「売れないじゃなく、売りに行かなきゃ!」と離島コンサートまでますます意欲的な山川さん 「売れないじゃなく、売りに行かなきゃ!」と離島コンサートまでますます意欲的な山川さん

あの国民的バラエティ番組のスピリットを引き継ぎ“友達の輪”を!とスタートした『語っていいとも!』

前回、歌手の氷川きよしさんからご紹介いただいた第29回のゲストは歌手の山川豊さん。

デビュー35周年となり、実兄の鳥羽一郎さんとともに演歌界を代表する顔となった今。前回は貧しかった幼少時代からデビューまでの道のり、そして家族や後輩の氷川さんとの絆まで、まさに“演歌な男気”人生を語ってもらったがーー。(聞き手/週プレNEWS編集長・貝山弘一)

―デビューされた80年代はレコードが売れた時代ですし、ヒットチャートとかTVの歌番組も全盛で華やかな時代でしたからね。

山川 すごかったですよね。歌う場は結構あったし。キャンペーンなんかも随分やらせていただいて。今みたいに昼からではなく、夜からが多かったんで、これはちょっと辛かったですけど(笑)。

レコード店ももちろん回るんですけど、それプラス、そのレコード店の紹介とかで夜はスナックへ連れて行かれるんですよ。行って歌って、レコードを売るっていうね。もう、1日やって50枚売るのが大変で。だけど、そこで1枚のレコードを売る、ありがたさとかを感じるんですよ。

―以前、ゲストで出ていただいた松崎しげるさんは、レコード店の店頭だろうが、歌えるだけで嬉しかったけどね、みたいな話もされてましたが。

山川 まぁそうですね…。ただ、自分が描いていた芸能界とは180度違いましたよ。レコード会社で下働きしてた時に、大先輩の村田英雄さんとかのキャンペーンついてたから、そういう人はそんなことやらないじゃないですか。自分がデビューしたら「えっ? こんな朝から晩までメシ食う暇もなく、これじゃ体もたないな…」と感じましたよ。

―いわゆる、どさ回り的なことですよね。体には自信があったはずでしょうけど…。

山川 ありました。だから、もっと辛いのはスタッフさんだと思ってね。そこで初めて2年っていう下積みの修行が活きたんですよ。タレントっていうのは、こういう風に寝ずにスタッフが売ってくれるからこそってことを、その2年で感じ取ってたからね。

―いろんな賞を獲られてすぐに脚光を浴びて、という印象とはほんと違ったんですね。

山川 いやいや、(キャンペーンや)そういう細かいことをやらないと、演歌の世界はTVに出ただけじゃ、なかなか売れないですよ。それは絶対に言えますね。今の時代もそうですよ、どれだけ足で稼げるかっていう。今こそそれをやらないとダメだね。

―それを当初から実感してたと。近藤真彦さんとデビューが同期で、賞レースでも対比されたりしていたそうですけど。

山川 もう別世界ですね。僕も当時まだ22歳でしたけど、向こうは10代で高校生でしたから話合わないし…。楽屋にいても、端っこに僕がいて「おじさん、おじさん」って言われてね。それが、あだ名だったんですよ(笑)。

「あれがなければ、紅白も出られたかも…」

―マッチはそれこそ『金八先生』で人気が出て“たのきんトリオ”絶頂期ですよね。

山川 あとは、ひかる一平くんとか堤大二郎くん、亡くなった沖田浩之くんとかもいたからね。でもみんな全然違う話してるから、ついていけないんですよ。

―ジャニーズ系のアイドルと比べられても、ほんと世界が違うっていう感じで?

山川 そうそう。賞レースが始まって、番組なんかで『ギンギラギンにさりげなく』を先にやられちゃうとたまったもんじゃなくてね。それで「『函館本線』どうぞ」って言われて出て行くと、みんなシーンとしちゃって。最初の頃はずーっとやりづらくって。

―自分の前に女のコのファンがキャーキャー熱狂して食われちゃって(笑)。

山川 そうはいっても僕が決めるわけじゃないしね。だけど、後半になってくるともう慣れてきたね。自分は自分なんだって。

―とはいえ、当時は山川さんもスマートな感じのイケメン若手演歌歌手ということで。だいぶ新鮮なタイプで女性人気もあったんでは?

