人間魚雷・回天の搭乗員として訓練に参加した若尾さん 人間魚雷・回天の搭乗員として訓練に参加した若尾さん

ゼロ戦乗りを目指したはずが、すでに日本には若尾さんが搭乗する戦闘機はなく“新兵器”の搭乗員が募集されはじめていたーー。ゼロ戦どころか、飛行機にすら乗れない状況で若尾さんがとった行動とは? 

元特攻隊として生きてきた男たちが、今あらためてリアルに人生を語るシリーズ連載、第4回後編!(前編はこちら http://wpb.shueisha.co.jp/2015/01/01/41554/ )

ー「新兵器が完成しているので、それに乗ってもらいたい」と発表があり、志望の紙が配られ…。

若尾 どうやら飛行機に乗れないのは間違いなさそうな雰囲気でした。でも、「国に尽くすのは飛行機だけじゃない!! ほかの兵器だっていいじゃないか。死ぬ覚悟は予科練に入ったときにできている!」。そう思って新兵器を志願するに◎をつけて提出しました。私だけじゃなく、皆もだいたい◎で提出していました。

―このとき新兵器がどんなものだかわかっていたんですか?

若尾 まったくわかりません。ただ新兵器というだけで、飛行機ではないという感覚しかありませんでした。

―新兵器への搭乗を志願した後はどちらへ?

若尾 昭和19年の9月1日に予科練を卒業して、広島県の呉(くれ)基地に赴任しました。卒業した時点で特攻隊員になりました。

―呉といえば戦艦大和の母港ですよね。

若尾 呉のドックにいる大和を見ましたよ。周りの戦艦とは格が違うほど大きい。ビルみたいでした。当時は「これがあれば大丈夫だ!」と思いましたね。

―新兵器とはどこで初対面したんですか?

若尾 昭和19年の12月。広島県の暗号名でQ基地と呼ばれる基地(江田島市)から山口県の光基地に移動したとき、新兵器・回天を初めて見ました。

―あの人間魚雷と呼ばれる回天を初めて見た感想は?

若尾 回天の基になっているのは当時世界最高の性能を誇った九三式魚雷です。「これが新兵器か!」と士気が高まるのと同時に「これはよく考えられた優秀な兵器だな」と感心しましたね。

―実際に乗った感想は?

若尾 湿気はないですが、とにかくにおいが強烈でした。ガソリンがこもったような変なにおいです。内部の照明は豆電球のみ。でも、何回か乗ったら慣れましたよ。 回天の基礎訓練を終えて、昭和20(1945)年の6月には山口県の大津島の基地へ赴任しました。

事故多発といわれる回天の真実

―回天は訓練中の事故が多かったと聞いてます。若尾さんは事故を経験されたことは?

若尾 1回、回天が故障して海底に突っ込んだことがありました。

―どのように生還を?

若尾 推進器を空回りさせると海面に泡が出るんですね。訓練中は教官が乗っている追従艇が回天の後方にいますから、泡で合図を送っていました。

―追従艇の気配とか音とか感じられるんですか?

若尾 音だけ聞こえるんです。でも、なかなか近くまで来ない。結局、故障してから2時間半後に発見されました。潜水夫が回天の上部を〝コンコン〟とやってきた。私は運がよかったんでしょうね。

―なかなか発見されないとき、回天内で遺書とかは?

若尾 耳を澄まして集中していましたから、遺書を書くとか余裕はありませんでしたね。死ぬとか考えるより、ただ救出されることを考えていました。

―若尾さんが経験した以外の事故はあったのですか?

若尾 訓練中に米軍のまいた機雷に接触した機体がありました。しかし、機雷の爆発と同時に上部ハッチが吹き飛んで、操縦員もそのまま射出されるという事故がありましたね。これで助かったんです。本当に運がいいですよ(笑)。

回天は事故が多かったと強調されがちですけど、私としてはそんなことはなかったと思います。訓練も劣悪ではなかったし、機体で問題箇所があったらすぐ改修されました。操縦員、整備員ともに士気も高かったですからね。

―休憩時間に戦友との交流は?

若尾 もう「早くうまくなりたい!」だけでしたから、ゆっくりお酒を飲んで戦友たちとダベったりとかはなかったですね。「回天で特攻して敵を確実に沈める」。特攻の恐怖より、それしか考えていませんでしたよ。

特攻隊員は米軍に皆殺し?

―瀬戸内海に面した山口県の大津島だと、8月6日の広島の原爆は見えたのですか?

若尾 ちょうど練兵場にいたら、広島方面の空が真っ暗になっていた。「広島で何かあったな!?」というのはわかりました。

この時期は毎日B29が飛んできて、近隣を爆撃していましたね。大津島は秘密基地だから反撃もできない。高射砲で反撃したら位置がバレますから。だから、B29を見るたびにしゃくに障りましたよ。

―この時期には敗戦を覚悟してたんですか?

若尾 当時は「相当追い込まれてはいるけど、負けることはない。回天で米軍の本土上陸を阻止する!」と思っていました。

―玉音放送は大津島で?

若尾 なんの告知もなく突然でしたね。ただ、初めて陛下の声を聞いて何を言っているかわからなかった。だから「まだまだやるんだ!」と解釈していた連中のほうが多かったですよ。上官から「終戦だ!」と言われても納得できなくて結局、8月20日まで訓練を続けていましたね。それぐらい士気が高かったです。

―「特攻隊は米軍に捕まってひどい目に遭わされる」というような噂があったのですか?

若尾 「米軍に皆殺しにされる」という風評がありました。だから制服や書類、そして写真も全部処分しました。回天も上層部が米軍に引き渡ししたそうです。私は呉まで行って、屋根のない貨物列車で名古屋へ帰りました。

―最後に、若尾さんから見た最近の若者とは?

若尾 若い人たちが体を持て余しているんじゃないかと思います。だから変な事件が起きる。学校以外にいろいろなことを教育する機関があればね、2年間みっちり心身鍛えられるような。何より集団行動を学べます。集団行動のなかで生まれる友情もある。連帯責任で総員修正ですから(笑)。徴兵じゃなくても、若い人たちがそういうものを学べるシステムがあってほしいと思っていますね。

若尾巌 1926(大正15)年9月9日生まれ。88歳。岐阜県出身。現在の愛知県立愛知商業高等学校在籍中に予科練を受験。航空機の訓練を受けるも、回天の搭乗員へ志願。広島県、山口県で訓練を続け、山口県の大津島基地で終戦を迎えた

 「航空機の操縦員ではないんですが、制服は一緒でマフラーも装着するんです」(若尾) 「航空機の操縦員ではないんですが、制服は一緒でマフラーも装着するんです」(若尾)

(取材・文/直井裕太 構成/篠塚雅也 撮影/村上庄吾)