半世紀前、一橋大学を訪れた三島由紀夫が学生たちに語った言葉とは―? 半世紀前、一橋大学を訪れた三島由紀夫が学生たちに語った言葉とは―?

一橋大学で起きた、小さな事件が波紋を呼んでいる。

大ベストセラー『永遠の0』などで知られる作家の百田(ひゃくた)尚樹氏を学園祭に呼ぶも、学内外で反対運動が起き、講演会が直前で中止になったのだ。

反対した人々は、百田氏のこれまでの発言を問題視したわけだが、果たして「中止」という結末でよかったのか。

ここで、半世紀前に同大学を訪れた、当時もっともスキャンダラスな存在だった小説家が、学生たちに語った言葉を読み返してみよう。そこには未来のためのヒントがあるはずだ。

■かわいい子には旅をさせよ?

反対運動を主導した反レイシズム(反・人種差別)団体によると、百田尚樹氏のツイート(詳しくは後述する)を引用して「このような殺人・テロを含む差別煽動(せんどう)を繰り返す百田尚樹氏が、学園祭に招かれることで、私たちは学園祭期間中に深刻な差別・暴力が誘発されることを憂慮せざるをえません」(*1)とのことだ。厳密に言えば彼らは講演会の中止ではなく「差別のないKODAIRA祭実現」を求めて運動を始めた。そしてネット署名を呼びかけたことで学外にまで騒ぎが広がった形になる。

この「KODAIRA祭」は、一橋大学における新入生歓迎期間の総括として位置づけられ、講演会を企画した実行委員も一、二年生だ。彼らは作家・放送作家としての百田氏に、「現代社会におけるマスコミのあり方」を語ってもらう予定だった。

一方、前記の団体は「若手研究者・NGOスタッフ・学生が力を合わせて」(*2)二年前に出来たという。三十歳以上のメンバーもいる。彼らが呼びかけたネット署名への賛同者コメントを瞥見(べっけん)すると、院生、OB、色々いる。他に、同学院生を中心とする団体もあり、要するに年長者が多い。

くどいようだが講演会の実行委員は一、二年生だ。反対派の大人たちは「かわいい子には旅をさせよ」という諺を知らないのだろうか?

講演という場のなにが貴重かと言えば、講師も含めてそこにいる全員が、どのような方向にせよ、波風を立てる機会を持てることだ。よっぽど変だと思ったら、その場で異論を唱えることもできる。

実現しなかった講演会について論じるよりも、そろそろゲストを呼ぼう。四十九年前の六月十六日、同じ一橋大学の、「KODAIRA祭」の前身にあたる「小平祭」で、偏った思想を持つ売れっ子作家が学生たちと意見を交わした。それもずばり、思想を語りに来たのだ。

三島由紀夫である。

(*1)オンライン署名サイト『change.org』にて反レイシズム情報センター(ARIC)が展開したネット署名キャンペーンより。キャンペーンタイトルは「一橋大学KODAIRA祭は差別禁止ルールをつくり、テロと差別を煽動する百田尚樹氏に絶対差別をさせないでください。または企画を中止してください。」

(*2)反レイシズム情報センターのホームページより

民主主義と暗殺はつきもの

■よい暗殺、悪い暗殺

各地で学園紛争が巻き起こっていた1968年、三島は三つの大学でティーチ・イン(討論会)に出向いている。その一発目が、一橋大学だった(続いて早大、茨城大)。当時の三島は自分の思想に共鳴する学生を連れて自衛隊に体験入隊したり、「祖国防衛隊」(この年十月に「楯の会」へ改名する)を率いたりと、きな臭い活動を続け、世間では「極右」「反動」と見なされていた。もっとも三島は政権とつるんではおらず、また「差別主義者」でもなかったが、当時の怪しい評判は推して知るべし。

そんな三島が一橋大に乗り込んで、学生たちとなにを論じたのだろう。教室を埋めつくした学生のうち十一人が質問し、テーマは多岐に渡ったが、中心となったのは「民主主義と暗殺」だ。

