あの苦難の記憶から来年には70年ーー。終戦記念日がやってくる真夏になると、思い返すのももはや日本人としてのアイデンティティなのだろうか。
ゼロ戦、そしてカミカゼ。現在では神格化されたキーワードでもあるが、その真っ只中にいた若者たちはちょっとリア充で、ユーモアもあり、いまの若者と変わらない男たちだった。元特攻隊員の生き残りの男たちがリアルな人生を語る、好評シリーズ第三弾!
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「特攻に指名されないことを祈っていた」。そう語る手塚久四(ひさし)さん(91歳)は、学徒出陣で海軍に入隊し、ゼロ戦乗りとなった。そんな手塚さんは、どのような学生時代を送っていたのか?
手塚 僕は栃木の中学を卒業して、仙台の旧制高校を受験しました。でも、落ちちゃった(笑)。だから、1年浪人して、昭和15(1940)年に静岡の旧制高校に入りました。田舎から来たのは僕ぐらいだった。
―田舎から出てきて、驚いたことは?
手塚 学校の寮に音楽室があって、そこで生まれて初めてベートーベンやシューベルトなどのクラシック音楽を聴いた。これには酔いしれました。そもそもクラシックは初めてだったので、カルチャーショックでしたよ。
―そのほか衝撃だったことは?
手塚 歓迎ストームがすごかった。
―歓迎ストームとは?
手塚 高校の先輩たちがね、寮の廊下をいっぱいに腕を組みながら下駄履きのまま走ってきて、僕ら新入生を怒鳴ったり水をかけたりする。これは新入生の歓迎なんですけど、ただ怖かったね。
―手塚さんはストームをやる側にはならなかったんですか?
手塚 僕もやったよ。昭和15年は皇紀二六〇〇年。それを祝して、警察が普段は禁止されていた街頭でのストームを許可してくれたんです。学生たちが大騒ぎしながら街を練り歩くことですよ。みんなで肩を組んで「ウォウ! ウォウウォウ!」と叫びながら大騒ぎする。そして校庭でたき火をして、また「ウォウ! ウォウウォウ!」ってやった(笑)。これは楽しかったよ。 昭和15年当時は、まだ街にも学生たちにも戦時色が濃くなかった。「ああ、高校に入ってよかったな!」と純粋に学生生活を楽しんでいましたね。
―戦時色が濃くなったのは、いつぐらいからですか?
手塚 やはり昭和16(1941)年12月8日の開戦ですよ。1時間目が終わって食堂に行ったら、「本日、未明。敵米英と戦闘状態に…」ってすごい金切り声のラジオ放送が流れた。これは、びっくりした。
―開戦を聞いた学生たちが歓声を上げたりは?
手塚 全然。“しーん”と静まり返ってた。僕もショックだったよ。高校も半年繰り上げで卒業することになったしね。―卒業後は東京大学へ進学。大学ではどんな勉強を?
手塚 経済学部で米国経済交通事情を学んでいました。「アメリカは飛行機が発達して、道路も舗装されている」「経済力、工業力、資源もアメリカが圧倒的に上である」などと勉強していましたから、「アメリカと戦争するなんて、こりゃ負けるんじゃないか」と思いましたよ。だから前へ出て勇ましく戦う気にもなれませんでしたね。
―しかし、手塚さんは昭和18(1943)年の10月に学徒出陣で海軍への入隊が決定する。なぜ、海軍を選んだのですか?
手塚 当時は陸軍と海軍、どちらへ入るかを選べました。僕は兄弟がみんな陸軍に入っていて「陸軍はひどいよ。飯もまともに食べさせてもらえない」と聞いていた。何より海軍のほうがカッコいいから、海軍を選びました。
ゼロ戦から見える絶景は操縦員の特権
―海軍に入ってから、まずどちらで訓練を受けたんですか?
手塚 横須賀の武山海兵団へ行きました。カッター(ボート)訓練をやると、手やお尻がボロボロになる。寒くて痛くて大変だった。
―海軍では飛行機の操縦員を目指したんですか?
手塚 僕は経済学部だから、主計(経理をはじめ、被服・食糧などの管理を担当する要員)になりたかった。食糧の管理をするからいいことあるんじゃないかと(笑)。でも、操縦員の適性検査に合格したから主計になれなかった。
―操縦員の適性検査はどんなことをするのですか?
