夫婦別姓を認めない民法や戸籍法の規定は憲法違反で無効だとして訴訟を起こした男女10人。写真は昨年3月に提訴のため東京地裁へ向かう原告たち
6月22日の会期末に向けて通常国会は後半戦に入る。大きな争点のひとつとみられているのが「選択的夫婦別姓制度」の是非だ。保守派を中心に反対論も渦巻く中、ひたすら先送りにされてきたこの議論に、ついに進展があるのか? 今回、「便利になるか、否か」という視点で同制度の本質に迫ってみたい!
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■イデオロギーの対立に
選択的夫婦別姓制度の導入を巡り、国会での議論が熱を帯び始めている。
現行の民法では、結婚する夫婦はどちらかの姓に統一しなければならない。このルールを見直し、姓を「同じにする」か「別にする(=夫婦それぞれが結婚前の姓を名乗る)」かを自由に選べるようにするというのが、選択的夫婦別姓制度(以下、夫婦別姓)だ。
仮に制度が導入されれば、戸籍上も夫婦が別姓であることが認められるようになり、現行法からの大きな転換となる。
この制度には、立憲民主党、国民民主党、公明党が前向きな姿勢を示している。
法案の準備を着々と進める立民の野田佳彦代表は4月4日、「今回は実現するところに意味がある」と記者団に述べ、今国会での法案提出に強い意欲を示した。
だが、公明は自民党との協調を重視する姿勢を崩さず、国民民主は「議論が不十分」と静観。推進派3党の足並みはそろっていない。
自民は、制度導入には否定的な立場を取る。すでにマイナンバーカードや運転免許証、パスポートなどでは結婚前の旧姓の併記が可能となり、さまざまな場面で旧姓を使用できる環境は整いつつある。
今後も旧姓の使用範囲を広げれば十分であり、何も民法や戸籍制度を変える必要はない――これが、自民をはじめとする反対派の主張だ。
夫婦別姓を巡る議論は、1996年、法制審議会(法務大臣の諮問機関)が別姓を認める民法改正案を答申したことに端を発する。それから30年間、この問題が停滞し続けているのはなぜか。
夫婦別姓の議論に詳しい、立命館大学国際関係学部の山口智美教授がこう語る。
「夫婦別姓を巡る議論は、感情や思想、そしてイデオロギーの対立に発展してしまう難しさがあるためです。例えば、反対派からは『夫婦別姓が法制化されると家族の一体感が損なわれる』『戸籍制度廃止につながる』『男女平等の意識が高まり、女系天皇容認の機運が生まれかねない』といった懸念が根強い。
一方の推進派は、こうした反対論の背後に日本会議や旧統一教会といった宗教右派の存在があり、『そうした団体に忖度する自民議員こそ問題だ』と主張する。こうした論調の中で議論は硬直化し、制度そのものの是非を具体的に論じ合う土壌は崩れています。
さらに、実際に困っている人の存在や、根本的には人権問題であるという認識すら薄れつつあるのが現状です」
理想論でも感情論でもなく、夫婦別姓を〝現実ベース〟でどう考えるか? 今、問われているのはその点だ。
日本では、結婚に伴い妻が夫の姓に変えるケースが圧倒的に多い。内閣府の2023年の調査によると、婚姻届を出した夫婦のうち、女性が改姓した割合は約95%に上る。
改姓すると、煩雑な名義変更が山のように待っている。まず役所でマイナンバーカードの氏名変更を行ない、次に警察署や免許センターで運転免許証の名義を変更。
さらに、名義変更に伴うパスポートの再申請には、最大1万6300円の手数料がかかり、印鑑や名刺の作り直し、各種契約書類の更新など、こまごまとした手続きも数多い。
夫婦別姓の法制化を目指す市民団体「一般社団法人あすには」の代表理事・井田奈穂氏は、「これらの負担やコストは、現状ではほとんどの場合、女性(妻)が一方的に背負わされているのが実情です」と話す。
仮に、夫婦別姓が導入されれば、夫婦それぞれが元の姓を名乗り続けることが可能となり、こうした手間やコストの多くは不要になる。
■銀行が旧姓使用拡大を歓迎しない理由
昨年9月に内閣府が行なった世論調査によると、結婚後も旧姓を通称として使い続けたいと答えた人は、43.3%に上った。姓が変われば、メールアドレスの変更、名刺の再発行、給与口座の名義変更といった社内手続きは煩雑で、同僚や取引先に新たな姓を覚えてもらう手間もある。
