元特攻隊として生きてきた男たちが、今あらためてリアルに人生を語るシリーズ連載。
年始にお届けする第4回は、人間魚雷として米軍にも恐れられた海軍の秘密兵器・回天の操縦員が登場。ゼロ戦に比べマイナーな回天だが、その実態はどうだったのだろうか。
「ゼロ戦に乗って国のためにやるんだ!」ーーそう思って予科練(海軍飛行予科練習生=航空搭乗員を養成する機関)へ入団した若尾巌さん(87歳)。しかし、若尾さんに与えられた任務は飛行機ではない、もうひとつの特攻作戦だった…。まずは、そんな若尾さんの幼少時代とは?
若尾 小さいときはガキ大将でしたね。学校では野球をやって、家に帰ってチャンバラごっこや戦争ごっこをやっていました。
―“戦争ごっこ”とはどんな遊びなんですか?
若尾 ふた手に分かれて、木の枝を小銃に見立てて「突撃ー!!」ってバンバン言っているだけですよ。ただ、私が子供のときは、兵隊さんが人気だったし、みんなの憧れでした。日中戦争が開戦したときも、提灯(ちょうちん)行列をやって「勝った、勝った!」と盛り上がっていましたよ。子供だったから、それは興奮しましたね。
―軍事教練とかも熱心に?
若尾 私は岐阜で育って、中学は名古屋まで通っていました。そこでは日露戦争を経験したおじいちゃんの配属将校がいて、それは厳しかったですね。でも、銃剣を着剣した三八式小銃を持たせてもらったときは、重たくて「これが本物か!」と胸が高鳴りましたよ。
予科練の七つボタンはカッコよかった
―学校ではスポーツとかもやっていたのですか?
若尾 陸上をやって学校の代表になっていました。
―陸上ってことは、昭和15(1940)年に開催予定だった東京オリンピックを目指したり?
若尾 オリンピックは話題にもなっていませんでした。それより国防競技です。
―国防競技?
若尾 5人ひと組のチームで、手榴弾の遠投。2mの壁を越えたり、ほふく前進をする障害物競争などをやるんですね。あと小銃を担いで2000m走とか。ちょっとしたゲームですよ(笑)。私は足が速かったから、3年生のときから学校代表としてやっていましたね。
―昭和16(1941)年の12月8日。太平洋戦争が開戦した日はどこにいたのですか?
若尾 中学3年のときです。講堂に生徒が集められて校長先生から「開戦した」と報告がありました。ちょうど試験前で「試験がなくなるぞ!」って。開戦より試験のことでみんな浮かれていました。でも試験は予定どおり実施され、みんながっかりでしたよ(笑)。
―予科練の募集は学校で?
若尾 17歳のとき、昭和18(1943)年。朝礼のときに募集がありました。「これはいい機会だ!」と思いましたよ。当時は予科練をテーマにした歌『若鷲の歌』や、映画『少年航空兵』もあって自然に予科練へ憧れていましたしね。予科練の象徴でもある七つボタンの制服がカッコよかった。女性から見ても予科練の兵士たちは「ときめく存在だった」と、うちの奥さんが言っていましたよ(笑)。
―では予科練を即受験ですか?
若尾 「ゼロ戦に乗ってみたい。ゼロ戦に乗って国のためにやるんだ!」。その思いで予科練の試験を受けました。
―試験の難易度は?
若尾 試験は岐阜で2日間かけて行なわれました。身体検査から始まって、学力は全教科の筆記試験を行ないました。二次試験は広島の大竹海兵団でやって、ここでは体力測定もありましたね。
ボールを奪い合うケンカ“闘球”とは?
―どんな問題が出題されたんでしょうか?
若尾 科目がばらばらで、時事問題もありましたね。とにかくすごい量の○×問題が出題されるんです。試験時間内に最後までいけない出題量でしたよ。
―予科練の合格は郵送?
