川原のあちこちには「絶対反対」の横断幕ややぐらがある。これが日常の光景になっている

日本各地に大型ダム建設計画は多々あれど、長崎県が計画している石木ダムにおける住民運動は異彩を放つ。

土地が強制収容されても尚、地権者13世帯(約60人)が移転を拒み、ダム建設絶対反対を掲げ、1年365日闘い続けているからだ。その闘いはもう半世紀を超え、かつての10代、20代の青年たちは今、還暦を過ぎている。

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長崎県が石木川流域に石木ダムを作ろうとしている長崎県東彼杵(ひがしそのぎ)郡川棚町川原(こうばる)地区。

記者が初めて取材に訪れた2015年12月7日、その還暦超えした男性陣10数人が小屋を建てているのにまず驚かされた。その土地は昨年8月25日に長崎県収用委員会の裁定で、所有者が地元住民の石丸勇さん(67)から国へと替わった土地であるからだ。いわゆる「強制収用」である。

県の予定では、ここがダム湖の湖底になる。この強制収用に石丸さんを含めた住民は「納得できない」と、敢えてその土地に石木ダム反対の横断幕を掲げて監視小屋を建てたのだ。

12月7日に完成した、強制収用された土地の上に建つ監視小屋。自分たちの生活を守るためなら住民はあらゆる手段を講じることにちゅうちょしない。

小屋の前には石丸さん所有の田んぼが広がる。ここも強制収容され、新聞報道によると県土木部の木村伸次郎政策監は「あの土地はもう公有地。他人の土地での勝手な栽培は論外」と言い放っている。だが石丸さんに従うつもりはない。

「私の田んぼです。来年も作付しますよ」

女性陣も奮闘している。その多くはダム取り付け道路予定地の近くでダム反対の鉢巻きを締め、連日の座り込みで車両の進入を拒んできた。

強制収用はあと2回行なわれる予定だが、住民は今、収用委員会の審理も実力で止めている。次回収用のため、昨年10月から県収用委員会は7回の審理を試みているが、ダム反対のゼッケンと鉢巻きを身に着けた住民たちが開催前に委員の入場を阻み、5回までも審理中止となっているのだ。

行政の手続きそのものを許さないこの徹底した闘い。そこにはなりふり構っていられない住民の必死さが見える。だが、住民は願っているのではなく信じている――「ダム計画は中止になる」と。

絶対反対の鉢巻き。1年のほとんどの日、女性たちはこれを締めている。

「必要のないダム」での「故郷の喪失」

総貯水量548万トン、堤高55.4メートル――完成すれば県内で3番目に大きなダムとなる石木ダム。では、ダムの底に沈む予定の13世帯が半世紀以上もダム反対運動を続けるのはなぜか? 理由は極めて明快。「必要のないダム」での「故郷の喪失」を食い止めるためだ。

全国的に知名度の高い群馬県の八ッ場ダム計画と石木ダム計画には共通点がある。八ッ場ダム計画が地元に知らされたのは1952年。都市部への「利水」や「治水」が目的だったが、その実効性が疑問視されると「発電」と「河川流量」の維持が目的に加わった。

対して、石木ダム計画を住民が知ったのは62年。当初は佐世保市への「工業用水」として運用予定も、企業誘致に失敗。次いで、長崎県と佐世保市は「市の水不足解消」と「治水」へと目的を変えた。どちらの計画も多くの住民を立ち退かせ、根強い反対運動が起こった。

だが、両者の決定的な違いは、八ッ場ダム予定地にもう地権者がいないのに対し、川原にはまだ地権者13世帯が住んでいることだ。

長崎県が住民に無断でダム湛水線の測量調査を開始したのがきっかけで露見したダム計画。この時は地元の反対で調査中止となったが、県は諦めていなかった。72年、県は地質調査の意向を打ち出し、それを仲介する立場の町長は住民に土下座して懇願した。

