1985年に日本人で初めてHIV(ヒト免疫不全ウイルス)感染者が報告され、このウイルス感染から発症するエイズ(後天性免疫不全症候群)は「治療法のない不治の病」として恐れられ、さらに感染者への差別などが表面化する「エイズパニック」が巻き起こった。
30年以上経った今では、早めに治療を開始すれば正常な生活も送れる「慢性疾患」と考えられているが、2007年以降、新規感染報告数(HIV感染者+エイズ患者)は毎年1400人を超え、年代別では20代~40代が多いという(厚生労働省エイズ動向委員会「平成28(2016)年エイズ発生動向」)。
医療関係者や感染者支援団体は、HIVへの理解や予防意識が広く社会に浸透していないと懸念する。12月1日の世界エイズデーを機に、HIV陽性者支援団体「ぷれいす東京」代表で、2017年「第31回日本エイズ学会学術集会・総会」では会長を務めた生島嗣(いくしま・ゆずる)氏にHIVの現状や最新事情を聞いた――。
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―HIVの現状は、社会に広く伝わっているとは言い難い状態です。感染者数なども含めてどう変わってきていますか?
生島 2016年末の日本におけるHIV感染者とエイズ患者の累積報告数は2万7443件に達しています。新規感染報告数は「高止まり」の状態で、16年末時点は1448件。ピークだった2013年の1590件から横ばいを続けています。ただ注目してほしいのが、エイズを発症して初めて感染がわかった人が感染者全体の約3割いることです。この割合は地域によって違います。
厚生労働省の2016年報告によると、エイズ患者のうち日本国籍男性については北海道・東北、東京、九州で増加しており、特に九州は過去最多の報告数(69件)でした。東京や大阪などではエイズ未発症でわかる人の割合が多い一方、地方都市では発症でわかる人の割合が高めな地域がまだまだ存在しています。
どういうことか。HIV抗体検査は保健所や一部の医療機関で、原則匿名で受けられますが、東京などの大都市圏だと匿名性が保てたとしても、近所付き合いが密にある地方では個人が特定できてしまうという不安があるのです。地方都市での検査のハードルは未だに高いのが現状。それをどう下げるかが大きな課題ですね。
―地方では検査のハードルが高いため、発症するまで感染がわからない人が多いというわけですね。日本国内ではHIV感染経路の約8割が男性同性間でのセックスですが、ゲイやバイセクシャルの男性(トランスジェンダーも含む)を対象に恋愛、性行動や健康についてアンケートした2016年の「LASH調査」によると、回答した6921人のうち、HIV抗体検査を受けたことのない人が約4割いました。
また、2012年に名古屋市立大学が全国で実施した調査では、一般の日本人男性でこれまでにHIV検査を受けたことがない人は約9割だったといいます。
生島 LASH調査では、検査を受けない3大理由は「機会がなかった」「(感染の)可能性がないから必要がない」「結果を知るのが怖い」でした。このネット社会の現代において「検査の機会がない」というのは、気になるけど先に進めないでいるという人ですね。特に40代~50代だと未だ恐怖感もあるでしょう。
今では考えられない「エイズパニック」3つの事件
―80年代の「エイズパニック」の影響が未だに尾を引いているということですね。
生島 エイズパニックは、今では考えられないような事件を引き起こしました。松本事件、神戸事件、高知事件の3件が代表的です。
86年11月の松本事件は、フィリピン人女性のHIV感染が判明し、公衆浴場が外国人の利用を拒否。水際で食い止めろなどと日本中が過剰に反応しました。87年1月の神戸事件では、エイズで亡くなった日本人女性の遺影を週刊誌が盗撮して、『これがエイズ患者だ!』と掲載。「この女性と関係があった人は検査に行こう」などと呼びかけたのです。センセーショナルに騒いで、この女性はセックスワークをしていたとも報道した。しかしこれは事実無根で、最終的には出版社が敗訴しています。
その直後に起こった高知事件では、血友病患者の配偶者の女性がHIV陽性で出産するということで大きな話題になり、病院の医師らが記者会見を開くという異常な事態でした。これらの事件は、日本という村社会でHIV感染がわかったらどうなってしまうのか…という不安を多くの人に植え付けた。年齢が高い人の中には未だにその印象があるのだと思います。
―若い層についてはどうですか?