山川 そうですかね(笑)。ただ、新人賞はいただいたんですけど、紅白は出れなかったので。山本譲二さんなんかもやっぱり苦労されてきて、ちょうど僕らの昭和56年、1981年に『みちのくひとり旅』がバーってきたでしょ。『奥飛騨慕情』(竜鉄也)もそう。あれがなければ、紅白も出られたかもしれないけどね。

―そことぶつかっちゃって。確かに2曲とも大ヒットでしたもんね。

山川 もう100万枚いってましたから、そういう世界ですからね。同じレコード会社で『ルビーの指輪』も思い出しますよ。歌謡大賞を僕ら同時に獲らせてもらって。向こうが大賞で、僕は新人賞でね。お祝いしたことがあります。だからこの前、久々に寺尾(聰)さんとお会いして。そんな話してね。

―僕も『ルビーの指輪』は思い出深いです。中3の修学旅行でのバスの中でカラオケ歌ってますから(笑)。でもあの頃は、国民的ヒットソングといえる曲がしのぎを削って続々出て、超ハイレベルのぶつかり合いでしたよね。

山川 ぶつかり合いでしたね。だから新人としては、まあまあ破格の数字はいったと思うんですけどね。それに隠れちゃったみたいな部分もあって、たまったもんじゃない。

だけどやっぱり、亡くなった事務所の長良会長が仰ってたんですよ。「10年先、20年先を見ろ! その時にどうなっているかっていうのが勝負だから。そこだよ」と。演歌は長いスパンでという、それは印象に残ってます。

―それで、この35年続けてこられたわけですから。

山川 まぁ近藤真彦さんもそうだよね、今本当にジャニーズのほうでも、みんな後輩に慕われて。年はちょっと下だけど、デビューも一緒で頑張ってるんじゃないですか。

「35年、あっという間じゃないでしょ!」

―ちなみに、山川さんもイケメンの演歌歌手という路線でずっとこられてるわけですよね…。

山川 ないない。イケメンっていう言葉もなかった。

―でも演歌界の中ではアイドル的な見方もされていたんでは?

山川 いや…アイドルっていうような、そういうのはなかったね。やっぱり「Mr.演歌」ってキャッチフレーズでしたから。だから紺のスーツでしたよ。そのイメージでやっぱり新鮮さと清潔さみたいな。

―王道の感じですか。面白いのが、その1年後にお兄さんの鳥羽さんがデビューされて、地元の海であるとか男臭いところが売りで。山川さんの場合は最初から函館だったり、北のほうの題材が多くて洗練されてる感じですよね。

山川 やっぱり『函館本線』のイメージはすごく強いんだよね、うん。だから出身が同じでも兄弟っていうのをわからなかった人は多いですよ。特に何も言わなかったしね。

―それこそ鳥羽というバックボーンがあるのに、それを逆に全く感じさせないのは全国区を意識してとか。題材にしても男と女であるとか…。

山川 やっぱり声が合ってたんだよね。『函館本線』から繋がってるんですよ、その巡り合わせみたいなものが。人生ってそんなのがあるでしょう? だから、男と女がどうこうってドラマより、この歌は間違いなく山川豊の声に合う、この世界だろうとスタッフにはわかってたんでしょう。もう、それが僕との縁なんですよ。そこでコロコロ変わってたら、兄貴とも絶対ぶつかってたしね、間違いなく。

―今回の35周年記念シングルの1曲『蜃気楼の町から』にしても舞台が北陸で。MVも富山の魚津の風景をバックにスマートに歌われていて。

山川 そういう傾向、昔から多かったんですよ。演歌の作品って大体そうじゃないですか。北海道から下りてくるとヒットするっていうくらい。やっぱり北のイメージってあるんですよ。

―『津軽海峡冬景色』『襟裳岬』『北国の春』…。やっぱり温々(ぬくぬく)してたらいかんというか、風雪がないとみたいな(笑)。

山川 もういっぱいあるんですよ。南の歌ってそんなにないでしょ? あんまりドラマにならないのかもしれないね。長崎があっても雨なんだから(『長崎は今日も雨だった』)。

―(笑)。そうやって積み重ねてきた35年、振り返って感慨深いですか?

