1921(大正10)年に撮影された福岡女学校の生徒。今のセーラー服にも通ずるデザインだ。

新入生の姿がまぶしい春に、日本のセーラー服の歴史を覆す衝撃的なニュースが舞い込んできた。

これまで日本のセーラー服の起源は、1921(大正10)年12月に採用した福岡女学校(現・福岡女学院)とされてきたが、愛知・名古屋の金城(きんじょう)女学校(現・金城学院)のほうが3ヵ月早いとする“新説”が発表されたのだ。

名古屋説はどのようにして出てきたのか。論文を書いた日本大学商学部の刑部芳則(おさかべ・よしのり)准教授を直撃した。

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―今回の研究を行なうに至った経緯は?

刑部 以前、戦前に公式儀礼の場で男性が着る大礼服(たいれいふく)の研究をしていたことから、女性の洋装化の歴史にも興味がありました。そんななか、セーラー服の起源をめぐる論争が起こったのが、研究に取り組むきっかけでしたね。

10年ほど前になりますが、「福岡女学校より平安女学院(京都)のほうが早くセーラー服を導入した」という説を学生服メーカーのトンボが唱え、論争になったんです。確かに平安女学院のほうが早いのですが、形がセーラー衿のついたワンピースであるため「セーラー服」とは認め難く、その後論争も研究もいいかげんなままになっていた。こうしてセーラー服の誤った歴史認識が定着することに危機感を抱いたんです。

―調査はどのように?

刑部 全国にある何百校もの資料を調べました。興味のある研究者はいても、調査を面倒くさがる人が多いですね。

―地道な調査ですね。セーラー服はどのように日本に伝わったのでしょう?

刑部 明治時代に子供服として伝播(でんぱ)しました。もともとはイギリス海軍の水兵服ですが、王室が子供服にセーラー服を採用したことから、新しい認知が広まったんです。

そしてもうひとつ、大正時代以降に活発化した「服装改善運動」が、洋装化を推し進める大きな原動力となったことも忘れてはなりません。セーラー服は、袴(はかま)が中心だった女子生徒の服装に、「動きやすさ」「締めつけからの解放」「経済的負担の軽減」というメリットをもたらしたんです。

―当時は相当革新的な存在だったんですね。

刑部 今ではブレザーが主流ですが、戦前までは全国の公立のほとんどがセーラー服でしたからね。爆発的な人気でした。

―どうやって作られていたのでしょうか。

刑部 手作りの学校もありましたが、洋服店にオーダーしていた例もあります。興味深いのは、セーラー服を生徒に作らせていた学校が戦前まで存在していたことでしょう。

―どういうことですか?

刑部 教育の一環です。洋裁を教える目的もありますが、新入生の制服を上級生が作ってあげることで、両者の間に精神的なつながりを作る取り組みがあったんですよ。昨今、泰明(たいめい)小学校のアルマーニ標準服の件で「服育」という言葉が注目されていますが、服を通して教育することの原点はセーラー服にあったんです。

―こう見ると、近代史や服飾史、教育史にも影響を与えてきたことがよくわかります。

刑部 どこより早い、遅いという論考にとどまらず、セーラー服の本質に迫ることに大きな意味があると思います。

―セーラー服を見る目が変わりました!

(写真/アフロ)