今上天皇の「退位」の核心をついた突いた新書が話題を呼んでいる。
政治学者の片山杜秀(もりひで)氏が、国家神道研究の泰斗である宗教学者の島薗進氏との対話で解き明かした『近代天皇論――「神聖」か、「象徴」か』(集英社)だ。
そこで片山氏を直撃、民主主義の危機ともいえる今の政治状況と「お言葉」とのつながりについて訊いた。
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―『近代天皇論』の中で、片山さんは〈戦後民主主義と象徴天皇制について「お言葉」ほど真摯に考えられたものを他に知らない〉とおっしゃっています。
片山 今回の生前退位の問題は、ご高齢と健康による問題だと多くの人が捉えていると思います。しかし、その背景には今、戦後民主主義と象徴天皇制が迎えている危機を今上天皇が強く意識していることがあると私は思います。
問題は、一般に言われているよりも一段深いところにあるのです。それはつまり、戦前のように「神の子孫としての権威をもつ天皇」を奉じるのか、戦後の「国民の統合の象徴としての天皇」という在り方を深化させるのかという深刻かつ根源的な対立なのです。
日本会議という宗教ナショナリズムに基づく団体が、最近多くの人に知られるようになりましたね。第二次安倍晋三内閣の閣僚の多くが日本会議に関わりが深く、国家神道の再興をめざす神道政治連盟のメンバーです。彼らは戦前のような「神聖な天皇」に回帰することを希求している。こうした人々がなぜ今、政治的な力を持っているのでしょうか。
そこには、世界的に経済が低迷し、資本主義の終焉とまで言われている時代状況が関係しています。
戦後の西側世界は次のように発展してきました。資本主義が資本家と労働者、持つ者と持たざる者の格差を利用しながら経済を成長させ、富を増やす。すると格差を是正せよ、力弱き者も政治に参加させよという大衆の欲求が高まり、今度は民主主義が活性化していく。
こうした循環によって、富の再分配が促されながら成長も続き、最大多数の国民が納得して、国民国家としての一体感が保たれる。そのような循環が理想的な資本主義と民主主義との関係でした。
人間としての「限界」を強調したメッセージ
ところが、21世紀の今、日本を含めた、いわゆる先進国ではこの循環が失われつつある。成長力が弱まり、再分配にお金が回らない。格差は大きくなる一方で、国民の不満は解消されない。全体主義を生んだ1930年代とよく似た状況です。
今まではみんなが豊かさを実感することで国民の一体性が保たれてきた。ところが国力が衰えだすとこの手は使えない。そこで代わりになる有力候補が宗教です。「日本は神国、万世一系の天皇の治める特別な国」と国民が信じられれば、再分配が減っても「おれたち日本人」と思うだけで一体性は保てる理屈です。「神聖国家日本」は為政者にとって一番安上がりで効率的な統治のための魔法なのです。
そのような神格化された天皇の「神性」を利用しようとする動きが強まってきたこのタイミングで、今上天皇は「退位問題」という形で、これまで自らが実践してきた「人間としての象徴天皇」の在り方を国民に自らの言葉で伝えました。
天皇はあくまで人間だ。放っておいても神として崇められる存在ではない。国民とふれあって、同じ人として信頼関係を築いてこその「象徴天皇」である。そのためには旅もたくさんしなければならない。でも老いればそうもできなくなる。病気にもなる。人として元気でなければ「人間天皇」は成り立たない。だから「生前退位」もありうる――。
「人間天皇」を突き詰めれば、それが筋だ。人間としての「限界」を強調し、神性を積極的に否定した。そういうメッセージと理解しています。
―国民の上に立つ神聖な存在として、権力者が国民を無条件に従わせる道具立てとして使われるのではなく、国民と同じ立場に立ちつつも、敬愛される存在としての天皇の形を模索してきたということでしょうか。
片山 そうです。今上天皇は災害があれば、避難所で床に膝をついて被災者の話を聞き、寄り添ってきた。そういうことを行なうことこそ、「象徴天皇」の存在する意味なのだと、今上天皇は「お言葉」の中で繰り返しおっしゃっています。
これに対して、保守的な勢力は人間としての天皇という在り方は受け入れられない。むしろ国民が「お言葉」の含蓄(がんちく)に気づく前に、さっさと火消しをして、この問題を片付けてしまいたい。国民的議論もないまま、生前退位を一代限りの特別法制定にするという方向性が打ち出されていることからも、彼らの焦りが表れているのではないかと思いますね。
「人間天皇」とともに戦後民主主義を守るのか?
