佐藤優と前田日明。元外交官と元格闘家。この、意外にも見える組み合わせには確かな理由がある。
佐藤氏は1988年から95年まで、在ソ連・在ロシア日本国大使館に勤務。ソ連崩壊を招いた91年のクーデターも渦中で経験した。ゴルバチョフ大統領(当時)の安否を日本の外務省に報告したのも彼である。
一方の前田氏は、91年に設立した総合格闘技団体「リングス」に、ロシアから未知なる強豪を次々と招聘(その多くは軍の関係者でもあった)。その太いパイプを生かし、自身の引退試合(99年)ではロシア最高の英雄にして“霊長類最強”といわれたカレリンと対戦するという偉業を遂げた。
つまり、日本で最も深く、深く、「ロシアの強い男たち」と関わり合ってきたふたりなのだ。
では今、強いプーチン、強いロシアと、日本人はどのように付き合っていけばいいのか? このタイムリーな大問題に答えるのに、このふたりほど適格な人物はいないのである。
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前田 リングス・ロシアを立ち上げたのは1991年の秋頃なんですよ。
佐藤 設立の話は私の耳にも入ってきていました。というのも当時、猪木寛至先生が国会議員になられまして、ロシアに訪問された際に大使館のほうに来られましたから。私は猪木先生のアテンド係だったんです。
前田 そうだったんですか。
佐藤 その頃、私はロシア大使館の政務班にいまして。猪木先生は難しい人のひとりということで、そういう案件は私のほうによく回ってきましたので。
前田 ということは、新日本プロレスが初めて開催した東京ドーム大会(89年)に、ショータ・チョチョシビリ(ミュンヘン五輪柔道金メダリスト。09年没)を引っ張り出したのは佐藤さん?
佐藤 いえ、そこまで深くは関わっていませんが、チョチョシビリとは何回か飲みました。彼からグチは聞かされていましたよ。ドーム大会で猪木先生に勝ったのに、勝利者賞のスポーツカーをもらえなかったそうで(笑)。
前田 よくないな。
佐藤 最終的にはランドクルーザーをもらえたようですが(笑)。
酒を飲まない男はロシアでは信用されない
前田 リングス・ロシアの設立当初は、そういう猪木さんの口約束の尻拭いばかりさせられましたよ(笑)。“アイツは猪木の弟子だ”ということで、なかなかロシア側に信用してもらえず大変でした。
でも、猪木さんがあのドーム大会にロシアの格闘家たちをリングに上げてくれたおかげで、リングスにも彼らを引っ張り込むことができるんじゃないかと思ったんです。
佐藤 当時のロシアの窓口は誰だったんですか。
前田 元・国家スポーツ省の事務次官だった、ウラジミール・パコージンです。
佐藤 それはいい人物に食い込みましたよね。
前田 ええ、今も言ったように最初は信用してもらえませんでしたから、彼に紹介してもらうロシアの官僚や要人のパーティに出席して、勧められるがままに浴びるように酒を飲み続けました。あの頃はもう、ロシア滞在中はずっと酔っぱらってる感じ(笑)。苦しかったのは、山羊角の容器にワインが入ってるやつ。
佐藤 コップ1杯分しか入ってないと思いきや。
前田 ワインのボトル1本分ぐらい奥まで入ってますから(笑)。
佐藤 とにかく朝からウオツカが出てきますし。飲めない体質の人は飲まなくてもいいんですが、飲めるのに飲まないのはロシア人から警戒されます。
前田 ええ、そうやってコツコツと彼らとの距離を縮め深めていったんです。いやでも、人間関係が深まるにつれ、刺激的な経験をさせてもらいましたよ。
リングス・ロシアのスタッフが、いきなり目の前に巨大なダイヤモンドを持ってきて「これ、日本で売れないか」と言ってきたり、しまいにはツンドラが解けてマンモスとサーベルタイガーを掘り当てたから、日本の博物館に売ってくれとか(笑)。
佐藤 現在はマンモスの売買はダメですけど、一時期は牙を持ってきて印鑑用にどうですか、とロシアの人たちが商売を持ちかけてきたものです(笑)。
■対談の続きは、週刊プレイボーイ19・20合併号「北方領土返還も十分アリ。強いプーチン&ロシアとの付き合い方」に掲載しています。
(撮影/本田雄士)