こうした負担を避けるため、「旧姓を使い続けたい」と願う女性は少なくない。
このような声に応える形で、政府は旧姓の通称使用が可能な場面を徐々に広げてきた。現在では住民票、マイナンバーカード、パスポート、運転免許証、印鑑登録証明書において、戸籍姓と旧姓の併記が認められ、24年5月時点で320の国家資格・免許でも旧姓使用が可能になっている。
とはいえ、現場レベルではまだまだ対応が追いついているとは言い難い。
例えば、内閣府の調査(17年)では、社員の旧姓使用を認めている企業は、全体の約46%にとどまった。「戸籍姓と旧姓の〝ダブルネーム〟のデータ管理は、人事・給与の事務処理を複雑にし、システム改修も必要となるため、導入に慎重な企業が多い」(井田氏)のだ。
中でも、旧姓使用の壁が厚いのが金融機関だ。22年の内閣府と金融庁の調査では、旧姓での預金口座開設に対応していると回答したのは、銀行で約69%、信用金庫で58%、信用組合ではわずか12%。その上、対応済みの銀行の86%、信用金庫の91%が、旧姓口座の存在を『顧客に周知していない』と答えている。
ある銀行関係者がこう話す。
「法的に認められていない旧姓での口座開設は、マネーロンダリングに利用されるなどの観点からリスクが高い。加えて、システム改修も必要で、本音は『旧姓では口座をつくってほしくない』のです」
前出の井田氏がこう続ける。
「名目上は旧姓口座に対応しているとされる銀行でも、現実には、ほとんどの一般顧客が窓口で断られるのが実情で、例外的に認められるのは、税理士や弁護士などの士業の顧客に限られています」
こうした不便さを解消しようと、自民党内では、幅広く旧姓の通称使用が可能になる制度を国や地方公共団体、企業、各種団体に義務づける法整備の検討を進めている。これが実現すれば、現場での煩雑な手続きや不利益の多くが解消される可能性がある。
それならば、民法を改正して夫婦別姓を導入する、という大規模な制度改革を行なうより現実的ではないか――そうした声も少なくない。
■コスト安はどっち?
では、夫婦別姓の導入と旧姓の通称使用の拡大、社会的コストがよりかかるのはどちらなのだろうか。
「通称使用を拡大するほうが、戸籍姓と旧姓というダブルネームの管理が必要となるため、システム改修や維持の面でよりコストがかかります」(井田氏)
実際、旧姓併記のためのマイナンバーや住基システムの改修には、すでに多額の税金が使われている。総務省によれば、16年度から3年間で、全国の自治体のシステム改修に少なくとも約194億円の予算が投じられた。
「自治体単体で見れば、例えば宮城県仙台市では、旧姓併記のシステム改修に約4億2000万円。国からの支出もありますが、自治体独自の負担も大きく、同市では約1億6600万円が一般財源から出ており、市の財政を圧迫しています」
今後、旧姓の通称使用が義務づけられれば、当然、追加コストが膨らむことになる。
「旧姓に対応していない金融機関では、それぞれが個別にシステムを改修する必要が出てきます。例えば、ゆうちょ銀行では数年前から旧姓での口座開設を可能にするシステム改修を進めていますが、23年の段階で数億円規模の費用が発生していることが国会の答弁で明らかになっています。
旧姓口座に未対応なのは、銀行で約3割、信用金庫で約4割、信用組合で約9割。これをすべて旧姓対応するとなると、金融業界だけでも莫大な追加コストが発生することは避けられません」
企業も同様だ。給与や人事関連のシステムで旧姓を本格運用するとなれば、社会全体で膨大な費用がかかる。
では、夫婦別姓の導入にはどれだけのコストがかかるのか。井田氏がこう話す。
「実は、96年の法制審議会の答申以降、現在の戸籍システムは夫婦別姓にも対応できるよう設計されています。軽微な設定変更だけで大がかりな改修は不要です」
都内の食品会社に在籍する人事担当者がこう続ける。
「企業側にとっても、ダブルネームの管理が不要になり、社員の本名をそのまま使える環境になるため、人事・給与システムなどで『戸籍と旧姓の照合』『名寄せ』『書類ごとの併記』といった複雑な処理が必要なく、システム改修の必要性も低い。導入時のマニュアル改定や研修程度の対応で済むケースが多いはずです」
コスト面で見れば、夫婦別姓の導入は、むしろ社会全体のコストを抑える現実的な選択肢といえそうだ。
■「旧姓に戻りたい」と突如、妻に言われたら?