―しかし、すべてを「天皇陛下の御為」といって権力者が民衆を駆り立てる様子は、暴走する国家になって昭和の戦争に突き進んでいった大日本帝国のイメージと重なります。
片山 おっしゃる通り、明治維新以降、大日本帝国は「天皇は現人神である」とすることで日本の近代化をある意味、強引に推し進めてきました。現代はそれと似た道と言えるところもあるのですが、違うところは向きが逆なんですよ。
明治維新からの「神聖天皇」は、戦争も辞さない強引な成長路線に国民を無理やりついてこさせるための神話だったのです。右肩上がりのための神話です。日清戦争、日露戦争、満州事変、日中戦争、太平洋戦争…どれもハイリスク・ハイリターンですよ。戦争の相手が中国とロシアとアメリカなんですから。勝てば凄いけれど、負けたら一巻の終わりでしょう。普通だと国民はたじろぎます。
そんな危ない橋を渡り続けるのは「神々に連なる天皇」が治めている特別な国だから日本は必ず勝つ、大国になれるという神話が機能しないと無理です。ハイリスクを取って右肩上がりに賭ける蛮勇をもたらす仕掛けが「神聖天皇」の神話でした。
ところが今、求められているのは、右肩下がりに耐えて我慢するための神話なのです。下がる度合いを少しでも軽くするためには、アメリカと一緒に戦争するとか危ない橋も渡らないといけないかもしれない。経済が弱り、社会への不満と将来への不安が増大する。「それでも日本人だから大丈夫!」という神話があると都合が良いのです。
安倍政権が若い世代の少なからぬ人々から支持されているのも「こんな時代だからこそ、何か日本国民であるだけで無条件に安心できることを言ってほしい」「日本が特別な国であるという根拠がほしい」という欲求が国民の側にも強くあるからでしょう。「神聖天皇」はそういう時代にもってこいです。一九四五年までのこの国でよく機能した実績もあるので、効き目も証明済みです。
―しかし今上天皇は、そうした状況を冷静に見通した上でも、自分はかつてのような「神話」を与える存在ではないと表明したわけですね。
片山 そうですね。それは神聖なものにすがってナショナリズムを増大させたことで、日本がどれほど壊滅的な、悲惨な経験をしたかということへの深い反省に基づくものだと思います。この「お言葉」は神聖性がすべりこむ余地を最小限に抑え込んだものだと読めると思います。
戦前的な「神聖天皇」を求める人々は「戦後の天皇の在り方は、連合国に無理やり押し付けられた、日本の伝統とは相容れないものだ」と考えているかもしれない。しかし、日本の精神史・宗教史を振り返れば、国民に寄り添ってゆく戦後的・人間的な天皇像は日本の伝統の中に発見できるものであると『近代天皇論』の中で対話している宗教学者の島薗進先生が教えてくださっています。
時代状況は、確かに厳しい。そこで「神聖天皇」を蘇らせるのが私たちの願いなのか。それとも「人間天皇」とともに戦後民主主義を守るのか。大きな問題提起を今上天皇は「お言葉」を通じてなされたのではないでしょうか。
(取材・文/水原央 撮影/本田雄士)
●片山杜秀(かたやま・もりひで) 1963年生まれ。政治学者。政治思想史研究者。慶應義塾大学法学部教授。主な著作に『未完のファシズム――「持たざる国」日本の運命』(司馬遼太郎賞受賞)『近代日本の右翼思想』など。
■『近代天皇論――「神聖」か、「象徴」か』 天皇は神の子孫たる「神聖」な権威なのか、「国民の統合」の「象徴」なのか。退位問題をきっかけに天皇とは何かについて新たな論争の火蓋が切られた。折しも資本主義が限界に達した日本。経済成長のためなら「国民の分断」もやむなしとするのが政権与党だが、「国民の統合」が危機に瀕し、民主主義の基盤が揺らぐこの時代にあるべき天皇像とはいかなるものか。この問題を国民が真に考えるためには幕末にまで遡り、わが国固有の伝統と西欧文明との間で揺れ続けた日本の近代の中の天皇の姿と向き合わねばならない。戦前右翼思想を熟知する政治学者と国家神道研究の泰斗が、この難問に挑む画期的な対論!