昨年導入されたアメリカ初の国民皆保険制度“オバマケア”。
だが、この制度が日本とは逆に、医療現場で国民を悲惨な状況に追い詰めているという。そしてこれが近い将来、日本にも飛び火する可能性があるとか……。
はたしてアメリカで何が起こっているのか? 日本の医療はどうなるのか? 『沈みゆく大国アメリカ』でオバマケアの欠陥を浮き彫りにしたジャーナリストの堤未果氏と、医師・作家の鎌田實氏に問題点を語ってもらった。
■皆保険制度導入で医療負担が逆に増大
国民の6人に1人が医療保険に入らず、高額な医療費負担が自己破産原因の6割を占めるといわれるアメリカ。毎年、4万5000人が無保険を理由にまともな医療を受けられずに死んでいく。また、医療保険加入者ですら多くが高額な医療費に苦しみ、がん治療薬は自己負担なのに、安楽死薬なら保険適用なのだという。
そんな文字どおり「命の沙汰も金次第」の国に昨年、オバマ大統領の肝煎(きもい)りで導入されたのが初の国民皆保険制度、通称“オバマケア”だ。
だが、夢の制度と思われたそのオバマケアが逆に保険料の高騰や医療格差の拡大など新たな問題を引き起こしているらしい。この皮肉な現実を綿密な現地取材とデータで描き出したのが、堤未果氏の新刊『沈みゆく大国アメリカ』(集英社新書)だ。
企業の利益が優先され、人の命や健康が「商品」となるアメリカ社会の実情と、「次のターゲット」として狙われている日本の医療の危機について、ジャーナリスト・堤氏と、医師であり作家としても活躍する鎌田實氏に語ってもらった。
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―弱者を救うために誕生したオバマケアが、逆に悲惨な状況を引き起こしているということですが、なぜ、そんなことになってしまったのでしょう。
堤 最大の原因は国民の命に関わる「医療」が、アメリカでは「商品」になってしまっていて、政治がそれをコントロールできないことにあります。
80年代以降のアメリカは企業の国際競争力を高めるという国策の下、一貫して法人税を下げ、規制緩和や民営化を進める企業至上主義の政策を優先してきました。この結果、あらゆるものが次々に市場に並ぶ「商品」にされていきました。教育も食も農業も刑務所もマスコミも皆…この30年で商品になってしまい、その最新商品が「医療」だったというわけです。
オバマケアも表向きは弱者救済のために導入した制度でした。しかし、80年代以降の「商品化プロセス」と同様に、ここでも保険会社や製薬会社といった医産複合体が介入していました。法案自体が、保険会社の重役によって書かれたのです。実際、この法律の内容を見れば、オバマケアは彼らに巨額の利益をもたらす「新商品」として非常によくできており、成立直後から関連業界の株は上昇しました。しかし、その分のしわ寄せや負担が患者や医師、公立病院、高齢者、中小企業や労働者などにかかっているのです。
医療が商品化へ
鎌田 たぶん、オバマも当初は日本のような国民皆保険制度を目指していたと思う。それが選挙に勝つための資金が必要だったりして、結果的に製薬企業と保険会社にのみ込まれたのでは? だまされたのか意図的だったのかはわからないけど。
堤 はい、日本人読者は必ずその質問をします。オバマはだまされたのか、確信犯か?と。答えはアメリカの選挙資金法にあります。アメリカでは過去30年で、巨大化した企業による選挙献金が跳ね上がり、2010年の最高裁判決でついに青天井になってしまいました。
こうなると政治そのものが買われてしまうので、政治家は巨額の政治資金を出してくれた企業や利益団体の意向を聞かざるを得なくなる。いわば、選挙も「投資商品」のひとつになってしまったということです。
その上、今回の「医産複合体」は利益団体としては軍需産業よりも規模が大きく、誰も手が出せない。今、アメリカでは、大統領も議員もこの力学からは逃れられない。オバマ大統領も、例外ではないのです。
今やアメリカでは選挙時に公開される政治献金のリストを見ただけでも、選挙後の政策はある程度方向性が予想できる。加えて大統領が選挙後に任命する各分野の責任者のメンツを見れば、まず外れません。食や農業、教育などの分野が投資商品化したときも同じパターンでした。