では、実際に夫婦別姓が導入されたら、社会にはどのような変化が起きるのか。
まず考えるべきは、「別姓を望む夫婦」がどのくらい存在するか、という点だ。日経電子版が2月に行なった調査(20~50代読者・男女2347人が回答)によれば、既婚女性(515人)のうち、52%が「(結婚時に)別姓を選びたかった」と答えている。
「正社員やキャリア志向の女性が多い媒体であるため、やや高めに出た可能性はありますが、それでも社会全体で見れば既婚女性の3割前後、少なくとも4人に1人は、『旧姓に戻したい』とパートナーに申し出る可能性を示唆していると思います」(井田氏)
つまり、夫婦別姓はこれから結婚する世代だけでなく、既婚夫婦にとっても現在進行形の問題となるのだ。そして、夫婦の95%が、女性が男性の姓に変えている現状を踏まえれば、〝改姓の選択権〟を持つのは圧倒的に妻側となる。
さらに、大阪大学大学院の三浦麻子教授の調査では、結婚時に「どちらの姓を名乗るか」を話し合っていない夫婦は、78%にも達するという。
香川県在住の50代男性は、結婚時に「姓を変えたくない」という妻からの意向を受け、事実婚という選択をせざるをえなかった。当時の心境について、こう振り返る。
「私自身は夫婦別姓に抵抗はなかったので、妻の意向を尊重しました。しかし、私の母は難色を示し、祖母には反対されました」
夫婦別姓は、家族や親族を巻き込む価値観のぶつかり合いにも発展しうる。
ではもし、夫婦別姓が法制化されたのを機に、妻から「旧姓に戻したい」と言われたらどうするか......?
「まずはきちんと話し合うことが大切です。もしかすると、結婚後に名前を変えたことで、実は妻が長年ストレスを抱えていたのかもしれない。相手の気持ちを受け止められなければ、夫婦関係に亀裂が生じるリスクもありえます」
一方、内閣府の21年度の調査によれば、結婚をためらう理由として「名字・姓が変わるのが嫌・面倒だから」と答えた女性は、20~39歳で約25%、40~69歳では35%に上った。
「夫婦別姓が実現すれば、これまで結婚をためらっていたカップルも前向きに婚姻に進む可能性があり、結果として、婚姻率の上昇にも寄与するかもしれません」
■避けて通れない子供の姓という問題
夫婦別姓の導入を語る上で避けて通れないのが〝子供の姓〟の問題だ。
現行の法案では、別姓を選んだ夫婦の子供については、出生時に夫婦間で話し合い、どちらの姓にするかを決めることができるとされている。だが、夫婦間で意見が一致しないケースも想定される。
例えば、夫婦が共にひとりっ子の場合、子の姓をどちらかに決めれば、もう一方の家の姓が絶える恐れがある。そうなれば、「家名の存続」を巡って親族同士が対立し、泥沼の争いに発展することも考えられる。
こうした場合、家庭裁判所が姓を決定できるとされているが、果たして、当事者全員が納得できるような審判が下せるのか? 少なくとも現時点では、これに対する明確な解決策を示している政党は見当たらない。
子供の貧困やいじめ、虐待などの問題を研究する国立大学の准教授が、匿名を条件に夫婦別姓に対する見解についてこう語る。
「子供の成長にとって、最も大切なのは家族の一体性です。しかし、夫婦別姓が導入されれば親子間、あるいはきょうだい間で姓が異なる可能性があり、結果として家族の一体性が損なわれる恐れがあります。
個人主義や自由主義に傾倒するかのようなこの制度は、意図せず家庭崩壊を促進させ、多くの子供に不利益をもたらす可能性もある。だから、私は夫婦同姓を原則とする『旧姓の通称使用拡大』を支持します」
一方、市民グループ「選択的夫婦別姓制度を願う香川県民の会(ぼそぼその会)」の山下紀子代表は、自らの体験談を踏まえてこう反論する。
「結婚後に夫の姓に改めたことで、病院の待合室で自分の名前を呼ばれても気づかず、入院した際には慣れない姓で呼ばれ、深い憂鬱感に襲われました。最終的には、自分の名前を取り戻すため、ペーパー離婚に踏み切らざるをえませんでした。
姓の変更によって重い自己喪失感に苦しむ人や、場合によっては適応障害に陥る人ももいます。私のように、生まれ持った氏名が、アイデンティティ根幹である人たちにとって、旧姓の通称使用では問題解決にはなりません」
高コストを伴う「旧姓の通称使用拡大」と、家庭に混乱や対立を持ち込むリスクがある「選択的夫婦別姓」。どちらが日本の家族像にふさわしい制度なのか、立ち止まって考える必要がありそうだ。