海兵隊員としてイラク戦争も経験したサイトウ曹長
立っていても座っていても、みじんも隙を見せない。米軍迷彩戦闘服に身を固めたその男はサイトウと名乗った。出身は日本だが、細かい出自、生年月日、本名は機密。謎に包まれた米軍日本人兵、サムライ米兵の血統。
今の日本は、日米同盟がほぼ唯一の生き残る道となった。米軍との絆が、日本にとって唯一の命綱になっている。いくつもの部隊を見てきた彼が米軍という組織の神髄を語る。
【"米軍全クリ"に最も近づいた日本男児 サイトウ曹長の米軍を巡る冒険譚 〈第1回 入隊・訓練編〉】
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■米軍に指導をする日本人がいた――
アメリカ東海岸、バージニア州。その南部に位置するフォート・グレッグ-アダムスという駐屯地に、国中の兵站(へいたん)関連の陸軍兵が集まる合衆国兵站大学がある。
学びに来るのは新兵ではない。一定の経験を積んだ陸曹や幹部、そして日本の自衛隊を含む約26ヵ国からの留学生がここで研鑽(けんさん)を深める。
サイトウ曹長は米バージニア州にある合衆国兵站大学で武器科の教官を務めた
その施設内にある榴弾砲(りゅうだんほう)の隣で、生徒に向かって話す日本人教官の姿があった。
「――俺が今、スナイパーに撃たれて戦死したとしよう」
山岳戦闘のエリート師団、第10山岳師団を経て武器科の教官になった男を前に、生徒たちに緊張が走る。
「仮にふたりしか砲についていなかったら、戦死した俺の代わりにおまえが777に装填(そうてん)しなければならない。おまえができなければこの分隊は全滅だ」
鋭い眼光とよく通る声から、いくつもの死の現場を経験してきたことがうかがい知れる。
「いいか?『教えてもらおう』なんて思うな。『教えてもらわなかったから』なんて言い訳、本物の戦場じゃ通用しない。生きて帰ってこれないぞ」
合衆国兵站大学には国中の陸曹や幹部、そして約26ヵ国からの留学生が集まる。榴弾砲を囲む生徒に指示をするサイトウ曹長
教官は「サイトウ」と名乗った。陸軍の迷彩服をまとっているが、肩には海兵隊の臂章(ひしょう)が、胸部では海兵隊徽章(きしょう)のバッジが鈍く光を反射している。かつて米海兵隊の一員として、イラク戦争で実戦を経験しているのだ。
そんな類を見ない経歴が生かされた指導方法から、年度優秀教官に選ばれたこともある。
生徒がテクニカルマニュアルを手に榴弾砲を囲んで調べる中、サイトウは自分が青年だった頃、米海軍に入隊しようと、米海軍横須賀基地のある京浜急行横須賀中央駅に降りた日を思い出していた。
■『沈黙の艦隊』と『トップガン』が変えた男の人生
「実は自分、漫画の『沈黙の艦隊』が大好きで。若い頃に読んでからずっと潜水艦に乗りたいと思ってたんです」
インタビューに答えるサイトウ曹長は、米軍を志した理由を懐かしそうに語る。
「あと映画『トップガン』を見て。戦闘機パイロットのあの米海軍の白い制服にも憧れました。
そして、『JSA』っていう韓国映画。38度線上にある共同警備区域(JSA)で大韓民国国軍(韓国軍)と、朝鮮人民軍(北朝鮮軍)の兵士の間に友情が芽生える物語。兵士が見ても面白いといわれる名作です。
でも、やっぱり『沈黙の艦隊』が忘れられず、最終的に海を選び、横須賀に向かいました」
米海軍横須賀基地。サイトウ青年の冒険はここから始まった
