失態続きでボロボロの朝日新聞は、ついにトップが謝罪会見を行なう事態にまで発展したが、まだまだ火の粉は収まりそうもなく大炎上。しかし、それを喜んで叩いている読売新聞はじめ、他のマスコミもとてもマトモな状態とはいえない。

そこで今回の騒動を受け、これまで言論を我がもの顔で牛耳ってきた大“新聞サマ”への惜別の辞をつきあいの深い各界の方々からいただいた。

まず、漫画家の小林よしのり氏が一連の“朝日騒動”を振り返る。

「朝日が8月5日に行なった『32年後の従軍慰安婦報道撤回』は感慨深かったね。ワシはもともと『強制連行はない』とずっと言い続けてきて、朝日には目の敵にされていた。偏見にさらされてきた者としては、朝日が訂正したことで自分のえん罪が晴れてスッキリしてしまったんだよね」

しかし、世間では他紙による朝日叩きが過熱するばかり。自社に対して批判的という理由で一度は掲載を拒否しながら、結局載せた池上彰氏のコラム問題などはどう見ているのか?

「池上氏の原稿には『訂正するなら謝罪を』という趣旨の文言があったけれど、謝罪を求めるのはナンセンスだと思う。謝罪にはなんの意味もない。謝罪をすれば、全世界から『慰安婦は性奴隷』と非難されなくなるのか。韓国が慰安婦問題で日本を憎悪しなくなるのか。外国の感覚では、強制連行があろうがなかろうが、慰安婦は性奴隷。そこに対する冷静な見方を保守派もしていない。読売や産経にしても、『とにかく朝日は叩くもの』ということがイデオロギー化しているんだよ。

結局、新聞も『何が真実か』は知りたくないんでしょう。例えばイラク戦争のときだってそう。ワシは『イラク戦争に大義はない。大量破壊兵器はない』と書いた。そうすると、読売も産経も全力でアメリカを支持してきた。だけど今、イラク戦争に勝ったといえる? 新聞は『イラク戦争を支持したのはミスだった』と訂正した? 全部開き直って訂正も謝罪もしていないじゃない」

小林氏が続ける。

「権力というのは“暴力装置”を持っていて、圧倒的に危ない。軍隊や警察はもちろん、いざとなれば国税局を動かして国民をどうにでもできる。ジャーナリズムの役割は『権力の監視』だよ。一般国民は日々の生活に忙しくて権力をチェックできないんだから、新聞は国民と権力の間をどうつなぐかが使命。

最近の読売や産経のように、あまりにも権力べったりになるなら“政党機関紙”でいい。新聞は『アベノミクスで景気が良くなる』と言うが、ウソばっかりだ。報道ではなく、政権の応援だよ。昔は両論併記とか、情報だけを伝えようという感覚が一応あったけど、今はその使命を放棄してしまったよね」

「言いっ放し」の新聞を本当に疑う時代に

では、朝日新聞の問題ばかりが取り沙汰されるが、それを喜んで叩く読売新聞や産経新聞には共感できているのか……。特に、学生を含めた若い世代の実感としてはどう見ているのだろう?

新聞と「報道の自由」について詳しい上智大学文学部新聞学科教授・田島泰彦(やすひこ)氏は、若者たちにとって「確かに、新聞は遠い存在になりました。新聞学科でも、紙の新聞を読む学生は10人にひとり、ふたりいればいいほうです」と話す。

なぜ、新聞全体の権威は失墜(しっつい)し、遠いものになってしまったのか?

「新聞批判は常にあったが、昔はジャーナリズムの担い手がほかになく、誤報を出しても批判は限られた。しかし、今はネットなど代替するメディアがある。相対化されたことで新聞の存在が軽くなり、『新聞も間違っているんじゃないか』という意識がつくられてきました。

昔もリベラル系新聞と保守系新聞の対立はありましたが、お互いに議論しようという空気はあった。ところが、それが今はまったくなくなり、お互いに『言いっぱなし』になっている。議論が交わらないんです」

1990年代、産経新聞は「新聞を疑え」というキャッチコピーを使っていたが、まさかここまでになるとは……。

「1980年代から、『メディアはわれわれ(市民)のものなのか』という問いかけがされるようになりました。その要因のひとつに、新聞社に入る人たちの層が、権力側に行くエリート層と重なってきて“上から目線”になったことが挙げられます。

