南相馬市の主要水源・横川ダムの上流にある鉄山ダム付近で線量測定する菅氏。高線量のポイントが多く、本誌記者の線量計もピーピー鳴りまくりだった 南相馬市の主要水源・横川ダムの上流にある鉄山ダム付近で線量測定する菅氏。高線量のポイントが多く、本誌記者の線量計もピーピー鳴りまくりだった

一向に除染の効果が表れない南相馬市。今も市内には高線量スポットが数多く残されているが、昨年12月に特定避難勧奨地帯の指定が解除(市内153世帯)、一部の住民が“強制帰還”させられることとなった。

先日、そんな内部被ばくのリスクが残る南相馬市を視察した“原発事故発生時の総理大臣”菅直人氏に本誌取材班も同行。前編に引き続き、“見捨てられゆく福島”の現状をリポートする。

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13年5月に、本誌は南相馬市西部にある「鉄山ダム(標高約190m)」の上流で300マイクロシーベルトを超す高線量を確認した。それから約半年ごとに同じ地点を測定したところ、13年11月が約120マイクロシーベルト、14年5月が約70マイクロシーベルト、14年12月が約40マイクロシーベルト、そして今回の取材では10~25マイクロシーベルトだった。つまり、この奥羽山脈中腹部に当たる場所では、現在までの2年2ヵ月間で、汚染が5%以下にまで弱まったことがわかった。

しかし、これまで5回の測定に同行し、フクイチ事故の長期的な汚染拡大を研究してきた長崎大学大学院工学科の小川進教授(工学、農学博士)は、この線量減少の早さは、むしろ危険な現実を意味していると言う。

「福島第一原発事故で奥羽山脈に大量降下したセシウム137のガンマ線は、半減期が約30年間なので、核崩壊によってこれほど急に線量値が下がることはあり得ません。これは間違いなく、2年余りのうちに高濃度のセシウム137を含む枯れ草や表土が他の場所へ移動したと考えられます」

この鉄山ダムに流れ込む渓流沿いの林道にはめったに人が立ち入らず、人の手で除染された形跡はない。測定地点は緩やかな坂のカーブが谷側にせり出した5m四方ほどの草地で、道を挟んだ山側には森林が広がっている。この45度近い急斜面の森林から雨水と一緒に放射性物質が道へ流れ下り、いったん谷側の草地にたまって蒸発を繰り返すうちに濃度が高まったと、以前から小川教授は推測していた。

だとすれば、その300マイクロシーベルトもの放射線を出していた汚染物はどこへ消えたのか?

「13年5月頃に濃縮のピークに達した放射性物質は、草地から5mほど下の渓流へ徐々に流れ落ち、約1㎞下の鉄山ダムと、その先の横川ダムへ運ばれたと考えられます。そのセシウムが付着した汚染物の大部分は両ダムの湖底にたまり、微小な粒子は、さらに下流の南相馬市内へ流れたはずです。同じような汚染物の移動は奥羽山脈の至る所で起きているとみられ、これから本格的に山側の放射性物質が低い市街地と農地へ広がっていく恐れがあります」(小川教授)

飲料水から内部被ばくのリスクも…

鉄山ダムと横川ダムは、南相馬市を中心とした浜通り地域へ飲料水、農業用水を供給しているので、人体の「内部被曝」が心配される。それ以外にも、奥羽山脈から東へ下る小さい河川や勾配地形は無数にある。山から吹き下ろす風も放射性物質が付着した塵(ちり)を運び、それが民家の屋根や庭先などをしつこく汚染し続けているのだろう。

ただし、福島・浜通り地域の放射線量を高止まりにしている元凶は奥羽山脈だけではない。もうひとつは、今も事故収束作業が続くフクイチだ。南相馬市の取材後、我々はフクイチに向けて移動した。目指すは国道6号線がフクイチに最も近づく大熊町夫沢(おっとざわ)地区だ。

昨年9月、安倍首相が大熊町と双葉町の核廃棄物「中間貯蔵施設」建設予定地を視察訪問する直前、福島第一原発と第二原発を通る国道6号線の約40㎞区間が通行規制解除になった。その結果、福島県内の交通事情は飛躍的に改善されたが、一方で一日何万台もの通過車両によって新たな汚染拡大が始まっている。

6号線開通後、このフクイチ西側約2.5㎞の夫沢で行なった2回の測定では、地上1mのガンマ線量は8~10マイクロシーベルトだった。今回も全く数値は変わらず、測定器のセンサーを原発施設へ向けると、さらに3~5マイクロシーベルトほど上がった。空気中にも放射性物質の塵が漂っているらしく、少し強い風が吹くと線量値も変化した。やはり今も浜通り地域で続いている汚染は、山だけでなくフクイチにも原因がありそうだ。