(1)民主主義と暗殺はつきもの

学園祭が行なわれる直前にアメリカの大統領候補ロバート・ケネディが暗殺されたことを受け、三島はまず問題提起として、暗殺肯定論を打つ。

三島「結論を先にいってしまうと、私は民主主義と暗殺はつきもので、共産主義と粛清はつきものだと思っております。(…)私は、暗殺の中にも悪い暗殺といい暗殺があるし、それについての有効性というものもないではないという考え方をする」

おそらく現代ではこの時点で相当に「臭いもの」扱いされるだろう。しかし人の話は最後まで聞くものだ。

「たとえば暗殺が全然なかったら、政治家はどんなに不真面目になるか、殺される心配がなかったら、いくらでも嘘がつける。(…)口だけでいくらいっていても、別に血が出るわけでもない、痛くもないから、お互いに遠吠えする」と続け、本来「言論の底には血がにじんでいる。そして、それを忘れた言論はすぐ偽善と嘘に堕することは、日本の立派な国会を御覧になれば、よくわかる」と皮肉を述べる。

三島の暗殺肯定論は教室にいる学生たちの様々な反応を呼び起こした。中には「先生の論を拡げていくと、もしぼくの主張を通すには、最終的には先生を殺すしかない。(…)それはぼくには勇気がないから実際にはできないのですが」と言い出す者もいる。

ではなぜ三島は暗殺を認めるのだろうか。それは彼の考える民主主義と深く関係している。

民主主義とは「一対一」だ

(2)民主主義とは「一対一」だ

彼は「私は人間というものは全部平等だと思う」と説く。

三島「…人間が一対一で決闘する場合には、えらい人も、一市民もない。そこに民主主義の原理があるのだと私は考える」

ここで言う平等とは貧富の格差がないことではなく、意見を持つ者としての貴賎(きせん)はないということだ。しかし、それゆえに、誰もが政治的意見を一致させることはありえないとも彼はいう。

三島「だから、政治というものはいずれにしろ激突だ。そして激突で一人の人間が一人の人間を許すか、許さないか、ギリギリ決着のところだ。それが暗殺という形をとったのは不幸なことではあるけれども、その政治原理の中にそういうものが自ずから含まれている」

そして彼は選挙権を得る年ごろの学生に対し、一人の人間の重みと一票の重みを結びつける筋道を示す。

三島「もしそうでなければ、諸君が選挙の投票場へ行って投ずる一票に何の意味がありますか。(…)あれは諸君がたとい無名であっても、あるいは社会的な地位がなくても、その一票があなたの全身的な政治的行為であって、それの集積が民主主義をなしている」

しかし、普段は一票の形をしている「全身的な政治的行為」が、本当にむきだしの行動となることもありうる。

「政治的意見において本当に一対一で、人間的に一対一だという考えが含まれなければ、民主主義は成立しない」と繰り返した上で、こう述べる。

三島「だから暗殺というのはアクシデントではあるけれども、民主主義に暗殺はつきものだと私がいったのは、そこなのです」

もちろん三島は人殺し全般を肯定するのではない。権力者が自分の身を危険にさらさずに邪魔者を消す粛清やナチスのホロコーストなどは断じて認めない。

多数決と話し合いのセットを前面に立てるのを「優しげな民主主義論」とすれば、一対一とアクシデントに力点を置いた三島のそれは「甘くない民主主義論」と言えよう。

アクシデントの芽を摘むな

■三島が語ったこと、学生たちが語ったこと

(3)アクシデントの芽を摘むな

ここでいったん現代に戻る。一橋大学の「KODAIRA祭」に百田氏を招聘することが問題視された理由は、氏が繰り返したとされる「ヘイトスピーチ」だった。

同氏の物議をかもす発言は多々あるが、その中で特に一つ、度を超えた内容のものがある。朝鮮半島で緊張が高まりつつあった四月十三日に発した、「もし北朝鮮のミサイルで私の家族が死に、私が生き残れば、私はテロ組織を作って、日本国内の敵を潰していく」というツイートがそれだ。

