ロシアの侵略と戦うウクライナ軍には、世界各国から多くの外国人兵士も義勇兵として参加している。その中でも特に名の知られた精鋭部隊で、高度かつ危険な作戦に身を投じ、死の淵から生還し、勲章を受章した日本人兵士がいる。今も前線復帰を目指す男が語る、すさまじい戦場のリアル。
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軍隊では兵士個人に「コールサイン」(ニックネームのようなもの)がつけられることがある。無線の呼び出しなどに使われることもあれば、単に愛称として定着するケースもあるが、彼のコールサインは〝BIGBOSS〟。以下、本記事では「Bさん」と呼ぼう。
日本の関西地方出身、20代前半のBさんは昨年末、ウクライナ陸軍傘下の精鋭外国人部隊「チョーズン・カンパニー(The Chosen Company:選ばれし者たち)」の一員として、東部ドンバス地方のロシア軍拠点を夜間襲撃で制圧するミッションに参加。
危険を伴う作戦は見事に成功し、Bさんは敵陣内で生死をさまよう重傷を負ったが、ひとりで敵一個分隊を殲滅し、生還。今年2月にウクライナ軍から勲章を受章した。現在はウクライナ国内で前線に復帰するための治療とリハビリに励んでいる。
■近接戦闘訓練で周囲の見る目が変わった
Bさんはもともと、〝日本版海兵隊〟と呼ばれる陸上自衛隊のエリート部隊、水陸機動団(以下、水機)に約4年間所属していた。その間は自衛官の仕事にすべての時間を費やし、休日も自主的に戦術研究やCQB(近接戦闘)訓練に明け暮れていたという。
また、当時から英語も得意で、米海兵隊と水機の合同訓練の際には通訳をするなど、将来有望な若手隊員だった。
ところが、2022年2月24日にロシアのウクライナ侵攻が始まると、周囲の反対を押し切って退官を決意する。
「とにかく民間人が無残に殺されていく状況を許せないと思い、ウクライナで戦うと決め、準備に1年近くかけました。
語学や体力の向上、現地からの動画を見あさりながらのイメージトレーニング、戦場や戦闘に関するデータの収集・分析。元軍人の書籍を読んで、戦闘での精神状態や生理現象について学ぶことにも多くの時間を使いました。
『不安がある=死ぬ』と思っていますので、不安がなくなるまで鍛え続けました。とにかく準備をしていないと死ぬ。いつ行けと言われても行けるようにしておく。そのことが習慣化されたのは、水機にいたからです。本当に感謝しています」
23年6月、ポーランド東部のジェシュフから鉄道でウクライナに入国。友人からの紹介などで、いくつか入隊先の部隊の候補はあったが、待機時間が長すぎた。
そこでBさんは、ウクライナ軍の兵士で知らない者はいないというチョーズン・カンパニーのサイトからメールを送って直談判し、セレクションを受けるところまでこぎ着けた。
「西側の国を中心に、自国での軍隊経験があり、しかも腕に覚えのある者だけが入隊できるのがチョーズン・カンパニーで、給料もほかより高い額が支払われます。自分は年齢25歳以上、軍隊経験7年以上という条件を満たしていなかったものの、技術・体力のテストや面談を経て特別に入隊が許可されました。
やはり入隊当初は周囲からナメられていたのですが、それが変わったのが、塹壕でのCQB(近接戦闘)訓練でした。戦術理解力、判断力、体力などほぼすべての要素が重要で、それらを兼ね備えているかどうかで動きがまったく違う。自分の動きを見て、周囲の態度が明らかに変わっていきました」
Bさんが入隊した23年6月は、ちょうどウクライナ軍が南部を中心に反転攻勢を始めた時期だった。
「西部や中部の首都キーウあたりまでは、思っていたより穏やかな雰囲気でした。しかし、前線はまったくの別世界です。砲撃が多く、夜空が明るく照らし出され、とにかくうるさい。
銃や防弾ベストなどは部隊から支給されますが、自分は水機の時代からこだわりが強かったので、ウクライナに入国する前に100万円以上かけて、別の国ですべて自前でそろえました」