夫沢地区では大震災で壊れたままの農家と荒れた田畑が広がり、この土地で間もなく本格的な汚染物「中間貯蔵施設」の建設工事が始まる。フクイチの原発建屋は田畑の先の林に隠れて見えないが、高さ120mの「ベントタワー(排気筒)」だけは白い姿をのぞかせている。

菅氏は、4年半前に深く関わったその構造物をしばらく無言で眺めてから、堰(せき)を切ったかのようにフクイチ事故初期段階の体験を細かく語り始めた。

まず11年3月12日早朝、1号機爆発の約8時間前に菅総理は自衛隊ヘリでフクイチを緊急視察した。その行動が作業現場の混乱状態をより悪化させたと、後に国会や新聞報道で批判を浴びたが、実際には何が起きていたのか?

 大熊町夫沢地区から約2.5km先のフクイチを眺めながら、菅氏は事故発生2日目の体験を語り明かす 大熊町夫沢地区から約2.5km先のフクイチを眺めながら、菅氏は事故発生2日目の体験を語り明かす

原発事故の現場に飛び込んだワケ

「3月11日の夕方までに全電源喪失が明らかになり、午後7時過ぎに原子力緊急事態宣言を発令しました。その後、1号機格納容器の圧力が上がり続け、爆発の危険性が高まったので、危機回避の手段はベント(緊急排気)しかないと考えました。最初、原子力安全・保安院(当時)は2号機が危ないと予測しましたが、12日午前0時過ぎからは1号機爆発の危険性が高まったので、東電からの要請を受けてベント開始を午前3時に予定していたのです。

しかし予定時刻を過ぎてもベントの報告はなく、現場と東電からの連絡もない状態になり、とにかく現場の責任者から直接話を聞くことが重要と判断し、6時過ぎに官邸を発(た)ちました。

敷地外でヘリから車に乗り換えて到着した構内は予想以上に緊迫し、走り回る職員や作業員の人々は総理大臣が来たくらいで仕事を中断するような生易しい状況ではありませんでした。免震重要棟の二重扉を通った時も、放射能の侵入を非常に警戒していたようで、『早く入れ!』と誰かに怒鳴られました。だから一部のマスコミが報じたように、私の視察が現場の作業進行を妨げたという事実はありません」

その免震重要棟の内部も混乱の極みにあり、廊下は人でごった返し、床には疲労した作業員が横たわって休み、まるで野戦病院のような光景だったという。

「とにかく吉田昌郎(まさお)所長(当時)とじかに会い、ベントが遅れている作業上の理由を聞き、決死隊をつくってやり遂げるという決意も確認できました。また、現場職員と東電本社の意思疎通が全くうまくいっていないこともわかり、それが15日に東電本社へ出向いて“フクイチ全面撤退”の方針を思いとどまらせるきっかけにもなったのです」

吉田所長は不幸にして事故の翌々年7月に死去。その後に公開された「吉田調書」からも事故現場と東電本社に方針の食い違いがあったことがわかる。同時に吉田調書には、現場責任者として東電社長と菅総理どちらに対しても反感を抱いた節も読み取れる。

しかし、「もし仮に3月12日の朝に時間が逆戻りできるとしても、やはり私は、再び同じタイミングで事故現場へ飛んでいくでしょう」(菅氏)。

菅総理がフクイチ視察を終えて官邸に待機していた12日の昼過ぎ、1号機の炉内圧力は一時的に低下し、ベント操作は成功したかに見えた。しかし結局はメルトダウンが防げず、午後3時36分に水素爆発が起きた。事故後2年間に4つの調査委員会が膨大なページ数の報告書をまとめたが、実はベント排気が筒から抜けきれなかった可能性など、新しい疑問点が生まれている。フクイチ事故はまだまだ多くの謎が残されたままなのだ。

そこで本誌は今回、菅直人氏にあらためてフクイチ構内に入ってもらう取材を東電に申請したが、日程上の理由で実現しなかった。そこで一昨年11月にも実施した海上からの視察に再度チャレンジし、測定用の海底砂も採取した。

その結果、明らかになった驚きの新事実! 地中にメルトアウトし、深刻な海洋汚染を引き起こしていた“核燃料デブリ”とは…? 

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(取材・文/有賀 訓 構成/桐島 瞬 赤谷まりえ 撮影/五十嵐和博)