この季節になると、毎年、東北を訪れる。
2011年3月。あの時、被災地の惨状を目撃した写真家・八尋 伸(やひろ・しん)にとって、いつからかそれはライフワークと呼べるものになっていたのかもしれない。
1年後、3年後、5年後、6年後、そして7年後。
「あの時」の光景を微塵(みじん)も感じさせない町の変わりように、ここ数年はただただ驚くばかりだ。訪れるたびに変わる道、区画整理のたびに移転する仮設商店、解体される建物、至るところで今なお行なわれている工事、巻き上がる砂埃のにおい、重機の音。
7年前と同じ場所を探し出し、「二重露光」という特殊な撮影手法を用いて「過去」と「現在」を1枚の中に重ねる。被災地の人々の「記憶の変遷」を表現したいという理由で、昨年から始めた撮り方だ。
そうはいっても、撮影ポイントの割り出しには相当な時間を要する。あれから7年が経った今、原型を留めている場所のほうが少ないのだ。
土地の海抜を高くするための造成で、そもそもの高度が変わっていることはざら。次々と新しく建つ人工物はあてにならず、山の稜線を頼りにかつての写真と現在の風景を見比べる。
しかし、山の斜面自体が大きく削り出されている場合もあり、そうなると完全に重ねることはもはや不可能。1ヵ所での撮影に1時間近く時間を要することもあった。
今年、ひとつ新しい試みを写真に加えた。風景だけでなく、その場所に住まう人をも同じ1枚の中に入れ込んだのだ。
八尋は被災者に訊ねた。かつての記憶のこと。今の生活について。ここに至るまでに、彼らは何を思い、どんなものを目にして、失って、取り戻し、そして忘れながら生きてきたのかを…。
■宮城県気仙沼市魚町1丁目 たいわ食堂大将・大和田健(たけし)さん(57歳)
2011年3月18日-2018年2月19日 宮城県気仙沼市魚町1丁目
彼の母の代から続く地域密着型の食堂。被災後、「やれるならやってくれ」というご近所の希望を受け、2012年1月から営業再開。その後、移転を経て2016年から現在の店舗に。
「土地のかさ上げがね、めどがつくのが遅すぎたね。これから家もたくさん建って、人も戻ってきてくれるといいんだけど。昔の面影? ないね。それだったら建設中の防潮堤もさ、どうせなら観光客を呼べるようなものにすればいいんだよ」
■宮城県気仙沼市スーパー片浜屋古町店 片浜屋代表・小野寺洋さん(42歳)、古町店店長・及川裕二朗さん(59歳)
2011年3月18日-2018年2月19日 宮城県気仙沼市スーパー片浜屋古町店
被災当日の夜から店の本部に集まり、翌日の営業について話し合い。津波の被害を免れた古町店は、翌3月12日の朝から営業し、入り口には長蛇の列が。
「当時は卸問屋も機能していない状況だったから、1台だけ緊急車両認定をしてもらって自分たちで仕入れに行きました。そういうわけでなかなか物資も手に入らない状態でしたけど、AJS(オール日本スーパーマーケット業界)がトラック1台分の大荷物を届けてくださったりしましてね。
特に、関西のスーパーの社長さん方が、やはり阪神・淡路大震災を経験されていたからでしょうね。的確な配給をしてくださって、非常に助かった記憶がございます。
最近では工事関係者のお客さまが減りました。しばらくはそうした外から入ってきた方が多くいらっしゃったので、そういう意味で売り上げには影響が出ています」
被災した人、そうでない人との間に生じる気持ちのずれのようなもの
八尋は今回の取材で、丸4日をかけて宮城県気仙沼市、岩手県上閉伊(かみへい)郡大槌(おおつち)町、そして宮城県牡鹿(おしか)郡女川(おながわ)町を巡った。その中で出会った、大槌町安渡(あんど)地区で理容店を経営する佐藤加奈絵さんの談話はひときわ印象深い。
■岩手県上閉伊郡大槌町安渡地区 ヘアサロンALWAYSさとう店主・佐藤加奈絵さん(48歳) 愛犬マック♂6歳と
2011年3月19日-2018年2月20日 岩手県上閉伊郡大槌町安渡地区
あの日は、大槌町から車で30分ほど離れた釜石市にいた。安渡地区で生まれ育ち、東京や新潟にいた時期もあったが、その頃には岩手に戻ってきていたのだ。元々は、彼女の母親が昭和44年に開業した理容店だった。自身も理容師だったが、被災当時は釜石市で会社勤めをしていた。津波で父を喪い、気力をなくした母も理容師を引退。理容組合の抽選で1台の理容椅子が当たったことがきっかけで店を継ぐことにした。
「長男には反対されたんですけどね。『こんな生きるのも大変な時に、どうしてわざわざ』って。でも今、動かなければ一生やらないような気がしたんですね」
そうして自身が店主となった店は、2012年2月にプレハブの仮設店舗でオープンした。区画整理にかかり、今の場所に移ってきたのが15年4月。だがこの店舗もさらなる区画整理のために今年3月31日までに立ち退きを求められている。今はプレハブではない、住居と一体になった店舗を建設中で6月には完成する見込みだ。
「最初の仮設で10年くらいはやるつもりだったんですけど、復興のためと言われると仕方ないですし…」
震災前に5軒あった安渡地区の理容店は、現在も1軒のままだ。
「かさ上げで坂道も増えて、お年寄りが歩いてなんでも買いに行けるような、住みやすかった頃とは変わってしまいました。復興にもずいぶん時間がかかって、戻ってこない選択をした人もたくさんいます。でも私は、この土地に愛着があったから…。子育てなんかも近所のお年寄りにたくさん助けていただいたんです。だからもっとお店が増えて人も戻ってくるようになるといいです」
そして、こう付け加えた。
