3・11から4年。日本人からあの大災害の記憶が薄れつつある中、最も重たい被害に遭った場所のひとつ、双葉町(ふたばまち)を舞台に原発PR看板をめぐって撤去派と保存派の対立が起きている。
この看板は残すべき「負の遺産」なのか。それとも復興の「障害物」なのか――。
■「原発で明るい未来」はウソだった
どうしてあんな標語を作ってしまったのだろう――。今から28年前の1987年、大沼勇治さん(現39歳)は当時、双葉町に暮らす小学6年生だった。
ある日、担任の先生からこんな宿題が出された。
「原発をテーマに、標語を作ってくるように」
当時、大沼さんは町の発展は原発のおかげと無邪気に受け止めていた。
「原発は、幼心にも夢や明るい未来のイメージと一体のものだったんです」
そう大沼さんは苦笑する。帰宅後、ひと晩かけて「原子力 明るい未来のエネルギー」という標語を作った。
小学校の卒業式を控えた88年初春、自宅に町から郵便物が届いた。そこには「あなたの標語がコンクールに入選したので、表彰します」との一文が記されてあった。
応募総数は社会人を含め、281点。その中から5点が選ばれた。大沼さんの標語はその後、JR双葉駅から国道6号へと通じる町の目抜き通りに立つ巨大な原発PR看板となった。
「町長から表彰状をもらって感激したのを覚えています。標語が看板になってからは、そこを通るたびに誇らしい気分になりました」
その後、大沼さんはいわき市内の大学に進学。卒業後は故郷の双葉町に戻った。
地元の不動産会社に勤める傍(かたわ)ら、原発PR看板のすぐ横と自宅そばに計6室のアパートを建てた。家賃はそれぞれ6万円台。東電や関連会社の社員らが主な入居者だった。暮らしは会社からの給与とアパートの家賃収入で十分だった。
原発がもたらした“暗い未来”
34歳の時、せりなさん(現39歳)と結婚。大沼さんは、その人生の折々で原発PR看板を見上げてきた。
順風だった大沼さんの人生が暗転したのは2011年3月11日のことだった。激震と津波が原発を襲った。当時、せりなさんは妊娠7ヵ月だった。
「この災害で原発は大変なことになっている」
そんな予感を抱きながら、大沼さんは11日夜、身重のせりなさんを連れ、南相馬市の道の駅で一夜を明かした。
翌日、双葉町の自宅に戻って片づけをしていると、警官がやって来て「すぐに避難しろ!」と怒鳴った。慌てふためいて、まずは妻の実家がある会津若松へと逃げた。その直後に1号機と3号機が爆発。大沼さんは覚悟を決めた。
「もう双葉町には戻れないと思いました。何よりも、せりなとおなかの中の赤ちゃんのことが心配でした。母子被曝(ひばく)だけは避けたいと、2週間後に親戚を頼って愛知県安城(あんじょう)市に避難したんです」
原発事故でアパートの住人も町外へと避難し家賃収入が途絶えた。そして、後に残ったのは月16万円の返済が必要なアパートの建築ローンだった。
「収入がなくなったのに毎月、ローンの支払い日はやってくる。生活を再建しなくてはと本当に焦りました。なのに、東電は自宅やアパートの補償はどうなるのかと何度電話で問い合わせても、のらりくらりと答えない。
そんな時、あの原発PR看板が脳裏をよぎりました。あの標語は間違っていた。原発がもたらしたのは“暗い未来”だった。180度考えが変わったんです」
以来、大沼さんは双葉町に帰るたびに、原発PR看板など町内の荒廃した光景を記録に残すようになった。避難先の愛知県で生まれ、双葉町を知らずに育ったふたりの子供に「なぜ故郷を追われなくてはいけなかったのか」を伝えたい。その一心だった。
永久保存を求める署名を開始
そんな大沼さんに寝耳の水の事態が起きた。今年の3月9日、双葉町議会(現在は、いわき市で開かれている)が突然、原発PR看板の撤去のための費用410万円を15年度予算として計上したのだ。
「翌日、すぐに町議会を訪ね、その場にいた議員2名に撤去反対を伝えました。しかし、予算案は3月17日に可決されてしまった。このままでは看板は撤去されてしまいます。そこで撤去を中止し、現状のまま永久保存することを求める署名を始めました。すでに約2千名を超える賛同者が集まっています。ある程度の人数になった時点で町に提出するつもりです」(大沼さん)
この動きに町はどう答えるのか? 双葉町復興推進課の相楽定徳(さがらさだのり)主任主査に聞いた。
「あの看板は古い上に事故から4年間、きちんとメンテナンスができていないこともあってサビや腐食が激しい。看板の立っている道路は町に一時帰宅する町民が必ず通るメインストリート。もしパネルなどが落下して通行者を傷つけたら大変です。それで撤去を決めました」
ただ、町議会では撤去後になんらかの形で保存することを検討しているという。
「標語の考案者である大沼さんからの陳情に加えて、議会からも保存を一考してみてはとの声をいただいています。そこでどのような形の保存が可能か、今アイデアをもんでいるところです。
とはいえ、看板は巨大なため、保管スペースの確保が難しい。現物保存できない場合は看板のミニチュアを制作したり、写真パネルなどにして保存することも検討しています。ただし、撤去中止はありません。台風シーズンの前には終えたいと思っています」(相楽主任主査)
■この続きは明日配信予定! 記者が現地の様子をリポート、地元民の本音は?
(取材・文/姜誠)