ウクライナ軍の反転攻勢はロシア軍の強固な防衛線の前に苦戦を強いられ、戦線は膠着。西側諸国からの武器支援が停滞したこともあり、秋以降はむしろ劣勢が伝えられるようになったが、Bさんは多くのミッションをこなし実戦経験を重ねていった。
「市街地戦、拠点制圧、拠点防衛、待ち伏せ攻撃、破壊工作、塹壕襲撃、長距離偵察、夜間襲撃。すべてのミッションを行なうのはチョーズン・カンパニーだけです。おそらく優先的に武器も供給されていたので、支援停滞の影響はそこまで感じませんでした」
そんな中、Bさんは12月に東部ドネツク州の激戦地アウディイウカ(後にウクライナ軍は撤退)で、市街地の敵拠点への夜間襲撃のミッションに参加。この戦いで生死をさまようことになる。
■走馬灯のようなものをずっと見ていた
Bさんの部隊は、まずフロントラインゼロ(敵拠点まで100m以内のポジション)で数日間、情報を集めた。
「スコープからのぞけば、赤いテープを腕に巻いたロシア兵が見える距離です。迫撃砲、ドローンからの爆弾、自爆型ドローン、RPG(グレネードランチャー)など、あらゆる攻撃にさらされました。
こちらの拠点もある程度は堅固に造られていますが、それでも近くに砲弾が落ちると一時的に脳震盪になります。激しい砲撃の後にはロシア兵が攻め込んできて、銃撃戦にもなりました」
そんな状況下で、Bさんは敵拠点制圧ミッションのチームに選抜された。作戦開始は夜10時。暗くて付近の地形もあまり把握できず、危険度の高いミッションだった。
「曳光弾がこちらを狙ってくる中、先頭で敵拠点の入り口まで行き、手製の手榴弾を投げ込みました。爆発の衝撃で入り口に大きな穴が開いたのですが、自分だけその穴から地下部分に落ちてしまった。かなりヤバい状況です。
煙が立ち込める中、銃を撃ちながら進むと敵が撃ち返してくる。防弾ベストに4発、左脚に3発食らい、とっさにコンクリートの壁に身を隠しました。敵の声が聞こえ、距離約5mで再び撃ち合いが始まった。手榴弾を7、8個投げ込みましたが、まだ敵の声がして撃ち合いが続きます。
こちらは弾切れになってしまい、ますますヤバい状況でしたが、敵が空のリロード(弾を装填すること)を繰り返す音が聞こえ、お互いに弾切れになったと気づいた。その瞬間、自分が落ちた穴の上から、敵のドローンが爆弾を4発ほど落としてきました。
爆発地点はわずか2m先。無数の鉄の破片が体中に刺さりました。しかし、アドレナリンが出ていて不思議と痛みは感じません。持っている限りの手榴弾を投げたところ、奥にあったガスボンベに引火して大爆発が起き、やっと敵の攻撃がやみました」
Bさんは穴から這い出て、瓦礫の山に身を隠し、脚に止血帯を巻くなど応急処置を施した。周囲に煙が充満していたおかげで、敵ドローンには見つからずに済んだ。
「敵陣地の中ですから、ろくに動くこともできない。誰か助けに来てくれないかと願ったまま気絶してしまいました。目を覚ますとまだ真っ暗で、おそらく朝4時くらい。
明るくなったら敵ドローンに見つかってしまうと思っていたら、7、8m先に身を隠せるスペースを見つけ、匍匐(ほふく)前進でやっとの思いでたどり着きました。自分が通った地面に血の痕ができているのを見た後、また気絶してしまいました」
砲撃の音がして、目が覚めたのは午前11時頃。
「砲撃はウクライナ軍からのもので、どんどん激しくなり、部隊が前進しているのがわかりました。ただ自分は武器もなく、脚が変な方向に曲がっていて動けない。少ししたらまた気絶して、また目が覚めるの繰り返しです。
今、手榴弾を口にくわえてピンを引けば、もう痛みを感じなくて済む......と、自決も本気で考えました。友達や家族のこと、現実にあったこと、想像の出来事―走馬灯のようなものをずっと見ていたと思います。自分の葬式を遺影の位置から見ているという光景も覚えています」
その状態が一昼夜続き、気づけば翌日の昼間だった。
■氷点下10℃、雪の中を決死の匍匐前進