「震災の当日、私は安渡にいなかった。比較的大丈夫だった土地で仕事をしていたということが、自分の中でずっと引っかかって。もろに被災した人、そうでない人との間に生じる気持ちのずれのようなものを、今もどこかで感じている。だからこそ町の姿が変わっても、安渡の人たちとこの場所で生きていきたい」
取材の中で、長らく続いた仮設住宅暮らしに別れを告げた人たちの話を聞くこともできた。
■岩手県上閉伊郡大槌町中央公民館前 大槌町教育委員会社会教育主事・関貴紀さん(46歳)
2011年3月19日-2018年2月21日 岩手県上閉伊郡大槌町中央公民館前
大槌町を見下ろす高台の斜面には墓地が広がっている。その高台にある大槌町中央公民館や城山公園体育館では、被災後から定期的に支援コンサートなどのイベントが開催されている。
「当時から役場勤めで、あの日は小鎚(こづち)神社で避難誘導員をしておりました。自宅が目の前で壊されるのも見ましたよ。6年間、大槌町第5仮設住宅というところにいて、昨年の10月に家が建ちました。仮設での生活? 私は若い頃、東京でのひとり暮らしも経験しておりましたからそれほど苦ではありませんでしたが、両親や妻子は早く出たがっていましたね」
■宮城県牡鹿郡女川町地域医療センター前 おちゃっこクラブ店主・岡利恵さん(37歳)
2011年3月15日-2018年2月22日 宮城県牡鹿郡女川町医療センター前
地域医療センターの駐車場に残るプレハブのカフェ「おちゃっこクラブ」。店主の岡さんは2017年11月に公営の復興マンション(災害復興住宅)住まいに。女川町が掲げた復興8年計画は来年で終了予定だが「そこからがようやくスタート」と語る。
「公営住宅? まず暖かいよね。仮設は壁から冷気が伝わってくるから。でも今にして思うと仮設には仮設の良さはあった。常に人の気配があるからお年寄りたちは安心だって言っていたし、うちは共働きだから、お隣に子供の世話してもらったり、そういう助け合いのような感じは懐かしい」
その仮設住宅ができる以前には、多くの被災者が公営の体育館や公民館の避難所で生活していた。側溝をトイレにし、コピー用紙を丸めて紙コップ代わりにしていた当時の記憶は、人々の中に今も深く刻まれている。
すべての人の話に共通するのは、「元に戻ることはない」ということ
■宮城県牡鹿郡女川町総合体育館 女川町役場参事・平塚英一さん(57)
2011年3月15日-2018年2月22日 宮城県牡鹿郡女川町総合体育館
被災初日は1600人とも2千人ともいわれる人たちが避難していたという女川町総合体育館。役場のスタッフは朝6時にガスコンロの準備をし、21時の消灯後は1時間おきに3度の見回りをするという生活を2011年9月まで続けた。
「当時の避難所生活は、本当に避難者の皆さんの自主的、能動的な活動に助けられました。ひとり一役といいますか、班を作って1時間おきに換気をしたり、感染症対策のために手すりやドアノブの掃除をしたり、車上荒らし対策にパトロールをしたり…。
土地の造成ですとか、ハード面の復興は2019年でひと区切りと位置づけ、そこからはソフト面、いわゆる心の復興というものを進めていければ。女川の町の規模の小ささを逆手に取った地域コミュニティの活性化を、官民一体となって継続していくことが大事だと思います」
ひと言で被災地、被災者と言っても、復興の度合いも営んできた生活も何もかもが違う。例えば、移動中に通りがかった岩手県陸前高田市などは、未だに辺り一面が造成の只中。
人よりも建物よりも、どこまでも続くような土砂が目に付く光景に復興の成果を見出すのはまだ難しい。一方で、「集合住宅は100%、戸建て住宅も3月には100%に近いところまで建造できる」(前出・平塚さん)という女川町のような例もある。
しかし、すべての人の話に共通するのは、「元に戻ることはない」ということだ。
変わっていく風景。変わってしまった生活。帰らない人。帰れない人。復興というものが本当に成ったとして、かつてあった人や物が完全に元通りになることはありえない。造成の進む故郷の町を眺めながら、「別の町になったという感じのほうが強い」とこぼした人もいた。
八尋が撮影した被災地の写真。2011年の風景と2018年の風景が、ぴたり重なることは決してない。その“ずれ”はきっと、この先、時間が経てば経つほど大きくなっていくのだろう。そして、人々の記憶も――。
忘れたほうがいいのか、忘れないほうがいいのか、それは誰にもわからないが、八尋はこれからも被災地の変遷を記録していくだろうし、そこに住まう人々は、かつての記憶と今、目に映るものを重ね合わせながら、これからもその場所で生きていく。
◆『週刊プレイボーイ』13号(3月12日発売)では、ここに掲載した以外の写真も掲載。そちらもご覧ください。
●八尋 伸(やひろ・しん) 1979年生まれ、香川県出身。2010年頃からタイ騒乱、エジプト革命、ミャンマー民族紛争、シリア内戦、東日本大震災、福島原発事故などアジア、中東の社会問題、紛争、災害などを撮影し発表。シリア内戦のシリーズで2012年上野彦馬賞、2013年フランスのThe 7th annual Prix de la photographie, Photographer of the yearを受賞。ミャンマー民族紛争のシリーズでThe 7th Annual Photography Masters Cup、Photojournalism部門でノミネート、コニカミノルタフォトプレミオで入賞、写真展を開催。東日本大震災被災地には11年、12年、14年、16年、17年、18年と訪れ、同じ場所を写す活動を続けている。
(撮影・取材/八尋 伸 構成・文/週刊プレイボーイ編集部)