日本各地に大型ダム建設計画は多々あれど、長崎県が計画している石木ダムにおける住民運動は異彩を放つ。
土地が強制収容されても尚、地権者13世帯(約60人)が移転を拒み、ダム建設絶対反対を掲げ、1年365日闘い続けているからだ。その闘いはもう半世紀を超え、かつての10代、20代の青年たちは今、還暦を過ぎている。
長崎県東彼杵(ひがしそのぎ)郡川棚町川原(こうばる)地区で今まだ続く、「必要のないダム」での「故郷の喪失」を食い止めるための抗戦とはーー。前編記事(「半世紀以上も反対運動を続ける理由とは?」)に続き、石木ダム建設問題の後編!
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その後、法には法で対処しよう、と13年に住民たちは福岡県久留米市の久留米第一法律事務所を訪問。馬奈木(まなき)昭雄弁護士に「代理人になってほしい」と依頼する。馬奈木弁護士は「勝つまで闘う」「被害者がいなくなるまで闘う」をモットーに弁護活動を展開し、水俣病裁判や各地のじん肺訴訟、産廃訴訟で勝訴を重ねる人権派の剛腕弁護士だ。だが、その馬奈木弁護士が依頼を断った。
「私は諫早湾開門訴訟に忙しく、川内原発の差し止め訴訟にも全力投入し、とてもではないけど、新しい案件を抱える余裕がなかった」
だがその後、馬奈木弁護士に翻意させたのは、その諫早開門裁判だった。農地造成のため、諫早湾に潮受け堤防、俗に言うギロチンが設置されたのは1997年。甚大な漁業被害が出たとして漁民らが開門を訴えた裁判で2010年12月15日、「国は開門すべし」との勝訴が確定する。すると、長崎県知事は国に「開門してはいけない」との抗議文書を提出した。
判決に従うなとの知事の姿勢を馬奈木弁護士は「明らかに間違っている」と断定。だがーー。
「ひとつだけ賛同することがあります。それは抗議文書で『初めに事業ありきではいけない。事業で不利益を受ける諫早地区の住民に対して、きちんと議論をして、理解を得て事業推進すべきだ』と訴えていることです。この点において知事の主張は至極まっとうです」
そしてある時、「その長崎県が、自身が起業者たる石木ダム計画では『初めに事業ありき』でやっている」との矛盾に気づき、一転し引き受けることを決めたのだ。
13年12月5日、12人の弁護士からなる「石木ダム対策弁護団」を結成。弁護団はすぐに動いた。3週間後の12月27日には地権者と支援者とで県庁を訪れ、中村法道知事に宛てた、ダムの必要性の根拠を質す18ページの公開質問状を担当の川内俊英河川課企画監に手渡した。
その質問のひとつに、石木ダムが必要な根拠とされるSSK(佐世保重工業株式会社)の水需要がある。佐世保市は工場用水の最大需要先であるSSKの水道使用量が11年度実績の1166tから15年度以降は5691tの約5倍に急増するとの予測を挙げていた。ところが、SSKの艦艇・修繕船事業の売上高は11年度実績の約86億円に対して14年度目標が100億円とわずかに1.16倍でしかない。この数字の乖離(かいり)は何か。
受け付ける質問は、立ち退き後の生活についてのみ
弁護団は1月6日までの回答を求めたが返答はなく、住民と弁護団が14年1月31日に再び川内企画監と討議を行なった。だが、そこで川内氏は質問に対し「ダム建設の是非に関わる個別質問には回答しません」と言い切ったのだ。
馬奈木弁護士は「ウソを言うのか! 質問をお待ちしていますというからわざわざここまで来たんだ。回答書のどこに私たちの質問への答えがあるんだ!」と突きつけたが、川内企画監はこう答えるだけだったという。
「お待ちしている質問とは、今後の生活へのご不安などについてです」
つまり、ダムはもうできるのだから、立ち退き後の生活についてのみ質問を受け付けるということだ。
実際に県は変わらずダム推進へと動き、14年8月、座り込み抗議で着工を阻止していた住民や支援者23人に対し、長崎地裁佐世保支部に「通行妨害禁止仮処分命令申立」を行なった。「座り込みが公道の交通阻害になる。住民を立ち退かせよ」ということだ。
地裁もこれを認め、翌15年3月24日、16人(多くが男性)に仮処分決定を出され、以後、彼らはそこでの抗議行動ができなくなった。さらに14年9月、県は地権者4世帯の田畑について県収用委員会に収用裁決申請を行なった。それによって15年8月には強制収用され、名義が個人から国へと移った。
