東京・東池袋の人気ラーメン店「大勝軒」の創業者、山岸一雄氏が心不全のため4月1日、東京都内の病院で死去した。享年80歳。

彼が1955年にメニューに加えた「特製もりそば」は、つけ麺の元祖。日本そばのような食べ方と独特のおいしさがすぐに評判を呼び、大勝軒はわが国初の“行列のできるラーメン店”となった。

ただ、繁盛店となったのは、味だけが理由ではない。山岸氏の優しい人柄も大勝軒に欠かせない魅力だった。同店を30年以上前から訪れているラーメン評論家の大崎裕史氏が往時の思い出を語る。

「お会計の時に『ありがとね』と言いながら浮かべる笑顔が、なんともすてきでした。私も山岸さんのあの顔が見たくて通ったひとりです」

さらには、こんなちゃめっ気もあった。

「その日の行列の最初の16人までに並ぶと、開店と同時に入店できるのですが、彼らへの麺の中には、頼んでもいないギョーザやチャーシューが隠されているんです。店が開く3時間も前から並んでくれる人に対する、山岸さんからの感謝のメッセージでした。それはある時期まで常連にしか知られていない秘密の楽しみだったのです」(大崎氏)

そんなおおらかさは、弟子への接し方にも表れていた。彼は大勝軒のレシピを包み隠さず全部教えたのである。

「山岸さんは奥さまに先立たれ、子供もいませんでした。だから弟子をわが子のようにかわいがり、彼らが自分の味を引き継いで全国に残してくれればいい、という考えだったようです」(大崎氏)

山岸氏が見せた最後のちゃめっ気

ことに、メディアで山岸氏が頻繁(ひんぱん)に取り上げられ、弟子入り希望者が殺到するようになった90年代後半以降は、わずか3ヵ月で大勝軒の味を徹底的に叩き込み、独立、のれん分けさせた。

「普通の店なら弟子入り自体が容易ではないのですが、山岸さんは来る者を拒まなかった。3ヵ月でレシピのすべてを教えたのは、弟子入り希望者が大勢控えていて、どんどん独立させないと待っている人が店で修業できないだろうという配慮があったのです」(大崎氏)

彼の元から巣立っていった弟子は100人を超え、それぞれが店を構えた。個人経営のラーメン店からののれん分け数としては、もちろん日本最多だ。しかも山岸氏は弟子たちの店から大勝軒の名称の使用料や上納金などを一切取っていない。金儲けへの欲がまるでないのだ。しかし、それでは引退後の生活のこともあるからと、逆に周囲の人々が気をもんだ。

「近年、大勝軒や山岸さんの名を冠したカップ麺やつけ麺スープなどが大手食品会社から販売されるようになりましたが、あれは古参の弟子たちが知恵を絞り、引退していた山岸さん自身のビジネスにできる仕組みをつくった成果なのです。山岸さんのほうも商品化することによって大勝軒の名が知れ渡り、各地の弟子たちの店を後押しできるのならということで承諾したようです」(大崎氏)

7日に営まれた通夜には弟子やファンら約600人が参列し、香典返しには故人の意向によって大勝軒のカップ麺が配られた。山岸氏らしい、最後のちゃめっ気だった。