「あくまでも河川開発調査であってダム建設にはつながりません。ひとりでも反対するならダムは造らないから調査だけでも」

この姿勢に住民たちは「仕方なか。地質調査だけなら」と折れたが、調査が完了するや、県は「国から石木ダム建設に予算がついた」と公表。それを新聞報道で初めて知った「川原」、隣接する「岩屋」「木場」の3地区の住民は「冗談じゃなかばい!」と「石木ダム建設絶対反対同盟」(以下、同盟)を結成。県職員の戸別訪問を受けない、つまり交渉に応じないことを作戦の柱にした。

だが県はすかさず「飲めや食えや」の接待や説得工作を繰り広げる。結果、同盟は二分し、80年3月に解散。直後、川原の24世帯が同盟を再結成する。態度を崩さない住民に対し、82年5月21日には県が機動隊を投入し強制測量に踏み込む。そこには当時まだ30代だった岩下和雄さん(68)もいた。

今年4月上旬、東京で講演する岩下和雄さん。

カメラが向いていないところでの機動隊の暴行

「当然、マスコミも来ていました。しかしカメラが向いていないところで、機動隊は座り込みで抗議する私たちの脛(すね)を蹴る、腕をひねるなどの暴行を繰り返し、私も女房もアザだらけになりました。それでも屈しませんでしたよ」

この時のことを、当時7歳だった松本好央さんも鮮明に覚えているという。松本さんは13年3月22日、国土交通省が石木ダム事業認定のために開催した公聴会でこんな公述を行なっている(以下、概要)。

「僕が7歳の時に強制測量がありました。濃紺の服をまとった機動隊がやってきて怖かった。僕らの土地に杭を打ちにやってきた。僕らはただただ怖くて怖くて。でも、大人は杭を打たせまいと必死で、この土地を、僕らを守ろうと立ち向かっていた。

じいちゃん、ばあちゃんは道路に座り込み、道を開けようとはしなかった。そんな大人たちの姿を見て、僕たちも自然と手をつなぎ、震える手に力を入れて、帰れ、帰れと叫び続けた」

機動隊は1週間にわたり延べ750人が投入されたが、住民、支援者、学校を休んだ小中学生らの連日の座り込み行動を突き崩すことはできなかった。県は航空写真の撮影でもって測量を完了するしかなかった。

だが時は経ち、2000年に入ると、家族の事情もあり泣く泣く故郷を後にする人もいれば、補償金交渉に心が折れ、いつの間にかいなくなる人たちが続出した。川原の世帯数が13にまで減ったのはこの頃だ。

「でも、私が思うに出ていかざるを得なかった人はすべて出ていった。絶対反対の人間だけが残った。だから今の私たちの結束力はより強くなった。もう誰ひとりとして土地を売る人は出てこないことだけは明言できます」(石丸さん)

実際、その後、誰も土地を売らず、誰も出ていかなかった――そして10年後の10年3月。またも業を煮やした県は、ダム本体工事は無理でも、それに必要となる付け替え道路の工事に着手。反対同盟は工事用道路の入り口に4ヵ月間も座りこみ工事を中断させた。

反対運動を始めた時、10代、20代だった青年たちはすでに還暦を過ぎていた。この闘いは一体いつ終わるのか?と焦燥感が募る。ところが同年、ダム計画が見直されるのでは…とのかすかな期待を住民たちは持つ。民主党政権でのスローガン「コンクリートから人へ」の政策で、国が石木ダム計画の検証を県に求めたからだ。

だがその検証を担ったのは、長崎県土木部、佐世保市長、川棚町長、波佐見町長といったダム推進派であり、結局、11年5月、県は国に「石木ダム計画は継続」と報告。12年4月、国も形だけの有識者会議を開催し、その会議を傍聴するため上京した岩下さんの入室を国交省の職員が阻み、国は県の報告を了承。じわりじわりと着工への道筋だけが固められていった。

●この続きは、明日配信予定です。

(取材・文・撮影/樫田秀樹)