友人と少年海軍志願兵になろうと左腕に彫った〝契りの入れ墨〟。『土』の字には「海で死なず、生きて帰って土の上で死のう」との思いを込めたが、海軍に行った友達は戦死した…

辺野古(へのこ)から北へ車で1時間ほどの場所にある、東村高江(ひがしそんたかえ)の米軍北部訓練場では、垂直離着陸機オスプレイが使用できるヘリパッド(離着陸帯)6基の建設工事が進んでいる。

そのゲート前で今も反対の座り込みを続ける伊佐真三郎さんが前編に引き続き、14歳の時に体験した沖縄戦の真実を語る。

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「戦争が終わって、行方不明になっていた上の兄は中国戦線で戦死、2番目の兄はサイパンで斬り込み隊に入って戦死したことがわかりました。男は私ひとりなので母からは大事にされましたが、妹からは妬(ねた)まれましたね。海軍志願兵になった友達も対馬丸に乗った近所の人も、誰も戻らなかった。

ある日、海軍に行って戻ってこなかった友達の家の前を通った時、彼の父親が私を見るなり、玄関をバタンと閉めてしまいました。以来、友達の家の前を通るのが怖くなってしまいました」

伊佐さんは、今も自分を責めて眠れない夜がある。

「なぜ自分は生き残ってしまったのか」

ゲート前に座り込みに来る若者に、伊佐さんが口癖のように言う言葉がある。

「絶対に戦争をやってはいけない。戦争をやる者は愚か者だ。バカ者だ。金儲けのために戦争をやるなんて」だ。

時々、自分の体験も話す。しかし、つらい話をするのはしんどい。沖縄戦について話す伊佐さんからは島酒のにおいがする。アルコールの力を借りなければ話ができないのだ。

「この闘いは、絶対暴力を振るってはいけない。暴力は戦争につながる。だから非暴力で通すこと。機動隊にやられてもじっと我慢してね」と、目を細めながら優しく静かに話す伊佐さんだが、今も整理がつかないまま戦争の記憶を抱え込んでいる。

そんな伊佐さんには、父親の記憶があまりない。子供の頃、父と顔を合わすことが少なかったせいだ。数少ない記憶の中で鮮明に残っているのは先に記した1944年の10・10空襲の前日のことだ。

二度と父は帰ってこなかった

夜、父が友人3人と机に花札を広げながら、何やら秘密めいた会議をしていた。それを隣の部屋からのぞき見していたら、突然、中型トラックに乗った警察官が何人もどやどやと入ってきた。父と友人たちは両手両足を縛られ、軍人がよく着るトンビ外套(がいとう)を着た男に無理やり引っ張られていった。警察官は嘉手納(かでな)署の者だったらしいと、後で隣近所の人から聞いた。

その後、二度と父は帰ってこなかった。戦争が終わってしばらくして、戦前の治安維持法の「特高(特別高等警察)」による連行だったのではないかと聞いた。今でも父の所在はわかっていない。これも戦後わかったことだが、どうやら伊佐さんの両親は反戦活動をしていたらしい。

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伊佐さんの息子の真次(まさつぐ)さん(53歳)は、米軍北部訓練場ヘリパッド建設に反対してゲート前で座り込み、通行妨害で国に訴えられたことがある。2013年6月、高等裁判所は那覇防衛局の訴えを認め、仮処分の決定を下した。しかし、判決を聞いていた伊佐さんは「殺されないならよかった」と言った。特高に引っ張られて帰ってこなかった父のことを思い出したのかもしれない。

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伊佐さんの記憶に残っている話をもうひとつ。戦前の泡瀬の町の外れに日本軍が駐屯していた。駐屯地の近くには料亭が2、3軒あった。どこも日本兵の慰安所になっていた。伊佐さんの親戚も「アブガドー」という屋号の料亭(慰安所)を経営していた。そこでは朝鮮半島から連れてこられた女性たちが4、5人働いていた

13歳だった伊佐さんは、親戚の料亭によく遊びに行き、そこのお姉さんから三線(さんしん)を教えてもらっていた。色白で、いつも白粉(おしろい)の匂いがするとても優しいお姉さんだった。

2階には毎日40、50人の兵隊が並んで順番を待っていた。ある時、おかみさんが三線を教えているお姉さんに「早く2階に上がりなさい」と言った。お姉さんは「今日は痛いから休みたい」と言ったが聞いてもらえず、2階に姿を消した。着物の裾から見えた奥のほうが真っ赤にはれていた。少年の伊佐さんには意味がわからなかった。ただかわいそうだと思っていた。

もう二度と三線は弾かない

戦後、伊佐さんの母親が朝鮮半島から帰ってきた親戚のおじさんから、彼が戦時中に朝鮮で何をしていたのかと聞いた。警察官だったおじさんは、若い娘を探して捕まえ、日本に送っていた。娘の父親が助けてと言っても、銃を突きつけて脅して無理やり連行したと得意げに言っていたという。

伊佐さんは「そうだったのか、三線を教えてくれたお姉さんはそうやって連れてこられた慰安婦だったのか。なら、もう二度と三線は弾かない」と、持っていた三線を壊してしまった。

母親は朝鮮の女性たちからの相談にいろいろ乗っていたらしい。戦後、間もなくして朝鮮から数人の女性が米軍のジープに乗って、母を訪ねてきた。お世話になったと、お礼のお金を持ってきたのだ。その時の日本円と米軍軍票のB円は今も大切に保管されている。

「彼女らは慰安婦だったのでしょうか。母は私には言葉を濁していましたが…」

伊佐さんは、親戚の家が慰安所だったことを子供たちにも語らなかった。この話を語り始めたのは、ヘリパッド反対の座り込みが始まった前後からだ。

「国が従軍慰安婦の強制連行を否定したことが許せなかったのでしょう。その頃から少しずつ話をするようになった」

と、息子の真次さんは言う。80歳を過ぎてから伊佐さんは家族に「韓国に行きたい」と言うようになった。

どうしても、慰安婦にさせられた人たちに会って謝りたい。あの時、助けてあげられなかったことを謝りたい。申し訳なかった、と

日頃穏やかな伊佐さんがこの時だけは厳しい目つきになった。

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24年前に伊佐さんは泡瀬を離れ、本島北部の東村高江に移り住み、木工所を始めた。木材が豊富であることと、工場の騒音や埃(ほこり)で近隣に迷惑をかけることのない場所だ。

「これからは緑豊かなヤンバルで静かに暮らすことができる」

木工の仕事も息子の真次さんに任せて、ゆっくり過ごしたいと思っていた。ところが8年前、北部訓練場の高江集落を取り囲むように米軍ヘリパッドの計画が明らかになり、黙ってはいられなくなった。

反戦活動を行なっていた父親、慰安婦の相談に乗っていた母親。その平和を願う血は伊佐さんに受け継がれ、息子の真次さんに受け継がれている。真次さんは今、「高江ヘリパッドいらない住民の会」のテントに座り込み、昨年9月、ヘリパッド建設反対、北部訓練場の全面撤去を掲げて村会議員になった。

平和を願う血は3世代に引き継がれている。

(取材・文・撮影/森住卓)