本書をぱらぱらとめくってみる。「ブタのようにうんと腹のでた警官二人組にとめられた」「原子力装置を破壊せよ」「ケンカだ、愉快だ、気分がよい」……。
カゲキな、時にはロックな文句が目に飛び込んでくる。といっても、不まじめな本では決してない。アナキズム研究者の栗原 康氏が「暴力」を論じた『現代暴力論「あばれる力」を取り戻す』は、人間らしく生きたいと願う人々へ贈られた饒舌(じょうぜつ)なエールであり、破天荒な人間賛歌だ。
―「暴力」というキーワードについてお聞かせください。
栗原 暴力っていうのは自分たちが日常的に持っている生きる力のことを呼んでまして、これは完全に戦前のアナキスト・大杉栄の思想に依拠しています。どんな形で生きてもいい。力の発揮の仕方というのは無数にあり得るし、どこで楽しもうとそれは自由なんだと、そういう考え方です。恋愛でもそうですし、文章を書くのでも、音楽やるにしても、なんでもそうだと思いますが、尺度にとらわれず、生きる力をあばれるような形で発揮していく。
これって本当は普通に人間が誰でもやっているはずだと思うんです。それを「暴力」という言葉で表現してみました。
―私たちが本来持っているその力に対峙(たいじ)するものとして、この本では「国家の暴力」が出てきます。
栗原 人の生きる力のほうがより幅の広いものなのに、それを囲い込み、組織的に言うことをきかせていくのが「国家の暴力」です。国家の振るっている暴力は基本的に「人をいかに奴隷化するか」にあります。もともと奴隷制国家のやっていたことの起源というのは「戦争捕虜」でした。戦争捕虜に対しては、殺されたくなかったら自分の個性とか人間性を捨てて従え、と言いきかせていく。
これをやられるとどうなるかというと、完全に人間が無力化されてしまいます。生きる力を失なってしまう。しかも恐ろしいのは、一度その囲いの中に入ってしまうと、無理やりやらされているのに、自分から進んでやってるように思ってしまうのです。それを大杉栄は「奴隷根性」と呼んでいます。古代の話をしているのですが、手段がより巧妙になっただけで現在でもそうなんじゃないかなと常々思っていました。
平和的でクールにと自主規制している…
―その巧妙な手段の具体例として原発が挙げられています。原発再稼働反対のデモにも参加されたとのことですが、国家の暴力に対抗する術(すべ)はあるのでしょうか?
栗原 まず意識することから始めるしかないと思います。原発は、平時でも近隣の住民を支配するうってつけの装置でしたが、事故以来、その力が言説レベルで広範囲に拡散しています。事故直後は本当は関東近辺でも危なかったと思うのですが、逃げろと言うと「気にしすぎだ」「経済が止まってしまう」と押さえ込まれる。そして今は、放射能が危ないと言うと「ヒステリーだ」と言われてしまう。
それを社会の同調圧力と呼ぶにしろ、根底にあるのは経済活動を続けさせる、そのために人を動員する国家の暴力です。経済が止まっても人が生きられればいいと思うのですが、そう考えることは異端とされ排除される。放射能込みで経済に動員していく力が今、極限まで高まっているように思います。
僕が事故直後、本当に怖がっていたのは、実は逆のことでした。旧ソ連が行なったチェルノブイリの例もあるように、強制的に移住させるほうに権力が向かうと思っていたのです。本当はそれでいいのですが、その過程であんまり国家の強制力が強くなると市民生活がぶっ壊されるわけで、そこにはちょっと反対しなくちゃいけないのかなくらいに思っていたんですけど。ところが真逆だった(笑)。事故っても安全だと言わんばかりです。それで、せめて再稼働を阻止しなければと考え、デモにも行きました。
―しかしデモの現場では時とともに、主催者側が参加者を「モノみたいに」扱うようになっていったと書かれています。また終章では、「国家のミニチュアになってはいけない」とありますが、これは人々が集団で行動を起こす際の危うさを見事についた表現だと思います。そのことと関連して、一連の反安保法案デモについてはどうお考えでしょうか?
栗原 あれだけ人を集めてやっていることは尊重したいと思います。デモ自体は大事ですし。ただ、学生の子たちがやっているというので威勢がいいのかなあと思って行ってみると、人数はすごく集まっているのに、統制がすごいんです。「きれいに並んでください!」なんてコールがあったりして。「なんでこんなこと言われなきゃいけないんだ」と思いますね(笑)。
メディアを意識して、自分たちは平和的でクールにやっていると見せかけなきゃいけないと、いわば自主規制してしまっているようです。もっと怒りを表現してもいいのに、自分たちでミニチュアの国家になって抑えちゃってる。
つまり、あばれる力がないんです。周りを意識しすぎている。その根っこはおそらく、学生が主体だから「就活」だろうと思い当たりました。発揮される力が一緒なんです。就活の時にはいかに自分がクールか見せなきゃいけない。笑顔で、きちんと問われたことに対してコミュニケーション能力を駆使して答えないといけない。労働倫理にしばられてセルフマネージメントをやらされているのが現状で、その根性がデモにまで及んでいる。それならいったん「働かない」という前提から、行動を起こしてみるのがいいでしょう。
海外なら安倍政権に暴動くらい起きてる
―労働という大前提を変えてみると、どういった行動が可能になるのでしょうか?
栗原 そこから動き始めるとしたら本来何やっても自由なはずなんですね。普通、海外で安倍くらいのことやられたら絶対暴動になってると思います。ギリシャだったら国会焼き打ちとか(笑)。それくらいあばれるのが自然ですから。そこで、メディア受けなんて考えずに思い切ってハチャメチャにやってしまう。路上であばれることができると自分の感覚が変わってきます。「あれしちゃダメ」だらけの感覚が消えて「あれもこれもできるんだ」という無数の力が自分の中に湧いてくるのに気づく。街頭でもサークルでも職場でもどこでもいいから一度そういう感覚を取り戻す。それが大事だと思います。
(取材・文/前川仁之 撮影/藤木裕之)
●栗原 康(くりはら・やすし) 1979年生まれ、埼玉県出身。東北芸術工科大学非常勤講師。専門はアナキズム研究。『大杉栄伝 永遠のアナキズム』(夜光社)で第5回「いける本大賞」受賞。個性あふれる文体から紡ぎ出される文章は、まるで講談を聞いているかのようにリズミカルで必読
■『現代暴力論「あばれる力」を取り戻す』 (角川新書 800円+税) 最注目のアナキズム研究者が「なぜ個人も家庭も社会も我慢を強いられてしまうのか?」という難題を平易に解き明かす。本書では、世の中にはびこる“隷従の空気”を打ち破るべく、あえて現代社会で暴力を肯定し直している。「わたしたちは、いつだって暴動を生きている」と語る著者による、国家を相手取った挑戦的な一冊