6月15日、原発事故による自主避難者への住宅無償支援を2017年3月で打ち切る方針を福島県が発表した。
対象となるのは、およそ2万5千人。内堀雅雄知事は「これから2年間で区切りを、という国の考え方もある」と国の意向を強調した。
「自主避難者」とは原発事故を機に国の避難指示のない地域から自らの意思で避難した人々を指す。事故直後の11年4月、政府は福島県内の年間被曝線量の上限を1ミリシーベルトから20ミリシーベルトに引き上げ、20ミリ以下の地域は避難の必要はないとした。
とはいえ、事故前と比べると放射線量が10倍から数百倍という地域もある。そこに住む人々、子供の健康被害を不安視する子育て世帯が自ら避難を決断したのだ。
この「自主避難者」と、20ミリシーベルトを超えるとされる避難指示区域から避難した「強制避難者」とでは賠償や支援に大きな差がある。自主避難者にとっては、災害救助法による住宅の無償提供が唯一の支援ともいえるものだった。
今回、それが打ち切られることが決まり、自主避難者はふたつの選択を迫られている。17年4月以降、家賃を支払って避難を続けるか、それとも事故以前に生活していた福島の自宅に戻るか(すでに住居を引き払ったケースもある)だ。
こうした中、難しい局面に立たされているのが「母子避難者」だ。夫を福島県に残し、母と子は県外で暮らすという二重生活を続ける家族や離婚を経て県外で自主避難を続ける母子もいる。支援打ち切りの発表に肩を落とす、逃げ場のない母子避難者たちの窮状を聞いた。
私たちは「棄民」なんじゃないか
【ケース1】五十川理沙さん(仮名)。長女(14歳)、次女(13歳)と福島県郡山市から新潟県に避難中
尋常ではない子供の鼻血、外遊びができない不自由さから12年3月に避難を決意。福島に残る夫とも行き来がしやすい新潟を選んだ。
「今、自分たちがどうやって生活を維持しているのか、不思議なくらいです。会社員の夫の収入は30万円以下で、私の稼ぎは事務のパートで数万円程度。そこから家のローン、水道光熱費や食費を支払っています。二重生活ですから家のローン以外は倍かかってきます。夫にお小遣いも渡せないですし、医療保険も解約しました。ここに家賃が発生するなんて…」
と、五十川さんは途方に暮れる。放射線の影響を考えると子供を連れて福島に戻るという考えはない。震災後に購入した放射線量計で郡山の自宅を測定すると、今でも事故前より数十倍、局所的には100倍近い放射線量がある。「高校は新潟で選びたい」という子供の気持ちも尊重して二重生活は続けるつもりだ。
郡山の自宅は「夢のマイホーム」だった。築7年のわが家はもうすぐ住まなくなった期間のほうが長くなる。好みの家具をひとつずつそろえていた。今は夫がひとりでそこに暮らす。
「いざとなったら手放すしかないと思っています。惜しくて決断できなかったけれど、住宅の支援を打ち切られたら家を売って、夫には郡山の実家に住んでもらうしかない」
と表情には苦悩がにじむ。避難先での生活再建もうまくいっているとはいえない。求人に応募しても「避難者だからいずれ帰るでしょう」と雇ってもらえないこともあった。
「これまで全国の自主避難者の方たちと一緒に『住宅支援を打ち切らないでほしい』と訴えてきました。でも、福島県は『国と協議中』と言い、一方の国は『福島県の意向が届いていない』と責任の所在も明らかにせず、なすりつけ合いのような対応を繰り返してきました。
同じ国に住んでいるのになぜ自主避難者たちと真剣に向き合ってくれないのか。私たちは『棄民』なんじゃないかと思ってしまうこともあります」
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(取材・文/吉田千亜)