2011年3月。被災直後の東北をひとりの写真家が訪れた。
――あれから5年。彼が被災地の同じ場所を数年にわたって撮り続けた奇妙な“重ね写真”を見て、あなたは何を感じるだろう。
復興とはなんなのか。この写真が伝える「今」は、6年後、8年後、10年後の未来に繋がっているのだろうか。わからないからこそ、彼はこれからも撮り続ける。
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写真家・八尋伸(やひろ・しん)が“あの日”の直後に被災地に降り立ったのはいくつもの巡り合わせの結果だった。
「まず、現地に行くための足がなかった。どこのレンタカー屋に行っても断られて。『貸しても乗り捨てられる』と思ったんでしょうね。実際、そういうことは頻繁(ひんぱん)に起こっていたそうです」
ようやく探しあてた個人経営の店で車を借り、たどりついたその場所で見たのは言葉にできない震災の惨状だった。
「避難所になっていた(宮城県牡鹿郡)女川町総合体育館に着いた時、まず思い浮かんだのが紛争地域の難民キャンプを取材した時のことでした」
施設前の側溝に垂れ流される排泄物。立ちこめる臭気。壁に貼られた安否情報のリストに、虚(うつ)ろな視線を向ける人々。
被災地にはぶつけようのない怒りと悲しみが渦巻いていた。体の力が抜けるような話ばかりを聞き、声をかけることも憚(はばか)られるほど凄まじい顔つきの被災者も見た。見渡す限りのガレキ、潮とヘドロのにおい。何を伝えたいのか、伝えるべきなのかもわからないままシャッターを切り続けた。
――あれから、もう5年が経つ。
そしてその時からその場所で、彼は定期的に奇妙な写真を撮るようになった。
「翌年の2012年、そしてそれ以降は…自分の中の記憶を一度“リセット”する意味で、2年おきに現地を訪れました」
ひとりの写真家が5年の月日をかけて追いかけた被災地の変遷。そのうち、記者が彼と共に行った2016年2月の宮城県牡鹿郡女川町と気仙沼市でそこに住む人々に聞いた談話から、復興の真実はより鮮やかなものになった。
「いつになったら元に戻るのか」と保つのが大変
■女川町の医療センター前でプレハブのカフェを営む女性の談話
「当時はこの写真にも写っている前の海(女川湾)から100メートルくらいのところに住んでいて、家も店も津波に流されてしまった。妊娠8ヵ月の状態で、向かいに住んでいた目の不自由なおばあちゃんと一緒に右手の山の高台まで逃げた。
あれから5年近く経った今も仮設住宅に住んでいて、自宅が建つまで早くてもあと2年はかかるのではないか。同じ女川町民でも家が大丈夫だった人、そうでない人、仕事がある人、ない人とだいぶ差がある。震災直後は強く持っていた気持ちも、最近では『いつになったら元に戻るのか』と保つのが大変になってきてい る」
■女川駅前のまちなか交流館で働く女性の談話
「家にいた94歳の義母と一緒に避難することができず、連れ出してこられなかったのが今でもずっと心に引っかかっている。震災からの3年間はただ必死に働いて…朝6時から23時くらいまで石巻市と女川町を往復する生活を送っていた。
2年前に主人が体を悪くして店を閉めたので、今は交流館で働かせてもらっている。でも女川の町の人はみんな強いので、私も前向きに。前向きにならないと仕方ないから。今は、以前までの女川とは違う新しい女川になることを期待している」
■マリンパル女川おさかな市場で働く遠藤義信さんの談話
「あの瞬間にはマリンパルの市場で働いていて、従業員を避難させてから自分も高台に逃げた。ただ、まさか10メートル以上の大津波がくるなんて誰も思わないから、途中の坂道の車の中で暖をとっていて流されてしまった人たちも多かったと聞いている。
高台の病院でも、2階以上にいた人は助かって、1階にいた人は濁流に飲まれて、必死に泳いで助かったという人もいた。津波でダメになった市場が、今の場所で再開できるようになったのが2011年の9月。震災前には16の店舗が入っていたけど、今は6店舗だけ。
再開できるようになると思わなかった人たちはみんな町を出て転職していった。(人が流されているところを見たせいで、心情的に)『町に戻れない』という人も多い。漁獲量としては70~80%のところまでは戻ってきているけど、潮の流れが変わったり、魚が住み着くような環境ではなくなったところがあったり、海の中に変化は当然ある」
「あなたたちがいると復興が進まない」
■気仙沼市鹿折地区で酒屋を営む田畑酒店・伊藤宏美さんの談話
「震災の当日は買い物中で、慌てて家に戻って母親と姪と一緒に高台に避難した。湾港を見たら倒れた重油タンクに引火して右も左も火の海で…不謹慎かもしれないけど、真っ赤な空に星がたくさん浮かんでいてすごくきれいだなって思ったのを覚えている。
自分が生まれる前から家がやっていた酒屋は津波で流されてしまって、翌年、復興マルシェという寄り合いのようなものができて、そこで5年くらいは店をやれるかと思ったんだけど、土地のかさ上げにかかってすぐに出なければいけなくなって。
今は自宅があった前の場所でプレハブの店(鹿折復幸マート内)をやっているけど、ここも今年の8月には立ち退(の)かなければいけない。都市計画に引っかかるらしく『あなたたちがいると復興が進まない』と言われて。場所を探しているけど土地代などの条件面で折り合いがつかない」
■気仙沼港で働く男性の談話
「うちは高台にあったから家は大丈夫だったんだけど、当日は漁港の建物の屋上から町が真っ黒な水に飲み込まれていくのを呆然と見ていた。船なんて何艘もひっくり返って、普通だったら見えない船底まで確認できた。
5 年が経つけど復興の実感はまるでない。あと10年はかかるのではないか。かさ上げだっていつまで経っても終わらないし、ゆっくりとしか進まないという印象。最初の頃は観光客なんかも来てくれて『がんばろう気仙沼』みたいな雰囲気だったけど、最近はどんどん風化して忘れられているような気がする」
八尋氏はこう語る。
「この写真を見て『復興が進んでいる』と思う人も、『全然進んでいない』と思う人もいると思う。確かなのは、“あの日”の記憶が震災を経験した人の中からも、それを外から見ていた僕たちの中からも少しずつ薄れているということ」
2011年当時の写真を手に被災の現場を巡る作業は年々難しくなってきている。「場所によっては風景が変わりすぎていて、同じ位置に立っているのかわからなくなる」。
かつて自分の家があった場所を「もう思い出せない」と遠い目をするお年寄りもいたーー。
「だからこそ、復興とは何かということを改めて考えてもらえるのかなと思います」(八尋氏)
■発売中の『週刊プレイボーイ』No.12では、八尋氏の撮影した写真をこの他にも掲載。そちらもご覧ください。
●八尋 伸(Yahiro Shin) 1979年生まれ、香川県出身。2010年頃からタイ騒乱、エジプト革命、ミャンマー民族紛争、シリア内戦、東日本大震災、福島原発事故などアジア、中東の社会問題、紛争、災害などを撮影、発表。シリア内戦のシリーズで2012年上野彦馬賞、2013年フランスのThe 7th annual Prix de la photographie, Photographer of the yearを受賞。ミャンマー民族紛争のシリーズでThe 7th Annual Photography Masters Cup、Photojournalism部門でノミネート、コニカミノルタフォトプレミオで入賞、写真展を開催している
(取材・文/週刊プレイボーイ編集部)