手塚 360度方向に回転するイスに座るんですよ。それをグルグルと全力で1分以上も回転されてガッシャーン!と停止したら、バーン!とイスから弾き飛ばされる。この状態から1分以内に立ち上がらないといけないんです。僕もフラフラだったけどなんとか立ち上がれましたね。なかには吐いている人もいましたよ。
―操縦員に合格してしまった手塚さんは、茨城県の土浦航空隊で訓練を続けることになった。ここでの訓練はどうでしたか?
手塚 真冬でもパンツ一枚でランニングするんです。これは寒かったな。あと、電信で使うモールス信号。〝ト・ツーツー・ト・ツー〟というように記号を打つんですけど、これがなかなか覚えられない。僕は運動よりこっちのほうがキツかった。だってノイローゼになったのもいるぐらいですから(笑)。
―基地には物資も豊富にあったのですか?
手塚 海軍は食糧もお酒もたばこも豊富でしたよ。ただ、煮魚はまずかった。
―煮魚って失敗しようがない気がするのですが!?
手塚 サメの煮魚が出るんです。これがアンモニアのにおいがしてまずかった(笑)。
―体罰もあったんですか?
手塚 すごいですよ。ちょっとミスしたら総員修正ですから。
―総員修正とは?
手塚 連帯責任ですから、ひとりがミスしたら全員が殴られるんです。みんなが一列に並んで、2発ずつバーンッ!と殴られる。ヒドい人は奥歯は折れるし、顔はアザだらけ。これが毎日ですよ。
―パンチを避けたりガードしたりできないんですか?
手塚 もっと殴られるだけ(笑)。
―それでは、飛行機についてもお聞きします。初めて飛行機に乗ったのはいつだったんですか?
手塚 昭和19(1944)年の6月。茨城県の谷田部海軍航空隊でした。ここで練習機の赤とんぼを使って離着陸の訓練を毎日やっていた。自動車の教習所みたいなもんですよ。
―練習機の次はどんな飛行機に乗ったのですか?
手塚 ゼロ戦に乗りました。
―なぜゼロ戦に?
手塚 運動神経が優れていたからゼロ戦に乗れたんですよ(笑)。ゼロ戦はひとり乗りの戦闘機です。戦闘機は操縦、航法、戦闘、電信すべてを自分ひとりでやる。優秀じゃないと務まらないんですよ。
―映画『風立ちぬ』や『永遠の0(ゼロ)』で、話題になったのゼロ戦ですが、本当に優秀な機体だったのですか?
手塚 練習機とはまったく違う金属の塊です。でも、旋回性や機動力がすごい。宙返りや反転は簡単にできた。馬力を出してクルッと回るだけ(笑)。機体をわざと失速させて敵機の後ろへ回り込んだり、敵機に被弾したふりをして、きりもみ状態で降下したりできる。きりもみ状態で降下すると、地上がグルグル回っているんです(笑)。ゼロ戦は、なんでもできましたよ。
―ゼロ戦で飛行中に見た印象的な景色は?
手塚 虹がきれいだった。上空で見る虹は円なんですよ。上昇して雲を突き抜けると虹があって、そのど真ん中に自分のゼロ戦がいる。この景色は操縦員の特権です(笑)。
―よく映画だと、飛行中のゼロ戦の風防を開け飛行していますけど、実際あのようなことを?
手塚 あれは、やりませんよ。スピードが出なくなるし、何より寒いですから。
特攻希望調査書?
―では、特攻隊員に選ばれたのはいつだったのですか?
手塚 昭和20(1945)年の2月20日です。全員が講堂に集合して上官から「現下の戦局が厳しい状態にあるので、特攻をもって戦局の大転換を図る!」と訓示があり、その後に身上書を渡されました。身上書には家族構成、学歴などを書く。そしてもう一枚用紙がありました。
―もう一枚の用紙とは?
手塚 特攻希望調査書です。「熱望」「希望」「否」の3つが書いてあって丸をつけろと言うんですよ。
―みんなどうしたんですか?
手塚 勇ましい人は「熱望」に丸をつけて、「やるぞー!! ウォォォー!」って講堂を飛び出していった。彼らはみんな死んじゃったよ。
―手塚さんはどれを選択?
手塚 う~ん、「熱望」は絶対に無理だし、かといって「否」に丸をつけることもできないし……。
―「希望」にしたんですか?
手塚 「希望」の「希」にバッテンして、ただ「望む」と書いて出しました(笑)。
―「否」を選んだ人は?
手塚 後で聞いた話だけど、いた。「僕はまだ操縦員として未熟で、特攻作戦に参加できません」と理由を書いていたけど、翌日に大修正ですよ。結局ね、どこ丸つけても無駄だったみたい。
―特攻要員になってからはどんな行動を?