鎌田 オバマケアの大きな欠点は、薬価、つまり医薬品の価格を決める権限を製薬会社に委ねてしまったことだと思いますね。となると当然、彼らは売れるものや良い薬ほど高い値段で売ろうとする。当然、薬価は上がり、それが医療費全体を大きく押し上げてしまう。
一方、日本の場合は中央審議会で、保険・医療関係者と行政が議論しながら薬価を決めているので、日本の保険システムが崩壊しない値段のつけ方がされている。
例えば、家電製品だったら企業が自由に競争すれば良いものが安く手に入るけれども、医療は違うんですね。多くの人が助かりたい、長生きしたいと思うから、高いものが効くんじゃないかと思って手を出す。やはり、人命や健康に関わる医療を「商品」として市場原理に任せること自体に無理があるんですよ。
堤 おっしゃるとおりですね。もしオバマ大統領が、アメリカの医療を日本のように「社会保障」という位置づけにし、オバマケアを公的保険として誕生させていたら、結果は百八十度違っていたでしょう。でも政治が業界に買われている今のアメリカで、「医療=商品」という利益構造には手をつけられない。民間医療保険への強制加入で実現させた「皆保険制度」のオバマケアと、憲法25条がベースの日本の国民皆保険制度が百八十度違うのはそういう理由です。
オバマケアを導入するとき、オバマ大統領はこう約束しました。「皆さんを苦しめていたこの国の高い医療保険はオバマケアで年間2500ドル下がります。保険加入の義務化で加入者が増加すれば、保険会社間に競争が生まれるからです」と。
ところが、これにはからくりがありました。アメリカの医療保険市場はどの州も寡占化によって1社か2社が独占していて、すでに自由競争など存在していません。でも大半の国民はそういう現状には無関心ですから、大統領の言葉をうのみにして喝采した。その結果、ほとんどの州で保険料は下がるどころか保険会社が利益を優先して保険料を上げたり、保障内容を狭めたりというケースが急増し、多くの保険者がオバマケア前より苦しむことになったのです。
オバマケア最大の被害者は?
―とはいえ、オバマケアでは健康保険加入が義務化され、低所得者には政府から補助金も出る。とりあえず今まで保険に入れなかった人が健康保険に入れたのは良いことでは?
堤 確かに補助金で無保険から有保険者になれた人もいました。ただし、問題はその後です。アメリカの保険は毎月の保険料のほかに、病気になったらまず先に自己負担で払う「免責額」というのがある。これを全額払わないと保険会社は1円も払ってくれません。基本的に保険料が安いほど免責額は高いので、たとえ国が月々の保険料を払ってくれて加入できても、いざ病気で医者に行ったら免責額60万円と言われ、泣く泣く治療を諦めるケースが続出しています。
―それだと保険に入れても、結局、医者には行けない。ヘタしたら盲腸ぐらいで死んじゃうかもしれませんよね?
堤 はい、そうです。加えて、オバマケアは国からの還付率が低いので、オバマケア保険の患者を診察してくれる医療機関はとても少ないのです。保険証はもらったけれど、病気になったときにお医者さんが見つからない。
鎌田 結局、アメリカの無保険者はどのくらい減ったのかな?
堤 2014年12月現在でオバマケア保険に加入した国民は700万人前後といわれています。ただ、先ほど言ったように、免責額が払えなかったり医師がいないなどの問題がある。その上、この700万人には、もともと職場を通じて保険に入っていた人が、オバマケア法による保険料の値上がりで会社が保険の提供を廃止したり、リストラされてオバマケア保険に移行した人もかなり含まれています。実はオバマケアで最も打撃を受けるのはこの中流層なんです。
現在、新規加入者の5人中4人は政府補助金を受けていますが、その分の財源は中流層への増税です。なので中流層は今後、増税+値上がりした保険料、狭められた保険範囲の三重苦に直面することになる。つまり、無保険者を政府補助でオバマケア保険に加入させる一方で、もともと有保険者だった人が次々に無保険に転落するという非常に皮肉な事態が起きているのです。
鎌田 そうなると「中流層」までが崩壊しちゃうわけだね。
堤 ええ、そのとおりです。オバマケアが、労働組合や中小企業から、中流消滅にとどめを刺す悪法と批判されているのはそのためです。
■破滅的なオバマケアが日本にも影響!? この続きは明日配信予定の後編で!
(取材・文/川喜田 研 撮影/五十嵐和博)