自分のふるさとが産業廃棄物で埋まってしまうーー。
そんな危機感を持った男は、30年近く無人島となっていた軍艦島を「世界遺産」にするという、あまりに無謀な運動をたったひとりで始めた。そんな夢がついに現実に…。
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軍艦島(長崎県端島[はしま])の世界文化遺産登録のために最も早く、たったひとりで声を上げ始めた男性がいる。NPO法人「軍艦島を世界遺産にする会」理事長の坂本道徳(どうとく)さん(61歳)だ。
1954(昭和29)年に福岡県鞍手郡(くらてぐん)宮田町(現在の福岡県宮若市〈みやわかし〉)で生まれた坂本さんが軍艦島に引っ越したのは1966年。宮田町の貝島(かいじま)炭鉱で働いていた炭鉱夫の父が軍艦島で働くことになったからだった。そして島の炭鉱が閉山し、無人島となる1974年まで暮らした。坂本さんの小学校6年から高校3年までの7年間にあたる。
1960年代、日本では炭鉱の閉山が相次いでいた。「石炭から石油へ」という政府のエネルギー政策転換のためで、炭鉱夫も“ヤマからヤマへ”と渡り歩いている時代だった。
「私は父が20歳の時に生まれた子供でした。20歳といえば、まだまだ遊びたい年頃。父は私のことを構ってくれませんでした。しかし小学校6年の時に端島(軍艦島)に来て、私は生まれ変わりました。隣近所の人たちや同級生が私を温かく迎え入れてくれたのです。この島で初めて『家族』というものを知りました。島での生活は、みんなが助け合って生きる家族だったのです」
坂本さんが「軍艦島が、産業廃棄物を捨てる島になる」という噂を聞いたのは、島が三菱から高島町に無償譲渡された2001年頃のことだったという。
「もちろん、『軍艦島を保存する』などという考えはまったくなかった頃です。地元紙の新聞記者も動いていましたが、私もなんとかしなければならないと思いました」
そして、高島町と三菱石炭鉱業(現・三菱マテリアル)が1973年に作成していた企業誘致パンフレットを手にした時、その不安は彼の中で確信に変わったという。
全10ページのこのパンフレットでは、「国による初年度減価償却費割増償却」や「長崎県による不動産所得税免除」「高島町による固定資産税免除」といった「進出企業に対する優遇措置」が挙げられているが、それを見て坂本さんはこう思ったのだ。
「軍艦島は長崎半島(野母〈のも〉半島)から直線距離にして4㎞余り。長崎市中心部からも18㎞ほど。これだけ距離があれば『産業廃棄物の島』になっても悪臭が漂ってくるようなことはないはず。閉山以来、島には定期船も通っていないわけですから一般の人は中を見ることはできませんし」
坂本さんは、すぐに行動に移った。
「軍艦島には、石炭産業というものを知るための遺構や高層アパートなどといった貴重な建物が多くあります。こういったことを伝えていけば、簡単にゴミの島などにすることはできないだろうと、『軍艦島を世界遺産にする会』を立ち上げました。2003年のことです」
観光クルージングで涙を流す女性も…
2005年、高島町は長崎市に編入。その頃から軍艦島は一般の立ち入り禁止のまま、「廃墟マニア」からの熱い視線を集めることになる。2009年には観光遊歩道が整備され、5社の観光クルーズ船が軍艦島に観光客を運ぶようになった。これまでに軍艦島を訪れた観光客数は累計74万人。もはや長崎市に大きな経済効果をもたらす存在となっている。
一方、こうした変化とともに坂本さんの孤独な運動もカタチを変えていった。「軍艦島を世界遺産にする会」は、九州各地にあるNPO法人などと連携を図る ようになり、鹿児島や福岡などの産業遺産とともに「九州近代化産業遺産群」として、九州の自治体からも認知されるようになっていった。
さらに、その頃から政治的な思惑も働きだす。