戦前の新聞記者の年収はそれほど高くありませんでしたが、今や年収1000万円、あるいは2000万円の人もいます。自分たちが社会の上層部、ある種の社会的権力になってしまっている。これは他国のジャーナリストから見ても異常な状態です。『せめて普通の給料にしろ』と求めてもいいとさえ思います」(田島氏)

「新聞しかない」歴史とエリート意識

月刊誌『創(つくる)』の編集長として長年、新聞の栄枯盛衰を見守ってきた篠田博之氏は、今回の問題について、こう指摘する。

「朝日もひどいけど、それを叩く読売もひどい。新聞社には、明治以来の伝統を背負っているという意識があるようですが、例えば読売の清武(きよたけ)問題についての報道なんて、客観的事実と当事者である読売の主張との区別が紙面でつけられていません」

ここで新聞の歴史を振り返ってみると、新聞は明治時代、激動の最中に生まれ、大正時代にどんどん部数を伸ばしていったーー。

「新聞は日本の近代化に伴って成長していきました。かつては新聞とラジオ以外に情報を得る手段がなかった。新聞に載らないと事実として流通しないというのは、圧倒的な権威です。そうした背景のもと、部数が伸びるほど権力も強くなり、『公器』という存在になりました」(篠田氏)

しかし、その公器になったタイミングと、言論の自由がなくなった時期――つまり第二次世界大戦は重なる。新聞が政府の言い分を垂れ流して国民の戦意を高揚させた「大本営発表」の時代だ。

戦後はその反省をもとに、新聞は「権力監視」という役割を担ってきた。それと並行して、朝日新聞と読売新聞が熾烈(しれつ)な部数競争を展開。1977年に読売新聞が朝日新聞を抜いて発行部数世界一を達成した。

しかし、その後も「インテリは朝日を読む。読売を読むのは巨人ファン」とされる時代が続いた。

「読売が朝日の部数を抜いた後も、経営者などへのアンケートを見ると『朝日のほうが質が上』という結果が出ていたといわれるし、朝日の記者も確かに、『オレたちのほうが上だ』という意識を持っていた。かつては新聞業界を希望する学生の応募者数も朝日が1位で、筆記試験を同じ日にすると学生が朝日に行ってしまう。読売はずっと朝日に対してコンプレックスを持っていたんです」(篠田氏)

ところが、1990年代以降はマスコミ不信、ネットの普及などで、新聞の地位はだんだんと低下。今回、朝日新聞の体力が衰えてきたところで、読売新聞の鼻息が荒くなった、というわけだ。

権力監視の役割が企業の倫理優先に?

「朝日の一連の問題が起きてから、読売は今が好機とばかり、慰安婦報道についての拡販用冊子を配って読者を獲得しようとしています。一部報道によると『A作戦』というそうです。朝日が叩かれているタイミングで拡販に乗り出すのは、いかにも読売らしい。

新聞も企業である以上、思想的な部分と商売的な部分があるわけですが、部数減による権威失墜と同時に『権力批判』という原則論がだんだんと希薄になり、企業の論理が優先されるようになってきてしまいました。実際、今の新聞社は不動産収入のウエートが高くなっているといわれています」(篠田氏)

篠田氏は、新聞の衰えを肌で感じた瞬間があるという。

「朝日は慰安婦問題の訂正を春頃から準備していたのですが、以前の朝日であれば、訂正記事を“防衛線”にしながら新事実を発掘する取材も同時に進め、ポジティブな“反撃”に転じる体力があったでしょう。でも、今回はそれができなかった。

朝日の上層部は訂正記事で慰安婦問題にケリをつけるつもりだったのでしょうが、逆に火をつけてしまった。池上氏のコラムの掲載中止問題など、やることがすべて裏目に出ています。余裕がなくなって、つい過剰反応してしまうんですね」

そして現在、読売新聞の今年7月時点での発行部数は約925万部で、昨年7月から約60万部減。朝日新聞は今年7月が約727万部で、前年同月比約30万部減(日本ABC協会調査)。朝日騒動があってもなくても、両紙ともに、部数減に歯止めがかかりそうにはないのだ。

■週刊プレイボーイ39号「昔は“エラかった”らしいけど、今はもう……『新聞サマ』とっくに死んでるし!」より