若尾 海軍省から電報が届きました。それはうれしかったですね。実は試験勉強もしていませんで、受かるとは思っていませんでしたから(笑)。
―予科練の訓練はどこで?
若尾 昭和18年の12月から奈良県で行ないました。天理教の施設を借りて兵舎にした所でした。畑を埋め立てて練兵場を造ったから、私が赴任したときは石がまだゴロゴロありましたね。そんな練兵場で闘球をやっていました。
―闘球とは?
若尾 ラグビーです。これが、海軍式なのでスポーツじゃないんです。ボールを奪い合うケンカなんですよ。体中が傷だらけでしたね。
―予科練でキツかったのは?
若尾 予科練は歩行が禁止なんです。移動は全部、駆け足。海軍で整列する場合は背の高い者から前列に並ぶんですね。だから、どうしても小柄な者は動きが遅いと上官に見られてしまう。そうなると、すぐ怒られるんですよ(笑)。バッターです。
―バッターとは?
若尾 訓練教官が「海軍精神注入棒」と呼ばれる硬い木の棒でお尻を叩くことです。これをやられると、お尻が痛いというかね、頭にジーン!って響く。2、3発もらったら失神しそうになる。
海軍ではすべてが連帯責任ですから、何か失敗をすると班単位でバッターを受けました。なので、モールス信号が苦手なのがいたら、休み時間にみんなで必死に教えましたよ。これは今の若い人にはわからない感覚かもしれませんが、連帯責任だからこその助け合いが戦友同士で生まれるんですね。
貴様らが乗る飛行機は予定がつかない
―食事はどうでしたか?
若尾 とにかく体ばかり動かしていましたから、何を食ってもうまかった。でも印象的なのは魚。ちゃんと骨が抜いてあるんですよ。
―量的にも満足でしたか?
若尾 当時、民間では珍しかった白米がね、丼で食べられるです。だいたい茶碗に4杯分ぐらい盛られていました。でも、もっと食べたいから、食卓番という配膳係のときは自分の飯だけ大盛りにして席に置くんですよ。
―食べすぎですよ!
若尾 でも、いざ着席して食べようとすると上官が「全員、席を1個ずれろ!」と。だいたいバレていましたね(笑)。
―休暇はありましたか?
若尾 昭和19(1944)年の夏に休暇があって、実家へ帰りました。地元の岐阜県じゃ、白い海軍の制服なんて珍しいですからね。それは目立ちましたよ。親戚の家に挨拶へ行ったり、母校で講演したり。ちょっとしたヒーローでしたね。ゆっくりできるかと思ったら、まったくくつろげなかった(笑)。
―憧れだった飛行機の訓練も始まったんですか?
若尾 予科練に入ってから3ヵ月後に操縦分隊に配属されました。ここでは地上に置いてある旧式の機体のエンジンを始動する訓練をしたり、グライダーを使った飛行訓練をやって「よし、これで飛行機の操縦ができる! ゼロ戦に乗れる!!」と喜びましたね。
―ほかにはどんな飛行訓練を?
若尾 飛行訓練はグライダーで終了でした。
―え!?
若尾 8月のはじめ頃に、講堂に総員集合になって、そこで上官から「もう貴様らが乗る飛行機は予定がつかない。しかし、新兵器が完成しているので、それに乗ってもらいたい」と発表がありました。そして紙が配られて、新兵器を志望する者は◎、志望しない者は○、どうしても飛行機に乗りたい者は名前のみを記名しろと。
※この続き、後編はこちら! http://wpb.shueisha.co.jp/2015/01/02/41558/
若尾巌 1926(大正15)年9月9日生まれ。88歳。岐阜県出身。現在の愛知県立愛知商業高等学校在籍中に予科練を受験。航空機の訓練を受けるも、回天の搭乗員へ志願。広島県、山口県で訓練を続け、山口県の大津島基地で終戦を迎えた
(取材・文/直井裕太 構成/篠塚雅也 撮影/村上庄吾)