山川 感慨深い。長かったですよ。こういうインタビューされると、みんなあっという間でしたって言うけど、あっという間じゃないでしょ!(笑) そりゃいろいろあるよね。プライベートでも結婚して子供ができ、小さい頃は忙しくて家に帰る暇がなかったから、久しぶりに帰ると、子供が僕の顔見て泣いたみたいなね、ほんと。

―商売柄、それは勲章でもあるというか、家に居てもらっても困りますけどね。

山川 そうそう、居ても困るんですよ。まぁ、子供はあんまり手をかけちゃいかん、どっちかっていうと放っぽり出してね。僕もそうだったけど、寂しいとか会いたい、それで会った時の喜びっていうのがあるんだけど。ずっと居てくれるに越したことはないよね。

―まぁ今は溺愛しすぎて、甘やかされて育つという風潮もありますが。

山川 ダメだよね。それでスマホゲームをやってる場合じゃない。

「売れないんじゃなくて、売りにいかないと」

―『ポケモンGO!』とか(笑)? せっかく先日の「山川の日」のイベント(山の日と川の日の中間である7月25日に開催)でボルダリングに挑戦したのを、そのタイミングで各紙の大きい所を持っていかれたみたいな(苦笑)。

山川 なんだろうね。ああいうものがよく理解できないんですよ。好きだったらいいけど、あんまり興味ないから。携帯なんかでも、便利は便利だってわかるんだけど。

―多趣味だったり、その溶接の資格だとか手先も器用ということで、いろいろこなしそうなイメージもありますけど。

山川 携帯だけはダメなんですよね。兄貴はスマホに変えたんだけど、鳥羽一郎とスマホっていうのは似合わないよね。ガラケーじゃないとダメだろって(笑)。

―(笑)。この35年で当然、そういうテクノロジーや社会風俗とともに、TVや音楽業界もものすごく大きな変化を見てきて、難しい時代ですよね。

山川 そうですね、バブルも経験したしね。だからやっぱり、これからは自分たちが仕掛けていかないといけない時代になったと思いますよ。レコードが売れないんじゃなくて、売りにいかないといけない。そういう時代だと思うんですよ。

だから今度は離島にも行こうと。コンサートで大きな島は行きましたよ。佐渡島も奥尻島も、奄美大島も徳之島もみんな行ったし。でもまだ人口500人とか300人って、小さな島がいっぱいあるじゃないですか。そういう所にキャンペーン含めて行ってね、見つけて来ないと。待ってちゃダメなんです、自分たちで開拓していかないと。

―そういえば元プロ野球の村田兆治さんも野球教室で離島をずっと回られて、離島代表の大会まで開催してますよね。

山川 だから演歌もああいうところまで浸透しないと本物じゃないと思う。そういうところで「わー、山川豊が来た!」「この歌が聴きたい」って言ってもらえるヒットを出していかないと。ただレコードを売りにいくんじゃなくて「あの歌を聴いたから明日も頑張ろう」って、そういう使命っていうのも歌い手にはあると思うしね。

―AKBみたいな、会いに行けるアイドルじゃなくて“会いに行く歌手”ですね。

山川 そうです、“会いに行く歌手”です。恋じゃなくて愛にいくんですよ(笑)。そうしなきゃダメ、絶対。これからの時代は。

―それこそお兄さんもチャリティーコンサートに熱心で。先日、東京では18年振りというディナーショーを一緒にやられたそうですが、それも復興支援とか。

山川 そうです、熊本と福島の。兄貴は刑務所なんかもずーっと慰問で、もうほとんど回ってるんじゃないかな。1ヵ所くらい行ってないとこがあるから、どうしても行きたいんだって言ってたけど。歌を通じて、そういう貢献もすごく大事だと思いますよ。

