連日のように繰り返される理不尽な凶悪犯罪、イスラム国の無法、欲望の暴走をコントロールできなくなった金融資本主義、そして「こんな悪は許せない」という憎悪のエネルギーだけで、辛うじてつながろうとする人々…。 60代を半ばにして初めて「悪人というものは実際に存在するのだと確信する経験をした」と語る、姜尚中(カンサンジュン)氏が人々の心に巣くい、まるで病原菌のように蝕(むしば)んでゆく「悪の力」と正面から向き合った著作が『悪の力』だ。
身近な事件から宗教、古典文学に至るまで、様々な形で現れ、描かれてきた「悪」の姿を参照しながら「悪」の向こう側にある現代人の心の「虚」に迫る。
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―まず表紙をめくると現れる「―「悪」の存在を教えてくれた『A』に―」という一行に驚きました。この「A」とは何者なのか? そして、姜さんが初めて出会ったという「絶対的な悪」とはなんだったか? 思わず聞きたくなってしまうのですが…。
姜 この本を書く直接のきっかけは、私がある大学の学長を辞めたことでした。その経緯を具体的にお話しすると、学生たちにも影響が出てしまうので、僕は「諸般の事情で…」ということで通しているのですが、ともかく、その過程で僕は生まれて初めて、自分の間近で「悪」というものの存在を実感し、「こいつだけは許せない!」という感覚を生々しく経験した。
もちろん、それまでも「絶対悪」というのは「知識」としてはわかっていたわけです。例えば、ナチズムがひどいことをやったとか、ポルポトが多くの人たちを虐殺したとか、もっと一般的な犯罪に現れる「悪」もある。
ただ、自分が実際に生身の姿において経験する「悪」というのは、それが初めてだった。
その経験をきっかけにあらためて「悪」とはなんなのか、という問いに正面から向き合ってみたのがこの本なのです。
ちなみに、冒頭に出てくる「A」はその大学の人間のイニシャルですが、同時に少年Aの「A」でもあり、オウム真理教の「A」でも、あるいは安倍首相の「A」かもしれない(笑)。
「なんでもOK」の世の中が原理主義を生む
―もうひとつ伺いたいのは、この世の中に「絶対的な悪」や「絶対的な善」はそもそも存在するのだろうか?という点です。「善」も「悪」も、結局はその社会が「悪と見なすもの」や「善と見なすもの」であって、実は「相対的」なものではないのでしょうか?
姜 おそらく「この世には神様はいない」と考えると、そうなると思います。だから僕は80年代に「日本のポストモダン」みたいなものが出てきた時に、それに対して強い違和感がありました。それは、ひと言で言えば「相対化の時代」が始まったということだと感じたからです。
それ以前は、「絶対的」とは言わないまでも、社会がある程度共有できる、漠然とした「基準」のようなものがあった。
別に宗教を持ち出さなくても、例えば啓蒙(けいもう)主義にだって理性信仰があって、人々はごく普通に「やはり人間には理性というのがあるじゃないか」という感覚を共有することができた。
ところが、現代はそうした「相対化の時代」のさらに先を行っていて、「なんでもOK」の世の中になりつつあります。「これでもいい、もちろんあれもいい…」という世界では、何が本当に意味のあるものなのか、何を信じていいかもわからない。
―「善悪」も含めて、それまで漠然と共有できていた価値観や基準が失われた結果、人々が「自由」を持て余してしまったということですね。
姜 そうして、心に「空虚感」が生まれやすくなった時代に人々が「これだけは信じられる」というよりどころを求め、ついには「理屈抜き」で何かをひたすらに妄信しようとする。僕は、それが「原理主義」の正体なのではないかと考えています。
ですから、ISのようなイスラム原理主義はもちろん、「アーリア系人種だけで社会を構成すれば『純粋』で、それを汚濁させるユダヤ人は抹殺すべきだ」という考えを人々が妄信してしまった「ナチズム」も「原理主義」だと言っていい。
例えば今、理屈なんてどうでもいいという「反知性主義」と呼ばれるものが跋扈(ばっこ)していますが、それも同根です。「俺は日本人だから偉い」「俺は中国人だから偉い」「俺はイスラム教徒だから偉い」という主張に根拠はない。ただ単にそう信じたいから信じている。
善悪や価値が「相対化」され、「何を選んでもOK」という自由を与えられた人たちが、「人種」のように「自分では選べないもの」を最高の価値と信じることで、空虚な心を満たそうとしているのだと思います。
自分にとっても「賭け」だと思うんだけど…
―また本書では、ドストエフスキーやシェークスピアの文学作品、聖書、マックス・ウェーバーのような政治学の古典などを引用しながら、そこに現れる「悪」が、「グローバル資本主義」や「金融資本主義」がもたらす「悪の顔」と同じであるとも書かれています。
姜 僕の知る限り、シェークスピアを始め、いろんなものを読むと、そこに描かれている悪の原理は「自分以外は信じるな」という「自己責任」の世界で、新自由主義的な価値観とつながっている気がします。
「ほかの何か」をひたすら妄信する「原理主義」と、この「自分しか信じない」という自己責任的な価値観は、一見、水と油のように見えるんだけど、実はその根っこにあるものは同じで、やはり価値や善悪が「相対化」してしまった時代に、人々が自分と世界との関係をしっかりと構築できていないことが大きい。
その結果、生まれる心のうつろな闇に「悪」が巣くい、伝染しながら広がってゆくことで、「限りなく他人は自分のためにあるし、それは利用するしかない」という考え方に人々がのみ込まれてしまうのではないかという気がしますね。
―「悪」というものと向き合ったことで、姜さんの内面にも変化は起きているのでしょうか。
姜 僕はこれまで人間の可塑(かぞ)性を信じてきました、犯罪者も更生できる、人間は必ず変わる。可塑性を持っているはずだと。でも、最近はもう少しシビアに見なきゃいけないかと思うようにはなりましたね。
ただ、これある意味、自分にとっても「賭け」だと思うんだけど、僕はそれでも人間の可塑性を信じたい。やっぱり、それを信じないとやれないことってあると思うんです。
(インタビュー・文/川喜田研 写真/有高唯之)
●姜尚中(KANG SANG-JUNG) 1950年生まれ。東京大学名誉教授。専攻は政治学・政治思想史。著書に、100万部超のベストセラー『悩む力』と『続・悩む力』のほか、『マックス・ウェーバーと近代』『オリエンタリズムの彼方へ』『ナショナリズム』『日朝関係の克服』『在日』『姜尚中の政治学入門』『リーダーは半歩前を歩け』『あなたは誰? 私はここにいる』『心の力』など。小説作品に『母―オモニ―』『心』がある
■『悪の力』 (集英社新書 700 円+税) 世間を震撼させる事件や事故が次々に起こる今、そうした悪はなぜ生まれ、「悪の力」はなぜ増大しているように見えるのか。60代半ばにして初めて、悪人というものが実際に存在することを確信したという。人の中に巣くう「悪」とはなんなのか、そうした憎悪のエネルギーとはどこから来るのか、ベストセラー『悩む力』の著者が、この難問に挑む