生島 HIV検査を受けたことのある10代、20代前半はすごく少ないです。次に少ないのが50代以上。エイズパニックの時代を知らない世代と、かつての過剰反応を知っている世代がHIVのリスクと向き合えていない。また、エイズ発症で自分の感染を知る人たちは、年齢が高めの人が多いです。
HIVは、医療技術の発展により早期発見・治療ができればうまく付き合っていける病気になっているとはいえ、人々が感染のリスクに向き合わないことには検査もできないし、治療も始められません。
―HIVについての啓発活動は、今だからこそ重要ですね。国をあげての取り組みなどはありますか。
生島 今年、厚生労働省はHIV/エイズのイメージをアップデートしようと呼びかけています。早期発見・治療でウイルスをコントロールできるようになったことを知る機会を作り、HIV陽性者が身近にいるかもしれないという想像力を持つ重要性を訴えています。
日本には、HIVに感染していながらそれに気付いていない潜在的感染者が5千人以上いると最近の研究で推計されています。それは総数(潜在的感染者を含む)の15%程度。「自分には関係ない」とリスクに向き合っていない人がこれだけいるわけです。
実際、1070人ほどの陽性者を対象に行なった調査では、約4割が保健所やクリニックでHIV検査をしてわかったと答えた一方、約6割は他の病気やケガで病院に行ってわかったと答えています。病気やケガで手術をすることになった際の血液検査や、女性が妊娠初期に受ける検査にもHIVの項目があるので、そこでわかったということです。体調不良のため外来診察してもらったら、原因究明の中で陽性とわかったという人もいます。
一生に1回でもセックスをしたことのある人、心当たりがある行為が複数回ある人でしばらく検査を受けてない人は、また受けてもらいたいですね。早期発見をどう増やすかが、今の日本の最重要課題ですから。
陽性者を「危険な感染源」と見るのは偏見
―心当たりがある人、というのはどういう人ですか?
生島 HIVは同性愛の男性たちだけの問題ではありません。世界中の女性感染者の8~9割は異性のパートナーから感染しています。実は、HIVを含め性感染症はパートナー間のほうが予防は難しいのです。
以前、夫が仕事の「接待」で他の女性とセックスをしている可能性があるから不安だ、という女性から相談を受けたことがあります。夫婦間でコンドームを使用してほしいと夫に告げるのは難しいということでした。また、交際している女性から「避妊用ピルを飲んでいるから生でも大丈夫」と言われるけど、自分はコンドームを使いたいという男性からの相談もありました。
セクシャリティに関係なく10代、20代の若い世代は性感染症のリスクを身近に感じていない人が多い。今年12月には、国内の梅毒感染数が1973年以来、過去最高だと発表されました。予防法を含め、性感染症への正しい知識をもっと周知すべきなのですが、例えば学校で実際にコンドームを用いて使用法を教育することはできない。クルマの運転に教習が必要なように性行為にもなんらかの教習が必要なのではないでしょうか。
―ぷれいす東京は、HIV陽性者からの相談を受けていますが、一般的にはそういった支援は充実しているのでしょうか?
生島 ぷれいす東京は1994年以来、HIV陽性者やそのパートナー、家族などに向けてカウンセリングをしています。女性のHIV陽性者からは結婚・妊娠・出産の相談も多いです。デンマークの調査では、HIV陽性者と陰性者の平均寿命の差が6歳程度と出ています。陽性者であっても老後の人生を考えられる時代になってきているのです。しかし日本では異性間で感染した人は少数派になるので、誰かに相談する場が少ないという現実があります。
―HIVはしっかり治療していれば、もはや感染しないというのは具体的にどういうことですか?
