零式艦上戦闘機、通称『零戦(ぜろせん)』――。
太平洋戦争中に活躍した旧日本海軍の主力戦闘機だ。戦後はプラモデルや漫画、映画などを通じて親しまれ、今でも高い人気を誇る。宮崎駿監督が零戦の設計者をモデルに製作した『風立ちぬ』も記憶に新しい。
1月27日、その零戦が現代の空を飛んだ! 実業家・石塚政秀(まさひで)氏が、所有する零戦二二型のテスト飛行を鹿児島県鹿屋(かのや)市上空で行なったのだ。
零戦が日本の空を飛ぶのは、実に71年ぶりのこと。この歴史的瞬間を見逃すまい!と、週プレ記者も現地に駆けつけていた。
テスト飛行をする零戦二二型は1970年頃、ニューギニアの旧日本軍基地跡で発見された機体を修復したもの。石塚氏は歴史的な“名機”を是非日本に里帰りさせたいとの思いから購入し、苦節8年、ついに今回のテスト飛行にこぎつけた。
1940年に正式採用された零戦は、敗戦した1945年夏までの6年間で1万機以上生産された。この数字は軍用機としてのみならず日本の航空史上最多だ。しかし、太平洋戦争の前半では世界最高レベルの性能を持つ空中戦の花形として無類の強さを誇ったものの世代交代ができず、後半戦では時代遅れとなって本来の任務ではない特攻(体当たり攻撃)に使われたという“負の歴史”がある。
その零戦をなぜ今になって空に飛ばそうと思ったのか? 石塚氏が語る。
「零戦はやはり(戦争という)悲しい運命から生まれた飛行機ですが、明治維新から70年後に日本人はこういうものを造れたのです。その10年前にはすべての機械は欧米からの技術導入を受けてライセンス生産するしかなかったのに、そこからたった10年で日本の技術者がこれだけのものを造り上げた。
これは、多くの日本人が技術革新を求めて努力した結果です。戦後復興も今の平和な社会も、こういったことがベースにあるのだということをこの零戦を通じてひとりでも多くの人に知ってもらいたかった」
そして71年ぶりに迎えた“離陸”の時。石塚氏の思いを乗せた零戦は、腹に心地よい爆音を立て、当たり前に上昇し、旋回し、降下する。その姿はひと言、ただただ美しかった――。
撮影中に実感した“航空戦”の難しさ
翌28日には海上自衛隊鹿屋航空基地から鹿児島空港までフェリーフライト(移送飛行)を行なった。11時10分に飛行許可が下り、同50分に暖機運転開始、正午に離陸、30分後に着陸…という慌ただしいフライトだったが、これと並行飛行させたセスナ機に同乗し、上空で零戦を撮影したカメラマンの吉留直人氏がこう話す。
「あの日は天気が悪くて視界不良でしてね。零戦を撮るためにこっちも離陸して探したのですが、全く見つけられず鹿屋の近くまで来てしまいました。そしたら無線で『もうすぐ(鹿児島空港に)着陸するところです』と連絡が入って…。
慌てて引き返して、なんとか発見できましたが、5枚くらいしか撮れませんでした。それに、零戦は元々見つかりづらいような塗装(※1)になっているらしいじゃないですか。そのせいもあってか、難しい撮影でした」 (※1 石塚氏によると、機体の塗装は映画『パールハーバー』に「出演」する際、撮影スタッフが施したもの)
これが実戦だったらと思うと…大戦中には相手の飛行機を発見できなくて大きな被害を招いたり、逆に敵の目を欺(あざむ)いて戦果を上げたりといったことがたくさんあったのだろう。はからずも航空戦の難しさを追体験した形になった。
その一方で、目の前を飛行する零戦の姿を眺めていると、戦争末期に日本を守るため特攻に向かった僚機を彷彿(ほうふつ)とさせ、時折、胸がしめつけられる…。
大日本帝国の栄光と限界と悲劇を体現する零戦が71年ぶりに日本の空を飛ぶ時、2トン足らずの小さな機体は敗戦に至る6年間をまるまる保存した、いわば“空飛ぶ歴史博物館”となり、見る者に多様な感情をもたらすのだった。
零戦オーナー・石塚氏の葛藤と切なる願い
今回、大成功のうちに終わった零戦のテスト飛行だが、石塚氏にとって、その道は決して平坦なものではなかった。例えば、戦後70周年の昨年に飛ばす計画だったのを遅らせたのは、安保法制を巡って国民の政治意識が高まる中、「零戦が提起する問題意識が違った形で受け取られるのを避けたかった」から。
また、機体修復とメンテナンスに必要な2千万円はクラウドファンディングで募ったが、出資者は個人に限られ、法人として支援を名乗り出る者は皆無だったという。これも誤解からイメージダウンにつながるのを恐れた結果だろう。
「零戦が戦争の象徴とかいろんな形で言われますけど、これはあくまで機械ですから。零戦に戦争の責任を押し付けるのは、私はアンフェアだと思います」と石塚氏は複雑な胸中を吐露(とろ)する。
幸い、このテスト飛行を成功させたことで法人からの支援の声も上がり、次のステップとしての一般公開飛行に向けて背中を押されているとか。
「今後も博物館に入れるようなことはせず、国内で動態保存という形で飛ばしてやり、ひとりでも多くの日本国民に見てもらい、零戦のエンジン音(※2)を聴いていただきたいです。
感じることは人それぞれあると思います。ただ『いいなあ』と思う人がいてもいいし、『どうしてこういう飛行機がつくられたんだろう』と歴史に興味を持つ人がいてもいい。そしてプラモデルで少年時代を過ごした方々には本物の魅力を堪能していただきたいですね」 (※2 ただしエンジンはオリジナル〈中島/栄エンジン〉ではなく米国プラット&ホイットニー社製のR-1830〈F4Fワイルドキャットが搭載していたもの〉)
里帰り飛行を終えた零戦は次の出番を待ち、鹿児島空港で静かに翼を休めている。
(取材・文/前川仁之、撮影/吉留 俊)