「拘置所の父と対話できるなら『私、こういう人生だったんだよ』と自著を読んであげたい」と語る松本麗華氏

当時、11歳にして教団トップに次ぐ地位を与えられ、オウム真理教の教祖・麻原彰晃の後継者とされた三女、アーチャリー。

その彼女が、本名による手記の出版に踏み切った。31歳になった今、ベールに包まれていた胸中を赤裸々にさらけ出した『止まった時計 麻原彰晃の三女・アーチャリーの手記』

はたして、オウム真理教とはなんだったのか? 今なお、答えにたどり着けずにいる問題に対するヒントがここにあるはずだ。著者の松本麗華(りか)氏を直撃した。

■接見した父の変わり果てた姿

―手記の発表に合わせて、メディアに登場する機会が増えていますね。こうして取材を受けることに抵抗はありませんか?

松本 報道に苦しめられてきたのは事実ですが、信頼できるマスコミの方との出会いもありました。これまで人間関係に苦しんできた一方で、私を生かしてくれたのもまた人間関係なので、基本的には信じたいという思いが強いのかもしれません。

―出版に先立って、約2年前にブログを開設されています。ここ数年、発信を強めてきたのはなぜでしょう?

松本 ブログを始めたのは、このままでは父の裁判が闇に葬り去られてしまい、真相が解明できなくなるという焦りがあったためです。最初は一日に1、2人訪れるだけのブログでしたが、それでも記事をアップすればインターネット上に残りますから、結果的に多くの人に見てもらえるだろうと思って続けました。

―反響はどうでしたか?

松本 そうですね。一時期は3時間に一度くらいのペースで罵倒のコメントが書き込まれましたし「被害者のことを慮(おもんぱか)るべきだ」という助言もいただきました。また、元信者の方から「洗脳されて苦しかったあの頃、私の話を聞いてくれたのはあなたとお父さんだけでした」という書き込みをいただいたこともあります。…でも、この方を洗脳した“主体”が誰なのか、今も疑問です。書き込みを読む限り、少なくとも父や私ではないわけですから。

―今回の手記は父・麻原彰晃への思いがたっぷりと詰め込まれています。

松本 父親として、私にとってはかけがえのない存在ですから。病気になった父だけではなく、私の中では今も温かくて包容力のあるどっしりとした父も存在しています。

信じたい、でも見捨てられたのではという矛盾

―その父親に対する後悔の念が再三つづられています。

松本 私にとって、逮捕の日(1995年5月16日)というのは第6サティアンで一緒に暮らしていた父が突然いなくなってしまった日でもあります。逮捕の前日に父に呼ばれたのですが、私は眠いのを理由に行きませんでした。最後にちゃんとお別れをしないままなので、父をないがしろにしてしまったという罪悪感がありました。

―2004年、逮捕から実に9年以上を経て接見が叶(かな)ったわけですが、その時の印象を教えてください。

松本 私の記憶の中では、上にも横にも大きかった父ですが、車いすで連れてこられたのはまるで別人でした。痩せこけて、髪の毛も歯も抜け落ちて、40代とは思えない老人のような姿がそこにはありました。実は私もずっと詐病(さびょう)と信じていました。しかしその後も面会を重ね、話しかけても反応せず、私のこともまったく認識していないのは明らかで、これはショックでしたね。

今でも、一緒に暮らしていた父と、あの痩せこけた父が私の中でつながらずにいます。うわ言でもいいから、もう一度「アーチャリー」って呼んでほしかったんですけど…。

―手記の中で「父が事件に関わっていないと信じているわけでもありません」と書かれています。その真意は?

松本 父は精神が崩壊し、裁判で何も語ることができないまま死刑が確定しました。当事者不在の裁判だったように思えます。幹部たちが父のメッセージを自分の都合のよいように変えたり、私の名が使われ教団運営がなされたりした事実からすると、父の事件への関わり合いについては保留にし続けるしかないと考えました。

また、この本は多くの矛盾をはらんでいます。父を好きで信じたいと書きながら、父に見捨てられたのではと恨み始めるとか、私ひとりの感情をとってみても非常に複雑な気持ちが渦巻いています。

これまで“絶望の中に常に希望がある”という矛盾の中で生きてきました。そういう矛盾が現実にあるということ、白黒をハッキリできないものがあるということを表現できればと考えながら書きました。

―「父には不思議な力があったと思う」との記述がありますが、具体的にはどんな時にそう感じましたか?

