「日常には芸術が溢れているし、芸術はないよりあったほうが楽しい。そうしたものを作るために努力している藝大生たちのことを知ってほしい」と語る二宮敦人氏

国内最古にして最高の芸術系大学、東京藝術大学。“芸術界の東大”ともいわれるが、その入試倍率は東大よりはるかに高く、2浪、3浪は当たり前という超難関大学だ。

学内は、大きく分けて音楽を学ぶ「音校」と美術を学ぶ「美校」で構成されるが、その実態は一般にはあまり知られていない。

そんな藝大を秘境ととらえ、そこに通う人々の実態に迫ったのが『最後の秘境 東京藝大―天才たちのカオスな日常―』だ。著者の二宮敦人氏は、一橋大学経済学部で金融について学び、現在は小説家として活動する、いわば“芸術の門外漢である。そんな彼が、現役藝大生と結婚したことで彼らの世界に興味を持ち、2年の取材を経てを本書を書き上げた。

受験勉強で肩を壊したピアニスト。命取りにもなる加工機械を素手で扱う女子大生。口笛をクラシックに取り入れようとしている口笛世界チャンピオン。多種多様な異人たちに触れて、著者がたどり着いた境地とは―

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―本の発行部数が10万部を超えたそうですね。思えば、「東大」に関する本は数あれど、「藝大」の本は新鮮でした。

二宮 ありがたいことに大きな反響をいただき、こうして取材もしていただいてるんですが、人の褌(ふんどし)で相撲を取っている感じは拭えないですね(笑)。本当にすごいのは、ここに出てくる藝大生たちなので。ただ、今年から藝大の学長になられた澤和樹先生から、「これを美校のガイドブックにして勉強します」との言葉をいただきました。

澤先生は音校のヴァイオリン専攻卒なので、美校でどんなことが行なわれているかそこまで知らなかったそうなんですね。美校のなかでも学科が違うとまったくやることが違うので、彫刻科のうちの妻も「ほかの科のことが知れて面白かった」と言っていました。

―そもそも、現役藝大生の奥さんと知り合った経緯は?

二宮 昔、僕はマンガの原作者を目指してたんです。『ジャンプ』にギャグマンガを持ち込んでボコボコにされたこともあるんですけど(笑)、その頃作画をしてくれてた人が、就職してマンガから離れることになったんですね。その人が「代わりに絵のうまいコを紹介するよ」と言ってつないでくれたのが、今の妻。結局、妻はデッサンを勉強してきた人間なので、マンガの絵はまったく描けなかったんですけど。

―奥さんとは芸術の話で距離が縮まったんですか?

二宮 いや、芸術の話はほとんどしないですね。デートに行っても、ただお菓子を食べてるだけだったり。ただ、よく頬に石膏(せっこう)がついてたりするのが気にはなってました(笑)。今でも、普段は普通に生活しているんですが、おもむろに立ち上がってヤスリで何か削り始めたりするんですよ。たぶん、僕らが「暇だからゲームでもやろうかな」と思うのと同じくらいの感覚で、もの作りをしてるんだと思います。

それである日、「今、学校で何を作ってるの?」って聞いたら、「ノミを作ってる」と。彫刻を作る前に、ノミから自分で作っちゃうんです。それが僕の想像を超えていたので、興味を持って藝大生について調べ始めました。

―この本に書かれているように、藝大生が当たり前のようにやっていることが、外部の人間からすると面白いんですよね。

二宮 そうですね。彼らからすると「制作過程の何が面白いの?」「なんでわざわざ見に来たの?」といった感じでしょうけど、その日常が僕らからすると異世界なんです。そして藝大生って、みんな“濃い”んですよ。この本で取り上げさせてもらったブラジャー・ウーマン(藝大の絵画科に通う立花清美さんによるパフォーマンス。ブラジャーを頭に被(かぶ)り、乳首を赤いハートマークで隠したトップレス姿で敷地内に立っている)は、入学式の後に行なわれる自己紹介で生まれたものだそうです。

でも、そのとき新入生の挨拶がひとしきり終わったときに、教授の言ったひと言が「今年の1年生はおとなしいね」。普通の大学だったら居場所がなくなってしまうような個性が、藝大ではむしろ奨励されています。

藝大生にとって「就職は逃げ」?

―一方で、劇作家の平田オリザさんらは、「日本の芸術系大学は社会に出るための方法を教えない。プロの芸術家を育てようという気がない」と言って批判しています。

二宮 そういう面もあるのかもしれません。ある大学の教授が言っていたそうなんですが、「自分は雇われて芸術家の魂を捨ててしまった。だから負け組なんだ」と。藝大にも、「就職は逃げ」と考える風潮があるみたいで、実際に藝大の学部生で就職するのは1割しかいないんです。

とはいえ、例えば、ブラジャー・ウーマンさんは、「私は今すぐ役に立つことをやっているつもりはない。1000年後の社会に役立つことをやっている」と言ってるんですね。そういう価値観からすると、就職してお金を稼ぐという目的は小さすぎる。

それから、今であれ未来であれ、人の役に立つということを考えずに芸術をやっている人もたくさんいます。自分も小説を書く人間なのでわかるんですが、売れようと思って書いても、たぶんいいものはできないんですよ。ただ楽しいから書く。僕はそういうやり方しかできないし、芸術をやっている人も同じなんだと思います。

―藝大生に対する共感は?

二宮 ありますね。この本の取材をする前は、「なんだかよくわからないことをやっている人たちだから、近寄らないでおこう」と思ってたんですけど、今は「お互いどこで評価してもらえるかわからないけど、一緒に頑張ろうよ」と思っています。と同時に、尊敬と感謝も感じました。

例えば、僕らが使っているカップやスプーン、コンビニに入ったときに鳴る音など、すべてアーティストが作ってくれているわけですよね。そう思うと、日本は芸術が溢(あふ)れている国だし、そうした日常のなかの芸術は、ないよりあったほうが絶対に楽しい。彼らはそうしたものを作るために、はた目からは想像もできないくらい努力しているんです。

だから、その努力がお金に結びつかないことはすごくやるせない。取材を進めるなかで、「この本が芸術と芸術を学ぶ人たちの面白さを知る入り口になれば」と思うようになっていきました。読者の方に、まずは毎年行なわれる「藝祭」に行ってほしいですね。異様なクオリティの巨大神輿(みこし)や“変化球”しかないミスコンが全部タダで見られるんですから。

●二宮敦人(にのみや・あつと)1985年生まれ、東京都出身。2009年、『!』(アルファポリス)でホラー作家としてデビュー。以後、『郵便配達人 花木瞳子が盗み見る』(TOブックス)など多数の小説を執筆。本作が初めてのノンフィクション作品となる。最新作は『文藝モンスター』(河出書房新社)

■『最後の秘境 東京藝大―天才たちのカオスな日常―』新潮社 1400円+税日本の芸術系大学の頂点として君臨する、東京藝術大学。そこに通う人々を、現役藝大生を妻に持つ著者が取材し、小説家ならではの洞察と軽妙な文体でつづる。「人を描きなさい(時間:2日間)」という破格の入試問題から、ガスマスクが売られている生協、元ホストクラブ経営者の学生など、驚きのエピソードが並ぶ

(取材・文/西中賢治 撮影/三野 新)