2011年12月28日に福島県浪江町請戸地区で岡さんが撮影したもの。無数に転がる四角い巨大な石は津波によって打ち上げられた波消しブロック。左奥に第一原発の排気塔が見える 2011年12月28日に福島県浪江町請戸地区で岡さんが撮影したもの。無数に転がる四角い巨大な石は津波によって打ち上げられた波消しブロック。左奥に第一原発の排気塔が見える

東日本大震災による原発事故が起きてから、3年が過ぎた。被災地の外では事故の記憶が薄れつつあるなか、本書に出てくる原発作業員の肉声は鮮烈に響く――。

「初めて原発を見たときは、かっこいいと思ったんですよね。1トンくらいあるボルトとか初めて見て、かっけえなあって」

「“原発テーマパーク”でも造ったら繁盛するんじゃねえの。第一原発エクストリームツアーして、そのあと防護服のコスプレして記念写真撮ってやるんだ」

著者の岡 映里(おか・えり)氏は女性だ。震災当時は週刊誌記者で、年齢は33歳。夫とは別居中で、親とも絶縁状態だったと本著『境界の町で』で明かされている。

震災直後から被災地に入り、原発の事故現場に作業員を送り出す下請け会社社長の「彼」との出会いがきっかけで、福島の警戒区域に通い詰めるようになった。

以来、原発に勤める作業員と共に酒を飲んだり、その親方である「彼」に恋心を抱いたり……。前出の作業員らの肉声は、そうした濃密な関係のなかでつかみ取ることができた言葉だ。

―震災後、4月上旬には高線量の警戒区域に入っていますね。内部被曝(ひばく)の恐怖心はなかった?

 なかったといえば嘘になりますが……。今思えば週刊誌記者として、テレビや新聞に負けないネタを取りたかったんだと思います。「彼」と初めて出会ったときは、自分を原発作業員として1F(福島第一原発)に送り込んでもらいたいと思っていました。でも、女性は原発内では働けないと知らされて、悔しかったですね。

危険な場所へと駆り立てたものとは?

―そんな危険な場所へと自身を駆り立てていたものとは?

 警戒区域は、機会を逃したらもう二度と立ち入ることができないだろうと思っていました。最初にその中へ入ったのは震災から1ヵ月後の4月10日。「彼」の車に同乗して、原発から3kmも離れていない「彼」の事務所や、浪江町(なみえまち)請戸(うけど)地区に行きました。そこで見るモノすべてが、私の想像を超えていました。

原発から北側に11km離れている港町の請戸は、百数十人の犠牲者を出した場所ですが、遺体の捜索も1ヵ月以上されていない手つかずの状況でした。そこに足を踏み入れたとき、生存者がいるはずもないのに、誰かが瓦礫(がれき)の陰で息を潜めてこちらを見ているような感覚に襲われました。福島に入る以前は、岩手県をはじめとしたほかの被災地の取材をしてきましたが、この時期になってもまだ捜索をされない場所があるのだということを知り衝撃を受けました。

その後、私は週末になると取り憑(つ)かれたように福島に通うようになります。「彼」は、常軌を逸(いっ)したようになってしまっている私に、「岡、おまえ、興味本位でここに来てるだけなんじゃねえの。放射能は写真に撮っても写らないからな」と言われてしまいました。

―岡さんは警戒区域の風景や空気感だけではなく、福島で前向きに生きる被災者にも傾倒されていきます。特に「会ったときから好きなんです」と告白した「彼」とのくだりは印象的でした。「彼」とはどんな人なのでしょう?

 原発に作業員を送り込む人夫出しの会社の社長です。震災の約5年前から仕事を始め、150人ほどの若い衆を抱えていました。昔はヤクザだったそうで、恐喝で逮捕されたこともあったと聞いています。面倒見のいい人ですが、激しい一面もあり、原発の復旧作業で自分たちは命を張っているというのに、「なんかネタないですかぁ」なんて軽いノリで取材の電話をかけてくるテレビの報道関係者を福島まで呼びつけて土下座させたこともあったそうです。

その一方では「原発内で潜入取材がしたい」と頼み込んできたジャーナリストを自分の会社で雇ってあげたこともありました。結果、潜入取材を手助けしたことが元請けにバレて業者指定を外されてしまうのですが、それでも彼は怒らなかったですし、そのジャーナリストに文句ひとつ言わなかった。私自身、そんな彼の人間性に魅力を感じていたこともあります。

命を張る若い作業員たち

―では親方である「彼」を取り巻く若い衆はどんなふうでしたか?