18万のフォロワーを相手に放たれたこの煽動的な言葉は、事実、「国内の敵」を特定の民族と解して賛同する多数のツイートを呼んだ。本人はその後「売国議員と売国文化人のこと」と補足ツイートを出したが、それでも首をかしげてしまう。

そして、ちょうど反対運動が高まり始めたこのタイミングで、もし実行委員が、他ならぬこのツイートを理由に中止を発表していれば、それ自体が悪質なツイートに対する、世間に向けたメッセージになったはずだ。

しかし最終的に実行委員が講演会の中止に踏み切ったのはそれから1カ月半経ってからで、しかも理由は、警備が過剰になり他の学内イベントに支障をきたすというものだった。思想や差別には言及されず、問題の繊細さが覆い隠されてしまった。

確かになんらかの不穏な動きがあったのかもしれないが、そもそも警備を過剰にするという発想に、やたらアクシデントを回避しようとする風潮が現れている。だが、どんなに警備を厳重にしたところで、人はボルテージが高まれば行動できてしまうものだ。そしてその可能性を極限まで摘もうとすると、全体主義にいきつく。

1968年の三島由紀夫だったら、「民主主義的なアクシデント」を歓迎しただろうか。討論会で、彼はこうも述べていた。

三島「私がここへ立っていて非常に残念なのは、何ら危害が加えられる恐れがないことです。これが危害を加えられる恐れがあれば、もうちょっと私のいうことも説得力を持ってくる。ぼくは日本のインテリがそういう最後の信念がなくて物をいうというのが非常に嫌だ」

そして三島は大人だった

(4)そして三島は大人だった

もっとも三島は無暗(むやみ)に「アクシデント」を望み、学生を挑発していたわけではない。最後に彼の、学生たちに対する姿勢に触れておきたい。

三島は非常に誠実に学生の意見に耳を傾けている。そして該博な知識のほんの一部を縦横に用い、時にはユーモアもまじえ、丁寧に受け答えしている。

学生は学生で、みなきちんと論理立てて質問なり反論なりしている。最後に質問した学生K君は、自ら「単なる一年坊主」と言いながらも、「普遍的な民主主義」の擁護のために反論を試みる。三島の「大人げ」は彼とのやりとりに特に明瞭に見てとれる。

三島には論破するつもりなど当然なく、むしろK君の思考を整理するために逆に質問を重ねてゆく。K君は揺らぎ、最後はこう述べる。

「ある進歩的な主張をしていた人が転向していったこともあるように、ぼくも今そのような危険性を十分に感じています。その危険性を自分が無色の立場であるがゆえに認めて、自分でも恐れているわけです。そうならないようにぼくの中の信念によってこれから裏付けしていく」

これに対して三島は、こう励まして締めくくる。

「お互いに信念を行動で裏付けよう。それが大事だ」

以上、かつて一橋大学で行なわれた三島由紀夫と学生たちとの討論会をふりかえった。なお、筆者の知る限り、1968年に三島を招いたことで学内に暗殺者が育ったという事実はない。この程度の潜在的危険をはらんだ講演会の類いは大学の中でも外でも行なわれていた。

百田尚樹氏と三島由紀夫を、あるいは差別と暗殺を同列に論じるべきではないという声もあろうが、学生たちが波風を立てうる場を残すか消すかという点では参考にしてもよい事例だ。舞台は同じ一橋大学であり、ひいては日本なのだ。

例えば百田氏の「差別煽動」が問題だったら、前述のタイミングで中止できなかった以上は、いっそテーマを「差別」にしぼって招き討論会をさせた方が、もっと深く、問題を考えられたのではないか。学生たちがみんな煽動されちゃう、と考えるのは過保護というものだ。傷つく留学生もいるかもしれないが、かばう者も必ずいる。それは学生たちを信じるしかない。

反対派の人々は、今回の中止を「勝った」と受け止めているようだが、実際に百田氏を呼んで「差別・暴力が誘発」されなかった時こそ凱歌をあげるべきだったのではないか。

(文/前川仁之)