米海軍横須賀基地の中には海上自衛隊第2潜水群司令部もある。しかし、サイトウ青年はそれを横目に、米海軍原潜を目指す。
「横須賀基地には、自衛隊でいう地本(地方協力本部)のような事務所があって、入隊の手続きをやってくれるんです。ただ、一般人が行っても無理です。自分はしゃべれないこともあるので、これ以上は伏せさせてください」
横須賀基地内に「US NAVY Recruiting Station Japan(海軍募集事務所)」は確かにある。しかし、入隊するには米国市民権、または永住権(グリーンカード)を保有していることが必須条件になっている。
サイトウ曹長がしゃべれないことの中に米海軍入隊を可能にした何かがあると推察するしかない。
「書類を書いたら入れると思ったら『ASVABという試験を受けろ』って言われて。それから2ヵ月勉強して受けました」
横須賀基地内には「US NAVY Recruiting Station Japan(米海軍募集事務所)」がある
ASVABは陸海空のどの軍に入るにせよ受けなければならない10科目に及ぶ試験で、その成績で適性を見られ、配属が決まる。
「そうしたら自分の成績が良くて、『あんたメディック(衛生)に行くか、原子力関係の仕事に行くか、航空管制官になるかだったらどれがいい?』と聞かれて。その中で潜水艦に乗れる可能性がまだあるメディックを選びました。
それですぐに米シカゴに飛ばされ、教育隊を経てグレートレイクという街にある術科学校に行き、まずはEMT(救急救命士)の資格を取りました」
サイトウ青年はそこでも優秀な成績を修める。
「卒業後の勤務地は成績順に早い者勝ちで希望できたんです。自分は日本の横須賀病院で勤務したかったんですが、そのときは席に空きがなく、第2志望の山口県にある岩国航空基地の岩国診療所勤務になりました。実は岩国のことは何も知らなくて、広島県にあると思っていました(笑)」
最初の勤務先は山口県にある岩国航空基地の岩国診療所。米海軍、米海兵隊、海上自衛隊が同居しており、2012年から民間機の定期便も飛んでいる
岩国航空基地には米海軍、米海兵隊、海上自衛隊が同居しており、第5空母航空団の戦闘機と、海兵隊の戦闘機とヘリがある。
「診療所には、医務官はもちろん歯医者さんもいたし、航空身体検査をするスタッフや看護師もいっぱいいました。
ただ、診療所なのでベッドがなくて、入院が必要な場合は岩国病院ってところに米海軍用救急車でサイレン鳴らして搬送していました。
海自の本部が近くにあったので、そこの連中と親しくなり、よくキャバクラに一緒に行きましたよ。時間があるときは広島の呉(くれ)まで行って、米陸軍のバーに行ったりね」
■海軍から海兵隊へ運命の転属
岩国診療所での充実した日々は2年目に激変する。2004年前後、イラク戦争が激しさを増し、現場に衛生兵が必要とされた。サイトウ上等水兵は優秀な成績から選抜され、海兵隊転属の命令が出た。
「米サンディエゴに行き、海兵隊の教育隊と、メディックの実戦的な内容を学ぶコース、FMSS(Field Medical Service Schools)に入りました」
メディックとはいえ訓練は多岐にわたった。座学はもちろん、山や砂漠での移動訓練、そして射撃訓練まで行なう。
教育隊にいた頃の写真。メディックとしての座学はもちろん、射撃訓練や砂漠などでの移動訓練まで行なった
海兵隊の訓練といえば教官が鬼のように怖いことで有名だが?