松本 父と接する日常生活の中ではいろんな出来事がありました。例えば、父が全盲になる前、修行の一環で目の動きだけでろうそくの炎を操ってみせてくれたり、とか。

自宅にいつ踏み込まれてもおかしくない

―お父さんの空中浮揚はご覧になりましたか?

松本 それが、私は見たことないんです。やってみてよとお願いしても「疲れているから」と断られて。あの写真は偽物だともいわれていますから、撮った方にぜひ真相を聞いてみたいんですけどね。

ただ、ダルドリー・シッディという、体が勝手に跳びはねる空中浮揚の前段階の現象は何度も目撃しているので、そういうことが起こり得るのは知っているつもりです。父の空中浮揚もその延長線上にあるものなのかなと思っています。わからないことは否定しないスタンスです。

―松本さん自身、教団にいた頃は明確な信仰心を持っていたのでしょうか?

松本 自分でも「よくわからない」というのが正直なところです。物心ついた時から教団があって、そこにいるのが私にとっては自然なことでした。いってみれば、オウムという“街”に住んでいた感覚に近くて、私は特に入信も出家もしていないんですよ。

―え、そうなんですか?

松本 はい。入信者には番号が付与されるのですが、私はそれも持っていません。それでも正大師になれるんですから組織としては割と適当だったのかもしれませんね。

―ちなみに現在の生業(なりわい)は?

松本 心理カウンセラーとしてカウンセリングをしたり、食品販売の仕事をして生計を立てていますが、経済的には厳しいですね。特に今年に入ってからは、この本の執筆が予想以上に大変でほとんど働けませんでした。

―しかし、一般的な生活は取り戻しつつある?

松本 いえ、一般的ではありません。もともと盗聴されたり尾行されたりすることはありましたが、さらに去年末、公安調査庁からAleph(以下、アレフ。オウムの後続団体)の幹部と認定されてしまいました。実際にはアレフとは無関係なのですが、自宅にいつ踏み込まれてもおかしくない。

自宅には父の写真を置いていますが、彼らはそれをもって私の部屋を教団の本拠地と判断するかもしれません。20年たっても、まだまだ教団にいた経歴は私を苦しめるのだなと痛感しています。

父に「オウムとはなんだったのか」と聞きたい

―家族や兄弟は、この本の出版についてなんと?

松本 母とは音信不通です。現在は下の姉と上の弟と一緒に暮らしているのですが「少しずつ静かに暮らせるようになってきているのに、わざわざ顔出しして蒸し返すべきではない」と反対されましたが、私はそれは違うと考えていました。20年の区切りで、また世間の批判が強まるだろうから、伝えるべきことは伝えておかなければ、と。幹部認定を受けたのはその矢先のことでしたから、やっぱりきたかという感じでしたね。

―では、上祐(じょうゆう)史浩氏(現ひかりの輪代表)との交流は? 上祐氏とのもめ事についても余さず書かれていますが…。

松本 上祐さん、母についての部分も書くべきか迷いもありました。でも、私自身の人生を取り戻すためにはやっぱり避けて通れないと考えたんです。私としては、この本をもって「上祐さん、さようなら」という気持ちですね。

―アレフやひかりの輪の信者との交流は?

松本 アレフには幼い頃から大好きだった人もいますから、信仰うんぬんは抜きにして、たまにお会いすることがあります。人間関係は大切にしたいので。

―もし父親と対話できるとしたら何を話しますか?

松本 一番聞きたいのは「オウムとはなんだったのか」ということ。というのも、私が知るオウムの教義と一連の事件があまりにもかけ離れているからです。教団に多面性があったのは事実でしょうから、そこに父がどう関わっていたのか、事件についての真実を話してほしいです。それから「お父さんは世間では極悪人といわれているけど私は今でもお父さんが好きだし、一緒にいた時より大切に思っているかもしれない」と。

■松本麗華(まつもと・りか)1983年、麻原彰晃(本名・松本智津夫)と松本知子の三女として誕生。父の逮捕後、教団トップに次ぐ「正大師」として様々な問題に巻き込まれていく。その後、教団から離れ、文教大学に入学。心理学を専攻し、現在も心理カウンセラーの勉強を続けている

■『止まった時計 麻原彰晃の三女・アーチャリーの手記』(講談社・1400 円+税)31歳になった「アー チャリー」が初めて、これまでの体験と胸の内を激白。幼少期を過ごした千葉・船橋の松本家、知られざる教団での生活、父としての麻原彰晃、事件発生後の教 団を取り巻くさまざまな出来事から現在まで―。かつてない視点でオウム真理教をつづった、迫真のノンフィクション!