 初めて会ったときはみんなEXILEみたいでチャラい感じだと思いました。彼らの多くは、震災直後から1Fの放射性廃棄物を処理するための集中環境施設の3階で復旧作業に当たっていました。

集中環境施設は高線量地帯でトイレもなく、同じ施設の2階では熱中症で命を落とした作業員もいました。彼らは、そんな過酷な現場へ覚悟を決めて入ったわけです。取材した作業員のなかには原発に向かうバスの車中で遺書を書いていた若者もいます。

また、原発内で11年間働き続けている33歳の作業員は、「自分がずっと受け持ってた場所があって、そこが事故で壊れているから自分の手で直したい」と言いました。彼らは彼らなりに使命感を持ちながら命を張っていたわけです。

とはいえ、彼らは20代から30代。原発構内に住み着いた野良犬と休憩時間に遊んだりもする若者らしいところもありました。作業が休みの日にタトゥーショップで入れ墨を入れる作業員もいたし、ある晩、一緒に食事に行った焼き肉店では、当時、死亡者5人を出す食中毒事件の影響で提供が自粛されていた生ユッケを、「ユッケが怖くて原発で働けるか!」などと言いながらひとりで3人前を平らげちゃう作業員もいました。野良犬も入れ墨もユッケも被災地の外から見れば想像もつかないようなことかもしれませんが、彼らにとっては大事な息抜きだったのだと思います。

―最近では、漫画『美味(おい)しんぼ』の“鼻血論争”が勃発しました。原発内で長く働き続けている作業員の身に異変はありましたか?

 本書では触れませんでしたが、今考えると彼らのなかには鼻血を出していた人も確かにいました。科学的根拠はわかりませんが、「放射能で鼻血は出ない」とは言い切れないと思います。

“取材対象者”から“大事な人”へ

―本を読んでいるときにも感じたのですが、現地の人のことを語る岡さんの言葉は心に刺さります。取材対象者ではなく、当事者として仲間のことを話しているかのような……。

 確かに、取材記者としての一線を越えてしまった部分はあると思います。町会議員だった「彼」のお父さんが国政選挙に出馬した際は選挙活動を手伝いましたし、ニートのような生活をしていたある若者とは親密になりすぎてしまったのか、10万字のメールを送られてくるようになってしまいました。取材対象者でしかなかった彼らの存在は、最後には大事な人に変わっていきました。

その一方で、私は取材者としての立場を捨てきれず、彼らの言葉を欠かさずICレコーダーやiPhoneに録り続けていました。そんなやましさからなのか、何か言葉を発するたびに福島を踏み荒らしているんじゃないかという罪悪感から逃れられなくなっていきました。その結果、昨年春にそううつ病を患い、半年間は自宅療養。ベッドの上で、ずっと天井だけを見ていました。

―しかし病と向き合い、この本を書き上げられました。何が支えになっていたのでしょう?

 福島で出会った人たちは、どんな状況でも前進し続ける魅力的な人ばかりでした。しかし書かなければ彼らは忘れられてしまう。私が福島を忘れてしまう前に、彼らを記録しなければと思ったんです。

(取材・文/興山英雄)

●岡 映里(おか・えり) 1977年生まれ、埼玉県三郷市出身。慶應義塾大学文学部フランス文学科卒業。Web開発ユニット企業、会社員、編集者、週刊誌記者などの仕事を経る。本書がデビュー作。写真は、2011年12月28日に福島県浪江町請戸地区で岡さんが撮影したもの。無数に転がる四角い巨大な石は津波によって打ち上げられた波消しブロック。左奥に第一原発の排気塔が見える。ご本人の希望で著者の写真は掲載していません

■『境界の町で』 リトルモア 1600円+税 週刊誌記者の「私」が出会った原発作業員の「彼」、楢葉町の町会議員である「彼」のお父さん、仮設住宅に住むY君、警戒区域にとどまり母の介護を続けた伊藤巨子さん。原発被災地での彼らとの交流を、スナップ写真のように、一人称でつづったノンフィクション。震災から3年半、被災地の知られざるリアルに触れる