手塚 僕の場合、沖縄戦が終わった昭和20年の6月23日、この2日後に本土決戦用の特攻隊が編成されました。それに僕が選ばれ、北海道の千歳海軍航空隊へ向かうことになりました。
―この間、家族には会えたのでしょうか?
手塚 5日間の休暇をもらいました。「家族へ別れのあいさつをしてこい」ということなんですけど、家族に「特攻で死にます」と言えないから実家に帰るのがいやだった。
―実家へは帰らなかった?
手塚 結局帰ったけど、特攻のことは言えなかった。ただ、お酒を飲んで歌っていましたよ。
―千歳ではどんな訓練を?
手塚 飛行場の真ん中に飛行機を模した木の枠を組んで、それを目標に訓練を行ないます。
―目標に向けて急降下ですか?
手塚 上空3000~4000mぐらいから全速で急降下して、地上400mで一気に機体を引き起こすんです。このような急降下ができるのは、ゼロ戦ならではです。
―急降下中はどんな状態に?
手塚 時速500キロ以上も出ているから、ベルトをしてても腰が浮く。計器はあるけど針の動くのが遅れるから、目測で操縦桿を起こすんですね。
―引き起こす操縦桿は重い?
手塚 両手で引っ張って、両足も踏ん張るんです。それで、やっと機体の先端が上空を向く。でも、上空を向いた状態のまま、ブワァ~っと機体が沈んでいく。この地上に吸い込まれる感覚が本当に怖い。失神する人もいますからね。
―事故もあったんですか?
手塚 急降下の訓練中に街に突っ込んだ機体がありました。あと、0.2秒でも早く機体を引き上げれば助かったと思いますが無理だった。操縦員と民間人も亡くなりました。けど、当時は何も報道されなかった。
―なぜ?
手塚 ゼロ戦が事故を起こしたなんて報道できませんよ、当時は。
空路での移動なら死んでいた
―特攻出撃の命令は、いつ受けたんですか?
手塚 昭和20年の8月13日です。13日の朝に命令されて、香川県の観音寺航空基地へ移動することになりました。香川の基地に、もう爆装されたゼロ戦があるというんですね。死にたくはなかったけど、いよいよ死ぬしかないのかなぁと思いましたよ。
でも、なぜか香川へは陸路で行くことになったんです。そうしたら14日に仙台に到着しましたけど、そこで足止めされてた。
―もし、香川県へ飛行機での移動だったら?
手塚 死んでたんでしょうね。この移動が生死の分かれ道になった。
―玉音放送はそこで?
手塚 「明日、玉音放送があります」と仙台の駅長から言われて、15日当日は駅の街頭ラジオで玉音放送を聞いていた。
―玉音放送を聞いた感想は?
手塚 天皇陛下の声を聞くのが初めてだった。「もにょ、ごにょ、もにょ」と、何を言ってるかよくわからないですよ。「一時休戦? 負けたのか!?」。それすらもわからなかったから、仙台の駅長に確認したら「戦争が終わった」と。
―その後は、どちらへ?
手塚 原隊の谷田部海軍航空隊へ戻りました。特攻に参加できなかったから怒られると思っていたけど、上官からは「ごくろうであった!」と言われホッとした。
―谷田部に戻ってから混乱はなかったんですか?
手塚 「あれは陛下の意志じゃない!!」という血気盛んな陸軍航空隊がまず決起して、それに同調する海軍の厚木航空隊から、谷田部の上空に戦争継続を訴えるビラをまきに来ましたよ。でも、谷田部では誰も一緒に飛び立つ者はいなかった(笑)。
―最後に、手塚さんの戦争体験から、今の日本に思うことは?
手塚 今の日本の状況は、開戦前に似ていると思っています。うかうかしていると徴兵制が始まり、また若者が戦争に駆り出されるかもしれないと。「歴史に学ばざれば過ちを繰り返す」。若い人たちには僕らの経験から歴史を学んでくれればと思っています。
手塚久四(てづか ひさし) 1922 (大正11)年1月9日生まれ。91歳。栃木県出身。東京大学2年生に進級後、学徒出陣で海軍へ入隊。ゼロ戦の飛行訓練を受け、特攻隊員に選別される。終戦後は大豆の製油業を行なうビジネスマンを組織して活動した
(取材・文/直井裕太 構成/篠塚雅也 撮影/村上庄吾)