だが、住民パワーは全く衰えていない。男性陣がいなくなっても、「母ちゃん」たちというべき女性陣が徹底した座り込みで工事を阻んだ。昨年5月から、取り付け道路予定地近くにテントを構え、雨の日も風の日も暑い日も連日の座り込みを続けている。
炎天下の夏は特に「苦行」といえるほどだが、「私らが頑張る限り、ダムなんてできっこありませんから!」と明るく言い放ち、初対面の訪問者でもすぐに受け入れるその雰囲気に、各地からの支援者の訪問が絶えない。まさしく九州の辺野古である。
ただし座り込みは朝から夕方までで、その後、各自自宅に帰る。そのため真夜中が狙われた。昨年9月30日、午前2時のことだ――。
県は取り付け道路建設予定地に5台の建設重機(ユンボやトレーラーなど)の搬入を開始。だが当然、閑散と静かな地域で真夜中の重機の走行は響く。川原より下流の道路脇に住む支援者がそのトレーラーに気づき「まさか!」とすぐに車列を追った。それが建設予定地に入ったことで、即座に住民に連絡。数分後には約40人が現場に結集し猛抗議。これら重機を撤収させ、ここでも結集力を発揮した。
そして昨年12月上旬、前編の冒頭で書いた通り、強制収用された石丸勇さんの土地に反対同盟の住民たちが監視小屋を建てた。石丸さんは語る。
「私たちは絶対にこの土地を離れません。強制収用といっても名義が変わっただけ。私の土地であることは間違いない。県は行政代執行を考えるかもしれないけど、それをやったら最後。県の汚点となる。やるならやってみろです」
全く衰えていない住民パワー
徹底した闘いーー。住民が諦めない限り実際の工事は始まらない。今年1月22日には石木ダム建設事務所の古川章所長が座り込み現場を訪れ、取り付け道路工事の一時中止を表明した。工事業者との契約期間が切れるのがその理由だ。所長は「2月にまた入札をする」と明言したが、どこが契約しようと状況は変わらないはずだ。
またダム工事に必要なのは、取り付け道路の他に「迂回(うかい)道路」もある。まさしく監視小屋の土地の脇を通るため、これも古川所長はじめ県本庁職員、工事業者など約20人が2月8日に監視小屋を訪れ「本日から迂回道路の建設を始めます。測量と伐採から着手させてください」と宣言した。
だが、その時も住民たちは「石木ダム建設絶対反対」の大きな横断幕を道いっぱいに広げて無言を貫き、じりじりと前進。県職員らは帰るしかなかった。この光景は今後、何度も続くだろう。
負けない闘いーーだが、半世紀以上が経った今、どこかで終わりにしなければならない。
川原の住民と支援者からなる110人は昨年11月30日、国を相手取り、土地収用法に基づく事業認定の取り消しを求める「行政訴訟」を長崎地裁に起こしている。さらに今年2月2日には民事訴訟である取り付け道路の「工事差し止め仮処分申し立て」も起こした。岩下和雄さんも勝ち負けじゃないと訴える。
「裁判の目的は、まず世間にこの問題を知ってほしいことです」
また、馬奈木弁護士はもっと先も目指したいと語った。
「川原はダムを中止にさせて万事終了じゃない。どうやって地域の活性化を目指すか。ゴールはそこにあります」
ダム問題が持ち上がったのは50年以上も前。それ以降に生まれた子供たちは物心ついた時からダム反対が当たり前の日常だった。数少ない若い世代のひとり、松本好央さんが13年2月の公聴会で公述したのには続きがある。
「僕の奥さんが初めて川原にやってきた時、ぎょっとした顔をしました。田んぼや畑のあちこちに石木ダム反対の看板があったから。僕は初めて知りました。こんな看板だらけの景色が普通ではないということに」
「川原にはダムを造らせない日常があります。子供たちもそう思っています。でもそれは非日常が日常になっているということ。つまり、素晴らしさと悲しさの両面がある。ダム計画がなくなった後、自分たちの地域を自分たちで作ることこそ本当のゴールです。そのためのお手伝いをしたい」(馬奈木弁護士)
そして、松本さんは公述の最後を次の言葉で締めている。
「僕らは、ただただ生まれ育ったこの土地に住み続けたいだけなんです。この大好きな自然を僕らの子供たちのために残したいだけなんです」
(取材・文・撮影/樫田秀樹)