友人と少年海軍志願兵になろうと左腕に彫った〝契りの入れ墨〟。『土』の字には「海で死なず、生きて帰って土の上で死のう」との思いを込めたが、海軍に行った友達は戦死した…

辺野古(へのこ)から北に車で約1時間走ると、東村高江(ひがしそんたかえ)に着く。

米軍北部訓練場の中に、高江の集落をぐるりと取り囲むように垂直離着陸機オスプレイが使用できるヘリパッド(離着陸帯)6基の建設工事が進んでいる。住民は2007年から一日も休むことなく24時間、ゲート前で反対の座り込みを続ける。

そのうちのひとり、伊佐真三郎さんは14歳の時に当時住んでいた沖縄市泡瀬(あわせ)で沖縄戦を体験した。戦後70年の今こそ、その証言から思いを馳せてほしいーーシリーズ第4回。

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「国を守るために海軍少年志願兵に応募しようと、友人と誓いの入れ墨を入れました」

腕には「土」という文字が今もはっきり残っている。「死ぬときは海じゃなく、土の上で死のう、みんな生きて帰ってこよう」という意味だった。

「でも志願兵審査の最終の健康検査で目が悪くて不合格になり、海軍に入ることはできませんでした。この時、軍医が検査表に『トラコーマ』という字を書いたのを見ました。海軍の採用条件で目の健康状態は重要だったんです」

眼病の者が応募したことに腹を立てた軍医は、審査官の将校の目の前で「このバカ者ー!」と言いながら、痩せ細った伊佐さんを背負い投げで投げ飛ばしたという。

「戦後、『自分の目はどうなっているんだろう?』と眼科に行ってみたのですが、なんの異常もありませんでした。あの時の軍医の診断はなんだったんでしょう? 『バカ者ー!』と叫んで投げ飛ばしたのも、私を合格させないための演技だったのかもしれません。もしかすると不合格になるように母が手を回していたのかな…。

家に残っている男は私だけでしたから、母はなんとしても私に生き残ってほしいと思っていたのでしょう。疎開船『対馬丸』で疎開させようと申し込んだのも母でした。しかし、出発の前夜、『家族を守るために僕は行かない。死ぬときは家族と一緒に』と出発直前に断ってしまったんです」

そして沖縄戦が始まり、家族が暮らす沖縄市泡瀬にも激しい艦砲射撃が降り注ぐようになる。

赤ちゃんがこちらを見つめている夢を見る…

「戦争中、米軍が上空から撮影した泡瀬の写真がありますが、波止場近くに材木が並べられ、子供たちが海に飛び込んで遊んでいる姿が見えます。当時、ヤンバル(本島北部の森林地帯)から木材や薪(まき)、炭などの燃料を運び込むには海路を使っていました。泡瀬は那覇など南部に材木を運ぶための集積港で、周辺では一番にぎわいのある町でした。港の後方には空襲や艦砲で焼け野原になった住宅地が写っています。

沖縄戦の前の年の1944年10月10日、那覇市は米軍艦載機の空襲で壊滅しました(10・10空襲)。その時、数機の米軍機が泡瀬にも飛来し、港に停泊していた日本軍の機雷敷設艦が撃沈させられています。

私はそれを木に隠れて見ていました。でも、その時はまだ米軍が上陸するとは思ってもいませんでした。その頃、すでに国民学校(小学校)の授業はなく、塹壕(ざんごう)掘りやアメリカの戦車を落とす穴を掘る作業をさせられていました。お国のために戦って死ぬことだけを考えていたんです。当時はそんな教育でしたから」

1945年4月になると、泡瀬にも米軍が迫ってくる。

「家族、親戚でヤンバルに逃げることにしました。しかし、泡瀬を出たあたりで橋が壊されていて川を渡ることもできず、ヤンバルに逃げることを断念せざるを得ませんでした。そして『死ぬなら家族一緒に』という思いから、先祖が眠る墓に隠れることになったんです。沖縄の墓は大きく立派なものが多く、隠れるには絶好の場所なんですよ。しかし、泡瀬は海沿いなので墓がなく、少し離れた高原(たかはら ※現・沖縄市)、比屋根(ひやごん ※同)などの墓に逃げ込みました。

激しい艦砲と米軍機の機銃攻撃から逃げる途中、赤ちゃんを抱いて逃げる母親と出会いました。母親は足に大ケガしていて、赤ちゃんを道端に置くと、自分は川に身を投げてしまいました。置き去りになった赤ちゃんが、泣きもしないで草の中からじっとこちらを見つめているんですよ。今、思うと艦砲か機銃で足をケガした母親はもう逃げ切れない、ダメだと思ったのでしょう。

赤ちゃんを道路脇の草むらに置けば、米軍機のパイロットからも見える、米軍でも赤ちゃんひとりだけなら撃たないだろう。もし母親が抱っこしたままでいれば、米軍機からは赤ちゃんが見えず、母親と一緒に攻撃され、赤ちゃんも助からない。子供だけでも助けたいという母親の思いだったんじゃないでしょうか。

私たちは、その赤ちゃんを草の中に置き去りにして逃げてしまいました。でも、その時は申し訳ないとか、かわいそうとかいう感情は湧きませんでした。とにかく自分たちだけで逃げるのが精いっぱいでしたから。しかし、戦後になって、『どうして赤ちゃんを助けてあげなかったのか?』と自分を責めてしまいます」

誰だって自分のことで精いっぱいだったんだと言い聞かせてみるが、今も草の間から赤ちゃんがこちらを見つめている夢を見るという。

(取材・文・撮影/森住卓)