲行きの怪しさを懸念してか、早々に出資を見送っている。
別の問題もある。某日本メディアの外信部デスクはこう話す。
「新首都移転は国民のコンセンサスを得られているとは言い難い状況です。約1年前に報じられた現地メディアの世論調査では市民の6割近くが移転に同意していなかった。そうした考えは、今も大きく変わっていないでしょう」
先述したように今秋から公務員の移転が始まるが、現地のジャーナリストによれば、新首都に移住したくないと考えている公務員も少なくないようだ。
そのため政府は、移住に同意した公務員には昇格を加速させると提案し、医師にも優遇措置を与えるなどの策を打ち出している。
ジャカルタの中心部で外国人相手にバーを営むレスリーさんはこう話す。
「私の周りは、しばらくは夫だけ単身赴任で(新首都に)行くだろうと話していました。私? 私には関係ない話。首都移転で喜んでいるのは結局、政府と投資家、金持ちだけさ」
ジャカルタ市内では、ヌサンタラのロゴ入り記念Tシャツが売られていた。だが、店員は「ほとんど売れていません」と明かす。前のめりの政府と国民との間にある温度差が垣間見えたようだった。
■首都を移転するお金があるなら......
「ここは政府に見捨てられた街なんだ」
そう話すシュプリさん(60代男性)と出会ったのは、ジャカルタ北部の海岸だ。ムアラバル地区と呼ばれる、地盤沈下が激しいベイエリアである。取材に同行したカメラマンが2mほどの高さがある堤防によじ登ると、堤防裏で貝を採っていたシュプリさんの姿があった。
「このモスクには海水が入ってきて、もう20年以上前から使えなくなっているんだ」
シュプリさんが指さす先には、水没したモスクがあった。インドネシアは国民の8割以上がイスラム教徒だ。彼らにとってモスクが神聖な場所であることは言うまでもない。かつて、この辺り一帯は砂浜が広がっていたが、年々海水が押し寄せ、2000年頃から浸水を始めたという。
海面から顔を出していた外壁の一部には、黒いペンキでこう落書きされている。
〈KAPOEK PRIDEY〉
通訳によれば、日本語への直訳は難しいが、「ほら、みたことか」というニュアンスに近いという。政府が長年洪水対策を放置し、大切なモスクが海に漬かってしまったことを皮肉っているのかもしれない、とつけ加えた。
政府は14年頃から、浸水を防ぐため、慌てて堤防建設をスタート。だが、その堤防の下部からは、少しずつ海水が染み出しているのが見えた。
海岸沿いには、今にも崩れ落ちそうなバラック小屋が軒を連ねる。外にはシャツや下着が干され、痩せ細ったヤギが放し飼いにされていた。
「堤防がなければ、この一帯は海の中だ。いつかはここを離れなければならないけど、そんなお金はないからね」
そうアリさん(20代男性)が笑った。今夜のおかずにカニを捕っていたアリさんは、移住しようにも、先立つ資金がないと嘆いた。
さらに近隣の定食屋で働く女性は、「ここが海の中に沈むなんてありえないわ」と、現実を受け入れていない様子だ。揚げたチキンの定食にドリンクをつけて2万1000ルピア(約200円)で提供しているが、1日に来る客は数えるほどだという。
現地のジャーナリストがこう語る。
「インドネシアでは、『タペラ』と呼ばれる住宅基金が、ほぼすべての就労者から自動的に徴収されることが決定したばかり。国民が将来住宅を適正に購入できるための強制的な貯蓄ですが、政府は国民に今後新首都で住宅を購入させようとの思惑があるともいわれています。
ただ、多くの貧困層は、こうした制度で救われることはない。まさに今、地盤沈下の影響を最も受けている人たちが置き去りにされているともいえます」
取材で出会ったインドネシア人の多くは「首都を移転する金があるなら、私たちの暮らしを楽にしてほしい」と語ったのが印象的だ。
8月17日に執り行なわれた第79回独立記念式典。ヌサンタラの新宮殿で伝統衣装に身を包み誇らしげな大統領の表情の陰に、困惑する国民の姿が見えた気がした。