5月14日、「全国クレジット・サラ金被害者連絡協議会」(被連協)の事務局長だった本多良男氏が、がんのため亡くなった。享年73。
本多氏は法律事務所の事務員だった1983年、借り手の幼い子供からも金をむしり取っていく非道な取り立ての現場に接し、こんなことを許すわけにはいかないと、94年に多重債務者の救済団体「太陽の会」を東京に設立。そして98年には、サラ金などの多重債務者の救済や生活再建、被害告発などを行なう全国の被害者団体の集まりである、被連協の事務局長に就任した。
彼が2013年に同職を退くまでの16年間は、多重債務者救済運動が最も盛り上がりを見せた時期に重なる。被連協は、弁護士、司法書士、学者、消費者団体などからなる「全国サラ金問題対策協議会」(現・全国クレサラ・生活再建問題対策協議会)と共闘してさまざまな成果を挙げたが、その白眉はなんといっても06年の、グレーゾーン金利撤廃や借入総量規制を盛り込んだ改正貸金業法の制定だ。そう、本多氏は、日本中の多重債務者が救われることになった、過払い金返還への筋道をつくった功労者のひとりなのだ。
ほかにも彼の在任中の被連協は、山口組系ヤミ金・五菱会(ごりょうかい)の摘発(03年)、青木ヶ原樹海への、借金苦での自殺を思いとどまらせる看板の設置(07年)、全47都道府県への多重債務被害者団体設置(08年)などに尽力している。
本多氏の活動は多岐にわたった。個々の多重債務者の相談に乗るのはもちろん、貸し手のヤミ金事務所を訪れての交渉、裁判所前でのビラ配り、集団訴訟における原告とりまとめ、被害の状況を訴える全国キャラバン・デモ・集会への参加、改正貸金業法制定後、政府内に設置された有識者会議への出席など。ほぼボランティアに近い仕事にもかかわらず多忙を極め、事務所で寝泊まりすることもたびたびだったという。だがそこまで頑張っても、活動の初期は報われないことのほうが多かった。
ヤミ金業者からの脅迫にもめげず20年
太陽の会で長年活動を共にし、被連協の現事務局長である司法書士の秋山淳氏が振り返る。
「思うような結果が出ず、さんざん苦杯をなめていたんですよ。でもその都度、本多さんはめげずに立ち上がり、また活動の先頭に立っていました。債務者救済運動は80年代に始まり、法改正という形で実を結んだのが06年なので、彼は20年以上、人生をかけて運動していたことになります」
また、本多氏の存在を疎ましく思う相手からの妨害もあった。
「ヤミ金業者らしき人物から、『おまえの子供を殺す、埋める』などと脅されたり、事務所に本多さん宛ての弔電が送られてくることもしばしば。でも彼本人は、どこ吹く風。いつも笑いながら、楽しそうに戦っていた」(秋山氏)
そんな本多氏が末期がんに侵されていることがわかったのが、12年12月。医師からは余命6ヵ月と宣告されながら、診断より1年も長く持ちこたえたのだが、結局帰らぬ人となってしまった。
長年、弁護士として多重債務者救済運動を牽引(けんいん)してきた本多氏の戦友、宇都宮健児氏は言う。
「涙もろくて、情に厚い人でした。覚悟はしていましたが、いざ本当に亡くなると、寂しい思いでいっぱいです。ただ、本多さんがちょうど活躍された時期に、運動の大きな成果が上がりました。その面では、達成感も持っていらしたのではないでしょうか」
ところがまた今、自民党の一部議員の中に、貸金業者の金利上限引き上げや、借入の総量規制を撤廃しようという、揺り戻しの動きが出てきている。
これでは本多氏も、安らかに眠っていられないではないか……。