IT長者ポール・アレン氏による発見で「ほぼ間違いない」と認定され、脚光を浴びる旧日本海軍の戦艦「武蔵」。映画になったり“宇宙戦艦”になったりして有名な戦艦「大和」に比べて、あまり知られていない武蔵の短いけれども濃密な“生涯”を紹介しよう

■敵弾を一身に浴びた壮絶な最期!

歴史的な“発見”で注目を集める「武蔵(むさし)」とは、どのような戦艦だったのか。

武蔵は1938年3月、三菱重工業長崎造船所で起工され、40年11月に進水した。『帝国海軍 戦艦大全』(学研M文庫)の著者で軍事評論家の菊池征男氏が解説する。

「武蔵は1号艦の『大和(やまと)』と同じく“最高機密”で建造され、建造中の船体は棕櫚(しゅろ=ヤシの一種)を使った目隠しで覆われました。その不気味な姿を見た付近の住民に“魔物”と呼ばれたようです」

進水後も内外装の突貫工事が続けられ、42年8月5日にようやく就役する。だが、すでに日米の戦いは航空機主体に移っており、武蔵の行く手には暗雲が垂れ込めていた。

戦局の悪化で出撃機会を逸し続けた武蔵は、44年6月の「マリアナ沖海戦」に参加。この戦いで日本軍は多くの航空機を失い、同年10月にはマッカーサー司令官率いる米軍約20万人がフィリピン・レイテ島に上陸する。

これに対して、日本の連合艦隊司令部は「捷(しょう)一号作戦」を発令、「レイテ湾に突入し、敵を殲滅(せんめつ)せよ」との命が下された。これが日米300隻が激突した大決戦「レイテ沖海戦」である。

9時間もの猛攻を浴びても沈まなかった

「当時、武蔵は栗田健男(くりた・たけお)長官率いる艦隊に属し、大和など総勢27隻でブルネイにいました。この時、なぜか武蔵だけ明るいグレーに塗り直しています。艦長が四代目、副長が二代目だったため『死(しに)(四二)装束(しょうぞく)』ではないかという不吉な噂が一部乗組員の間に流れました。また、艦隊の“被害担当艦”として、あえて敵に目立つ色にしたとの説もあります」(菊池氏)

栗田艦隊はブルネイを10月22日に出港して一路レイテを目指すが、待ち受ける米側は空母17隻、護衛空母18隻、戦艦12隻など圧倒的な数を誇る。艦隊を援護する航空機もない日本にとって、無謀な“水上特攻作戦”だった。

そして24日、栗田艦隊はハルゼー提督率いる米艦隊と遭遇。武蔵は、延べ334機の米艦載機による5回の波状攻撃をほぼ一手に引き受けた。

その結果、魚雷25本、爆弾44発、ロケット弾9発(米側発表)を被弾し炎上するーー。菊池氏が目を閉じて語る。

「9時間もの猛攻を浴びながら、なおも沈まない武蔵に米軍パイロットは畏怖(いふ)の念すら抱いたといいます。しかし、夜の闇が降りる頃、艦首が沈下し始め、1番砲塔の左舷側甲板が浸水。右肩に重傷を負っていた猪口敏平(いのぐち・としひら)艦長は乗組員と別れの杯を交わし、19時15分に『総員退艦』を出します。そして、遺書を副官に渡し、自らは艦と運命を共にしたのです」

19時35分、ついに力尽きた武蔵は、シブヤン海の波間に消えていった…。

乗組員たちの悲運が伝説に…

■乗組員たちにも悲しい運命が…

武蔵の死闘にもかかわらず、この後、なぜか栗田艦隊はレイテ湾目前で引き返してしまう。これは太平洋戦争史上「最大の謎」とされている。

最後に、武蔵の乗組員たちの悲運にも触れておきたい。

出撃時の乗員2399人のうち艦長を含む1023人が海戦で犠牲となったが、重油の海を必死で泳ぎ、僚艦に拾い上げられた将兵たちにも苦難が待ち受けていた。

「生存者の多くはコレヒドール島に上陸しました。靴がなくボロ布を足に巻いて歩く者や真っ黒な褌(ふんどし)ひとつの水兵たちは、まるで落ち武者のような姿でした」(菊池氏)

その後、負傷者を除き、内地帰還組と現地残留組に分けられたが、前者は輸送船がバシー海峡で魚雷攻撃を受け、300人が死亡。後者もフィリピン守備隊として残され、ほとんどの者が玉砕した。

「今回の発見まで見つからなかったため『“不沈艦”武蔵は完全には沈んでおらず、今も海中を漂っている』という伝説がありました。武蔵の最期を証言できる生存者が数少なかったことも、そんな伝説が生まれた理由のひとつといえるでしょう」(菊池氏)

戦後70年を待っていたかのように現れた武蔵。その姿は何を問いかけるのかー―。

(取材・文/世良光弘)