だから声かけていただいて、お互いがやれるところはね、コンサートでほとんど日本を2周くらい回りましたから。喜んでもらいましたよ、本当に。これから僕が行く離島もどういう反応かなと思って楽しみにしてるんですけどね。

次回ゲストはボクシングで五輪を目指した芸人の…

―57歳でボルダリングに初挑戦されるくらい体も頑健ということで(笑)、ますます精力的な活動を期待できますね。

山川 いやもう体中痛いですよ(笑)。60に近いんですから…。だけど運動は好きだからね。ボクシングもずっとやってるし。今でもジムにミット持ちに行ってますよ。

―ずっとトレーナー的な役割もされてるんですよね。受けるだけでもトレーニングとして健康維持にいいでしょうし。

山川 もちろん日本王者くらいになってくると、もうスピードについていけないし無理ですけど。4回戦とか6回戦とか、それくらいだったらまだね。

でもそれとは別な話で、選手を見てるとね、今30、40人近く寮生がいるのかな。地方のコばっかりで、それも右いったり左いったりフラフラして、逃げてきてるのもいるし…そういうコたちでも立派になるんですよ。

挨拶もできなかったコがね、そこで何か感じるんでしょう。「ああ、俺は何やってたんだろう」みたいな。それは僕らの力じゃなく、やっぱりスポーツの力ですよ。そういう成長を見てると嬉しいし、僕も頑張らないといけないって励みになって、刺激ももらってね。

―教えるだけじゃない、また自分の学びにもなってるんですね。

山川 内山高志っていう元世界チャンピオンもいるしね。年は随分下だけど、尊敬する人は誰ですかって聞かれて、僕は彼を言うんですよ。やっぱり心技体がもう飛び抜けてるっていうか、その3つがバランスよく平行してるのはすごいなって。精神的にもすごく学ぶところがあるしね。

―実はオリンピックを目指していた南海キャンディーズのしずちゃん(山崎静代)も同じジムで。次のお友達候補に挙げていただいてますね。

山川 彼女も最初は「おはよう」くらいしか喋らなかったよね。でも練習はこそっと僕も見に行ってましたけど、亡くなったトレーナーと一生懸命やってましたから。

一時期、彼が「こいつもうダメだよ、どうにもなんないから俺も辞める」って言って、山川さんちょっと見てくれる?っていうんで、見てたことがあって。「しずちゃん、そんないい体してんだから、もっと使ったほうがいいよ」ってね。

でも顔から打ち合いにいこうとするんだよ。前のめりで余裕がなさ過ぎるわけ。気持ちがガーッと入りすぎるから、お笑いやってたくらいの“あっち向いてほい”みたいな気持ちでやらないとダメだよって言ったんだけど。

―やっぱり性格や気質が出るんですね。本人の真面目さだったりとか。

山川 出るんですよ。パンチももっとリラックスして打たないと。こんなカッチカチになってるんだから…。だけど、不器用な中でも一生懸命でしたよ。8時間も練習してるんだもん。それも練習が長過ぎるって言ったんだけどね。

―でもそういう経験をして、また変われたことがあるんでしょうし。芸人の世界に戻っての今後が気になるところですかね。

山川 それはあります。いろんな意味で、しずちゃんも変わりましたよ。だから大丈夫かなって思いますしね。よろしく言っておいてくださいよ。

―了解です。では、しずちゃんの今を伺いつつ、繋げさせていただきます。本日はありがとうございました!

『語っていいとも! 第30回ゲスト・山崎静代「ボクシングのイメージが強くなって、言い訳もできない怖さはあった」』

(撮影/塔下智士)

●山川豊 10月15日生まれ、三重県出身。1981年『函館本線』でデビュー。新人賞を獲得。1986年『ときめきワルツ』で紅白歌合戦初出場。1998年発売の19枚目『アメリカ橋』が大ヒットを記録。日本演歌大賞、日本作詩大賞など数々の賞を受賞。近年ではバラエティ番組などでも活躍中。3月16日に発売した35周年記念両A面シングル「再愛 / 蜃気楼の町から」がロングヒット中。11月3日にはよみうりホールにて「山川豊 デビュー35周年記念コンサート」を開催。チケット好評発売中。