生島 陽性とわかると、1日1回薬を服用し始めます。すると3ヵ月から半年くらいで、多くの場合、血液中にHIVウイルスが検知されないレベル(検知限界以下)になります。
2016年の国際会議で、欧州12ヵ国から888組のHIV陽性者&陰性者のカップルを対象にした調査研究結果が発表されました。陽性者のほうは治療中でウイルス量を200コピー以下に低く抑えている人でした。
3~4年ほど経過観察したところ、888組のカップルのうち陰性だった11人が陽性になりました。ただ、陽性者の遺伝子と新規感染したパートナーのHIVの遺伝子を比較したところ、1組も一致しなかったんです。つまり、パートナー間の感染はゼロだった。別の相手と関係があったことが疑われるということになります。その後、ゲイやバイセクシャル約300組を対象にした調査もありましたが、そこでも同様の結果でした。
ここからわかるのは、薬を飲んで血液中にウイルスが検知されない状態になれば、感染力が非常に弱いため、セックスしても移らないようになるということです。HIVの感染力はB型肝炎の100分の1、C型肝炎の10分の1程度だと言われています。肝炎の人たちも問題なく社会の中で暮らせているわけですから、HIV陽性者だってしっかり薬を服用していれば同じように普通に暮らせるはずなのです。
今では、HIV陽性でウイルスを抑えている人たちは「もはや感染源ではない」ことが国際的な共通認識になってきています。だから、検出限界以下の陽性者を「危険な感染源」などと見るのは偏見です。きちんと治療してウイルスをコントロールすれば、パートナーシップも築けるし子供も作れるんです。
陽性とわかっても人生終わりではないし、仕事だって続けられる。昔はHIV陽性の女性で中絶を強要された人もいましたが、今は何百人という陽性者が子供を産んでいます。HIV陽性者たちから感染するかもしれないと心配する前に、自覚していない15%の潜在的感染者をどう少なくできるかを社会全体で考えるべきなのです。
新しい予防法「PEP」「PrEP」とは?
―最近では、PEP(ペップ)やPrEP(プレップ)という新しい予防法が注目されているようですね。
生島 PEP(Post-Exposure Prophylaxis)は「曝露後予防」という意味で、性交した後、72時間以内に服用すれば感染を予防できます。わかりやすく言えば、女性が性交した後に妊娠を回避するために服用するモーニングアフターピルみたいなものですね。例えば、アイセントレスとツルバダという薬剤を併用します。
一方のPrEP(Pre-Exposure Prophylaxis)は「曝露前予防」で、陰性者が日常的に服薬しながら感染を予防する方法です。こちらはツルバダのみ服用します。サンフランシスコやロンドンでは実際の効果が報告されていますが、これには費用面も含めて課題があります。
日本でも自費で購入できますが、ツルバダは1錠3800円くらい。1日1回服用しなければならないので、30日分だとおよそ11万円もします。ただ、ジェネリック薬もあり、それだと月5~6千円で済みます。
しかし、ツルバダはすでにHIV感染していることに気づかず、曝露前予防として飲み続けていると薬剤耐性ができてしまうリスクがあります。また、B型肝炎があったり、肝臓の機能に問題があると服薬は避けたほうがよいのです。自己判断ではなく、定期検査をしてHIV陰性を確認しつつ、医師に副作用をモニターしてもらいながら飲む必要があります。海外では、ジェネリックをもらいながら通院できるクリニックが増えてきています。日本もそういう環境を作っていけるといいですね。
―でも、PrEPの予防薬が簡単に入手できるようになると、HIV予防には効果的ですが、梅毒などその他の性感染症に対して予防しない人が増えるというデメリットも考えられませんか?
生島 懸念は当然あります。もちろん、それとは別に性感染症全般への予防も大切ですし、コンドームを使用することが一番安価な予防法です。PrEPは全ての人に向けた予防法ではなく、ゲイ、バイセクシャル男性、異性愛者でもパートナーが陽性の人、あるいは性風俗産業に従事している人などハイリスクの人に向けて、自分を守る選択肢として提案すべきものだと思います。そして、それは他者への安心にもつながるかもしれません。
―UNADIS(国連合同エイズ計画)が、2020年までに実現したい3つの数値目標というものがあります。陽性者の「90%が自分の感染を知る」、「90%が抗HIV薬を服用する」、そして「90%がウイルス量検出限界以下となる」ことです。日本の現状はどうですか?
生島 日本の場合、2番目と3番目の90に関しては、ほぼ達成していると言われていますが、「90%が自分の感染を知る」については先述した通り、15%の潜在的感染者をどうするかが課題です。例えば東京には8千人、首都圏で大体、1万人以上のHIV陽性者が暮らしていると言われています。どこかですれ違っているかもしれないし、知り合いの中にもいるかもしれない。
エイズのイメージをアップデートして、それぞれ自分の可能性と向き合ってもらうのが大事なので、胸に手を当てて、受けたほうがいいと思う人は是非検査を受けてください。不安な人のための電話相談は全国にあります。もし、陽性とわかったら「ぷれいす東京」に電話してください。全国フリーダイヤルでサポートしています。
(取材・文/松元千枝 撮影/保高幸子)