激しい戦闘はまだ続いていた。Bさんは「どうせ死ぬならやれることをやってから」と、戦術式呼吸で気持ちを落ち着かせた。
「水の代わりに自分の小便を飲んで、爆発で焼けた喉を潤し、脱出ルートを考えました。通常では考えないようなハイリスクな選択をしないと、この難局は打開できない。空の色が変わり始め、人間もドローンも視認能力が落ちる夕方5時頃から脱出を試みました。
ベストなどすべての防具を外し、防弾メガネ、ナイフ、手袋だけで、匍匐前進で慎重に進みます。現地の12月はすでに雪が積もり、気温は氷点下10℃。ドローンの音がするたびに動きを止めたので、20m進むのに2時間くらいかかったと思います。
途中でWi-Fiのアンテナが設置されている敵の塹壕や、重機関銃(大口径のマシンガン)が配備されている敵の拠点に行き着いてしまい、何度も来た道を戻っては迂回し、何度も気絶しました。
夢の中で、日本の友達と居酒屋で楽しく飲んでいたら、『こんなことしてる場合じゃないだろう』と言われました。楽しかった思い出が走馬灯となってよみがえる、そのまま気絶する、起きて少し進む。その繰り返しでした」
しばらく進むとBさんは地雷原のエリアに差しかかったが、注意深く土を触って対人地雷の位置を確認し、起爆しないよう通過した。その間も頭上ではずっと砲弾が行き交い、次第に戦闘が激しくなってきていた。
「ドローンからたくさんの爆弾が降ってきました。自分はまだロシア陣内にいましたから、これはウクライナ軍のドローンです。さすがに味方の攻撃で死にたくはない。匍匐前進の速度を上げ、ついに自分たちの拠点が見えました。
ただ、そこに行くには大きな道路を横切る必要があり、スナイパーに狙われやすい。仕方なく2㎞ほど迂回してからウクライナ陣地のほうへ向かいました。
午前11時頃、脱出を始めてから約48時間で、やっとウクライナ兵のいる地域に着きました。発見されたときの自分はぼろ雑巾のようで、すぐに誰だか認識してもらえなかったようですが、英語やウクライナ語で話しかけ、なんとか信じてもらえました」
■戦場を見た以上、無視はできない
止血帯を48時間つけっぱなしだった左脚は神経の4分の3が損傷。大量出血、複雑骨折、体中に刺さった40個以上の砲弾の破片......。医者からは生きているのが奇跡で、左脚は切断することになる可能性が高いと言われた。
「とにかくウクライナ国内では治療ができないということで、すぐにドイツの病院に移送してもらいました。手術前には『術中に死ぬ可能性もある』と言われましたが、無事に成功し、脚の切断も避けられました」
その後、Bさんは驚異的な回復を見せ、3ヵ月後にはドイツで歩行のリハビリを開始。今年4月にウクライナへ戻り、現在も治療とリハビリを続けている。
「本当に良い経験になったと思いますし、自分の能力に対する理解も深まったので、完治したらまた戦線に復帰するつもりです。
あのときの戦闘で4人の仲間が戦死しました。自分の目で戦場を見てしまった以上、このまま無視することもできません。難しいミッションであればあるほど、得るものも大きい。この先も自分の能力を生かすことが最大の貢献だと思っています」
武器支援が滞って戦況が悪化し、一時はウクライナ国内で厭戦ムードに近いものも感じたというが、この夏、ウクライナ軍はロシア領内のクルスク州への〝逆侵攻〟作戦を決行。F-16戦闘機の供与も始まり、雰囲気は大きく変わったとBさんは語る。
「日本でウクライナ関連報道が少なくなっていること、支援に反対意見があることは理解しています。しかし、突然罪なき子供たちがミサイルで殺され、女性は乱暴され、多くの民間人がロシアの侵略の犠牲になっています。もし日本で同じことが起こったら、どう感じるでしょうか?
ウクライナ軍はロシア人を殺すためではなく、家族、愛する人、友人、国を守るために戦っています。法律は助けてくれません。何万人もの兵士が命を捧げました。平和な日本から8000㎞離れた国の現実を認知し、支援していただけたら、それがウクライナの人々の命を救うことにつながります」