最初は九州の産業遺産をつなげた“遺産群”だったが、「薩摩が入っているなら長州が入らなければおかしい…」となり、2009年には「九州・山口の近代化産業遺産群」として、文化庁による世界遺産暫定リストに掲載される。つまり、運動の主体が坂本さん個人からもっと大きなものへと移っていったわけだ。
今回、軍艦島を含む「明治日本の産業革命遺産」の世界文化遺産登録を推進した最大の立役者は、産業遺産国民会議理事の加藤康子(こうこ)氏とされる。加藤氏は、故・加藤六月(むつき)元農水相の長女で安倍首相とも旧知の仲だ。
先述のように、後から山口県萩(はぎ)市の松下村塾や萩反射炉などがリストに追加されたのも安倍首相の祖父・岸信介が山口県出身だったからともささやかれる(誤解のないよう付け加えておくと、坂本さんによれば、加藤氏とは日頃から積極的に情報交換をしているという)。
とにかく、「軍艦島を後世に伝える」という坂本さんの孤独な祈りは、今まさに成就しようとしている。しかし坂本さんは、今年5月4日にイコモス(国際記念物遺跡会議)がユネスコに登録を勧告し、これまでになく軍艦島が脚光を浴び始めた頃から憂鬱な気分になることが多くなったという。
「島を金儲けの手段にしか考えない輩(やから)が増えました…」
現在、坂本さんは軍艦島観光クルーズ船「さるく号」(シーマン商会)に乗って、ガイドをしている。サラリーマンを辞め、パソコン教室を営みながら運動を続けてきたが、時間とエネルギーを注ぎ込みすぎて教室は閉鎖してしまった。
1年ほど前には心臓の病気で入院している。小柄な坂本さんだが、軍艦島の島影が見えてくると全身から熱気を放ち、表情も一変する。そして、腰に固定したハンドマイクを手に取る。
「私たちは今から41年前、この端島を捨てていかなければなりませんでした。船が島を離れていく時、小さなお子さんを抱き締めたお母さんが『これが見納めだからしっかりと見ておきなさい』と言っていました。今、この島に来られる観光客の中には、ここがどんな所であったか知らない人もいます。『廃墟の島、軍艦島。廃墟、廃墟、廃墟』と言いながら来られる方もいます。しかし、ここは日本の近代化や戦後復興を支え続けてきた島なのです!」
観光クルージングに参加した人たちは、多くがなんの予備知識も持たない。そこに坂本さんの突然の強い口調を浴びると、驚いて体が凍りついてしまう。中には感極まってボロボロと涙を流す女性もいる。
「あの島にも、『思い』というものがある」
坂本さんが噂を耳にした「軍艦島を産業廃棄物の島にする計画」が実際どれほど現実的な話だったのかは、今となってはわからない。長崎市役所の出先機関である高島行政センターに問い合わせてみても、このような計画があったことを知る職員はひとりもいなかった。三菱マテリアルの広報も「昔のことなのでわかりません」と答える。
しかし、「軍艦島と島民の思いを汚されたくない」という、坂本さんの情念のような思いと孤独な活動が、この島を「ユネスコ世界文化遺産入り」へと導いたことだけは間違いない。やはり彼こそが軍艦島を救った男だ、と記者は思う。
「家内には、自分が先に死んだら島の周りの海に散骨してくれと言っています。私は精神的なものをあの島に置いてきているんだと思います。
それから、あの島にも『思い』というものがあると思うんです。そういうのを伝えていかなければ、島は喜ばないと思うんです。島の『思い』、島で暮らしていた人たちの『思い』。そういったものを伝えていこうと、今までやってきました。
これまで様々な人が自分のことでもないのに協力をしてくれました。そしてこれから、いろいろな人が関心を持ってくれることでしょう。感謝しています」
今日も明日も、そして明後日も坂本さんは、さるく号に乗って軍艦島を目指す。もしもこの船に乗ることがあったら、彼の言葉に耳を傾けてみてほしい。そして声をかけてあげてほしい。きっと満面の笑みで応えてくれることだろう。
(取材・文・撮影/酒井 透)