累計3000万部突破の大ヒットコミック『進撃の巨人』の、まさかの実写映画化が決まったが、ロケ地に選ばれたのは「廃墟マニアの聖地」だった。
長崎半島の先に浮かぶこの島は、日本有数の石炭採掘場として繁栄を極め、その姿から「軍艦島」と呼ばれるようになった――。写真家の酒井透が島の立ち入り禁止区域を歩いた。
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■「ロケしたら建物倒壊すんじゃね?」
昭和49年(1974年)から40年間「無人の島」だった軍艦島(長崎県長崎市端島[はしま]/端島炭鉱)が、まさかのブレイクをしようとしている。
長崎港から南西に約18km。縦480m、横160m、周囲は1.2kmという小さな島だが、かつてここは、島全体が炭鉱だった。この島から海底奥深く掘って産出した石炭(強粘結炭)は非常に良質なもので、日本の戦後復興と高度経済成長を支えてきた。
軍艦島の最盛期は1960年(昭和35年)。人口は5300人(人口密度は東京都の約9倍!)以上に膨れあがった。しかし「石炭から石油へ」という日本のエネルギー転換によって1974年に閉山され、全島民は島を出ていった――。
それからちょうど40年。
4月2日、累計3000万部突破のコミック『進撃の巨人』の実写映画版(樋口真嗣監督)が、この軍艦島でロケを行なうと発表され、ファンは素早く反応した。
「軍艦島ってどんな所?」
「炭鉱って何?」
「そんな所でロケしたら建物倒壊すんじゃね?」
「軍艦島に残されているのは昭和を感じさせる風景。『進撃の巨人』は中世ヨーロッパが舞台だけど」
撮影は今年初夏に始まる予定だ。
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近年は「廃墟マニアの聖地」としてひそかな人気を集めていた軍艦島だが、実は今年に入って、2015年のユネスコ世界文化遺産登録に向けた“航海”が始まっている。
政府は今年1月29日、八幡製鉄所(北九州市)や長崎造船所などの28施設を、「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」として、ユネスコに推薦書を提出。そこに軍艦島も含まれたのだ。
一般立ち入り禁止区域へ突入
ちなみに軍艦島は今、長崎市が管理する。ここで石炭の採掘をしていた三菱マテリアルが、2001年に高島町(当時)に無償譲渡し、その高島町が2005年に長崎市に編入されたからだ。
島内の建物は倒壊の危険性が高く、長崎市が認めた観光上陸を除き一般上陸は禁止されている。島の東側に遊歩道を整備し、観光上陸を“解禁”したのは2009年4月からで、当初は「ガッカリ観光地」と揶揄(やゆ)もされていたが、全国各地から訪れた観光客はすでに40万人を突破。観光上陸ツアーなどによる収入は65億円以上にのぼる。もし軍艦島が世界遺産に登録されたら、観光客は年間20万人、経済効果は年間101億円と算出されている。
■「本当に夢のような時代でした……」
筆者は今回、長崎市より特別な許可を得て軍艦島に上陸し、一般立ち入り禁止区域も存分に取材・撮影をしてきた。そこで見たのは、かつてここが、いかに活気に満ちた島だったかという証だ。
同島の東部区域には、海底深くから掘り出した石炭を製品炭にするために使った、選炭施設や貯炭場、竪坑桟橋などの遺構が残る。「鉱業所」と呼ばれる、桟橋に近いこのエリアは、市公認の観光ツアーで見学することが可能だ。
島内は廃墟の宝庫、島最大の巨大建築物も
一方、立ち入り禁止区域となっている西部区域には、炭鉱で働いていた人たちや家族が暮らしていた建築物が今も20棟以上残されている。このエリアに残された建物のなかで特に歴史的に重要なのは、30号棟や日給住宅(16~20号棟)、65号棟であろう。
30号棟は、大正5年(1916年)に建てられた日本最古の鉄筋コンクリート造りのアパートだ。「日給住宅」は大正7年(1918年)から大正11年(1922年)にかけて建てられたもので、9階建てアパートは当時の国内最高層。建物は鉄筋コンクリートだが、中は昔らしい平長屋造りになっていて、家の中に土間があるのも面白い。
そして65号棟は、総戸数300戸以上を誇る大きな建物。前述のように軍艦島は人口密度が異常に高かったため、住居は高層にせざるを得なかったのだが、今やそれらすべてが廃墟マニアから見れば、垂涎(すいぜん)の被写体となっている。
世界遺産認定の裏に潜む課題とは
このように、炭鉱の遺構や貴重な建築物が各所に残された軍艦島だが、悩ましい問題も生じている。「強制連行」をめぐる話である。
4月2日、世界遺産登録に反対する中国の訴訟代表団が、第二次大戦中に「強制連行」されたとして、三菱マテリアル(当時は三菱鉱業)を相手に、約38億円の損害賠償を求めて中国・河北省高級人民法院(高裁)に提訴したのだ。さらに翌日の記者会見には韓国の対日訴訟関係者も同席している。
こうした集団訴訟は最近、北京など中国各地で起こされており、確かに軍艦島には戦時中(昭和18年)、朝鮮人500人、中国人240人がいたという調査結果もある。だが、実際どこまで「強制」だったのか?
今後のユネスコの解釈が注目される。
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軍艦島は今年1月15日に「閉山40周年」を迎え、4月20日には「全島民離島40年」を迎える。軍艦島で働いていた、長崎市在住の70代の男性は当時をこう回想する。
「私は昭和36年か49年まで端島の採炭現場で働いていました。端島で採れる石炭は粉状で、とても上質。普通、炭鉱にはボタ山(*ボタとは、石炭採掘の際、一緒に掘り出される捨て石。その集積がボタ山)があるのですが、ここの石炭は捨てる部分がないので、採掘した所を埋め戻すためにわざわざ(隣の)高島からボタを持ってきていたほどです。
島での生活は充実していました。端島炭鉱は他の炭鉱に比べて給料も良かったので、三種の神器(テレビ、洗濯機、冷蔵庫)もすべてそろっていた。本当に夢のような時代でした……。
全国各地から集まっていた炭鉱夫たちは、閉山後はまた他の炭鉱や、関西の工場に移ったりしていきました。しかし一度時代に捨てられた島が、こうして脚光を浴びて世界遺産に推薦されるなんて、考えたこともなかったです」
廃墟の中には日々の暮らしを象徴する日常品も
彼の話にもあるように、軍艦島の西部区域に立ち並ぶアパートには、昭和40年代の冷蔵庫や炊飯器、洗濯機、そして子供たちのおもちゃや滑り台などが今も残され、また、映画館やバーの跡もあり、ここには豊かな生活があったことをうかがい知ることができる。
今年のゴールデンウイーク、さらに大勢の観光客が軍艦島を目指したはず。そしてこの夏には、ユネスコの依頼を受けたICOMOS(国際記念物遺跡会議)が現地調査を行なう予定だ。「廃墟の島」から「世界遺産」へ――。軍艦島は、来年6月の世界遺産登録に向け、大海原へとこぎ出した。
(撮影・文/酒井 透)
■『未来世紀軍艦島』 酒井 透(ミリオン出版) 海に浮かぶ炭鉱の島に残された、炭鉱の遺構や建築物に魅せられた(?)酒井氏が、それらを未来に語り継ぐために編んだ写真集が発売中