「最初に射撃場へ行ったときは超怖かったですね。とある女性の新人隊員が、説明をちゃんと聞いていなかったのか、弾が入っているM16ライフルを構えたまま後ろに振り向いたんです。
そしたら監督していた教官が間髪を入れずに、その人の顔面に蹴りを入れてね。もう鼻血がバーッと出て一面血の海。自分は下向いたまま、『やべえ。ミスったら殺される......』って(笑)。
でも正直、どれだけ威圧的でも、教官に殺されることはないとわかっていたので死の危険を感じることはなかったですね」
問題はむしろ教官よりも、同期だったという。
「映画でよく、せっけんを巻いた靴下を振り回して気に入らないやつをボコボコにするシーンがありますが、せっけんだと体に痣(あざ)が残っちゃうので、実際には砂が使われるんです。痣が残ると、翌日、教官にぶん殴られますからね」
目をつけられるのはどんな人なのか。
「自分のことが好きなヤツ、よくしゃべるヤツ、あとは協調性のないヤツがやられます。基本、班行動なので、協調性のないヤツがいる班はそいつのせいでよく連帯責任で罰を食らうんですよ。
例えば、地図判読訓練では、時間内に山の中や砂漠に隠されたハンコを探して捺印(なついん)しなければならないのですが、そいつのせいでとんでもない所に行って時間内に帰ってこられなかったりしたら、もうボコボコです。
教官もそういうことが起きてると知りながら目をつぶる。一定のラインを越えさえしなければね」
当然のようにサイトウ青年も標的にされた。理由は、年齢だ。
「すでに陸軍では三曹、海兵隊では伍長になっていたので、高卒で入ってくる新兵に比べて、年を食っているのはばれていました。
それで最初の頃にケンカを売られてね。『うるせえよ』って言ったら、そいつが殴りかかってきて。『負けちゃいけねえ』と思ってやり返してね。もうステゴロの殴り合いを、どっちかが負けるまでやるんですよ。
一度負けると、いいカモにされちゃう可能性もあるんで、もうボコボコにするしかない。映画とかでケンカした後に友達になるシーンがあるでしょ。そんなの映画だけですよ。ムカつくヤツと仲良くはならない」
■リアルで密度の濃いメディックでの訓練
それでも、気の合う仲間はいた。
「新兵教育隊とは違って、メディックのコースは週末に自由があったんです。普段から人の命を預かっている責任感もあるし、信用されてるんですよね。『こいつらは自由時間を与えても問題を起こさないだろう』って。
だから週末には同期と飲み歩いてね。あれは楽しかった。飲み屋まで数㎞あったので、基地に歩いて帰ってくる頃にはもう酔いはさめてたけど」
そして彼らと共に、厳しい訓練を乗り越えていく。
「サボテンの実って食べたことがありますか? 頭の上にピンク色の実をつけるサボテンがあって、洋ナシみたいな味なんです。それを仲間と食べるのが砂漠での地図判読訓練の唯一の楽しみでした」
点滴や注射は人間同士で練習した。しかし、実際に戦地で処置する相手は暴れる場合もあるため、撃った豚を押さえて処置する、よりリアルな訓練も
もちろんメディックとして実戦的な訓練も行なう。
「注射や点滴の練習は人同士でできるけど、止血とかはできないので、そういうときは豚が使われました。
教官がショットガンで豚を撃って、メディックの学生がその撃たれた傷の止血をするんです。ショットガンで撃たれた豚は痛みに暴れ回るので、四肢を押さえる係と、止血剤を振りかける係に分かれます。
当時は、止血用の白いパウダー(サルファ剤)を傷口に振りかけて、固めて止血していました。ただ、固まる際に熱くなって逆にヤケドしてしまい、ガーゼをとるときに皮膚も剥がれてしまうという問題点があったので、イラク戦争のときには『使うな』とお達しが出ました。
正しく止血できて豚が死なずにすんでも、教官が頭をポンと撃って殺されるんですけどね......。"戦死した豚"たちは、穴とか掘って、ボンボンと捨てて、埋めて終わりです」
そして、射撃訓練。射撃の腕が悪いと卒業はさせてもらえない。
「距離別に射撃するテストがあって、一定数的中させないと卒業できないんです。自分は最初の頃、射撃がダメで......。練習を重ねて、最低ラインギリギリで合格しました」
縫合の練習はマネキンで。海兵隊の教育隊では食事の時間が設けられておらず、各自自由に取る。砂漠での訓練ではサボテンの実を食べた
そうして3ヵ月の訓練を終え、サイトウ伍長は卒業。そんな彼に配備先が告げられる。
「サンディエゴのミラマー基地に行きなさい」
映画『トップガン』の聖地だ。今そこに、海軍戦闘機のパイロットを鍛えるトップガンの部隊はいない。いるのは米海兵隊飛行隊だ。
「海兵隊に入った時点で、潜水艦にもう乗れないのはわかっていました。それなら、航空に行きたいと思ったんです。成績は良かったので『飛行機だったら、戦闘機でもなんでも乗せてくれ』と言ったら、ミラマー配備となりました」
ミラマー米海兵隊航空基地には、第1海兵遠征軍の第3海兵航空団がいる。サイトウ伍長は、そこのヘリ部隊に配属された。
第2回「イラク戦争編」に続く――。