『日本の気配』を上梓したライターの武田砂鉄さん。「空気」の前段階にあり、われわれが隷従するという「気配」とは? 『日本の気配』を上梓したライターの武田砂鉄さん。「空気」の前段階にあり、われわれが隷従するという「気配」とは?

「ムカつくものにムカつくと言うのを忘れたくない」――最新刊『日本の気配』(晶文社)で、ライター・武田砂鉄さんは、とにかく怒っている。

デビュー作『紋切型社会』(2015年)以来、政治から芸能まで雑多なテーマを扱いながら、読者の痒いところ、痛いところを衝き、軽快に世相をあぶり出してきた。最新刊も手法は同じだが、社会に対する違和感、政治に対する怒りの温度が過去最高だ。

その違和感や怒りの根底にある、「空気」よりも厄介な「気配」とはなんなのか? 武田さんに聞いた――。

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――『日本の気配』はここ3、4年、さまざまなメディアで発表したコラムに大幅加筆した作品。読んで痛感したのは、たとえば新国立競技場建設の白紙撤回など、つい最近の出来事なのに、当時自分が抱いた違和感や憤りを忘れてしまっていたことです。

武田 単行本化にあたり、自分の原稿を読み直しながら、恥ずかしくなりました。書いた自分も、とにかくあれこれ忘れている。特定秘密保護法、安保法制、共謀罪......審議されていた当時はあれほど怒っていたのに、豪快に忘れてしまっている。忘れてしまった自分を嘆きつつ、時間が経過したことで見極められる問題の核の部分を継ぎ足しながら、怒りを投与していくことになりました。

――でも、その怒りの鮮度は落ちていないですよね。

武田 いくつもの問題について言及していますが、構造が一緒だからこそ鮮度が落ちないのかもしれません。与党は自分たちが主導する法案を、十分審議することなく、機は熟したなどと言いながら、数の論理で通す。そのプロセスで生じた不透明な事案については、忘却してもらうことによって、勢いを保持していく。森友・加計問題、自衛隊の日報隠蔽、裁量労働制の不適切データなど、同じ流れを繰り返しています。あいまいに謝ってみることのみで済まそうとする。

多くの人は、彼らが誤魔化そうとしていることに気づいている。でも、その怒りよりも、目先の仕事や娯楽への興味が上回ってしまう。たとえば、麻生財務大臣の、文書改ざん問題やセクハラ事務次官問題に関する発言を振り返れば、イエローカードが15枚くらい出ているのに、なぜか退場するつもりはなく、むしろ、「チームキャプテンはオレ」と続行している。

世間が、米朝首脳会談やワールドカップで慌ただしくなったときに「モリカケ問題を」と声を荒げると、「えっ、いつまで言ってんの?」と、軽くあしらわれる。いつまでも答えてくれないから、いつまでも言うだけなのですが。

――本書は「ヘイトの萌芽」というコラムから始まります。知人のマンションで武田さんはご近所トラブルに遭遇する。男ふたりが言い争って、最後に一方が「お前、中国人だろ」「中国に帰れ」という言葉をもう一方に浴びせる。武田さんは口を挟まなかった。〈「社会」問題は常に「自分」問題だが、そういう能書きを垂れている自分こそ黙認しちゃったのだから情けない〉と書いています。

武田 社会で生じている諸問題を、自分の生活から切り離して考えがちです。日頃、政権に対して批判的だったり、差別のない社会を訴えていたりしても、つい、それが毎朝ゴミ捨てに行ったり近所の人に挨拶したりという日常とは分離されてしまう。だけど、そんなの、同じ自分なのですから、地続きでなければならないはず。自分の生活の延長線上に社会がある、というのはごく当たり前のことです。とりわけ自分は、何かを専門的に研究する書き手でもないので、自分の生活を基点にして社会を見続けて、その上で思ったことを書く。

そんな自分が日頃「ヘイトスピーチを許すな」と書いているのに、いざヘイト的な言動が吐き出された現場に立ち会ったら、黙りこくってんじゃんか、との後ろめたさがあったんです。

――反省から入っていくのは潔い。

武田 そういう後ろめたさは、誰もがさまざまな場面で抱えているはず。セクハラをした財務省の事務次官を見て「とんでもないヤツだ」と非難しても、では自分は女性に対して、ハラスメント的な行為を一切してこなかったと言い切れるかと自問自答した人は多くいたはず。ニュースとして流れる問題を自分の生活に引き寄せて考えると、何かと口ごもる。そうやって口ごもった体感を正直に書かなければ、自分に都合よく練られた文章になってしまう。口ごもった上で、書けばいいと思います。

――その次のコラムでは、広島を訪問したオバマ大統領(当時)がスピーチで、「私」と「われわれ」を巧妙に使い分けていることを〈主語のはぐらかし〉と書いている。発話者としての「私」とは誰なのかというのも、この本の重要なテーマですね。

武田 映画監督・作家の森達也さんが、以前から「主語のない述語は暴走する」、あるいは「主語が複数となったときに述語は暴走する」と言っています。今の日本では、その言い様が当てはまる場面が多い。たとえば、東京五輪の招致が決定したときには、「私がやった」と匂わす人間が複数いたけど、新国立競技場建設費が高騰し、招致の際の賄賂疑惑などの疑惑が複数浮上すると、「私ではない」と責任の押し付け合いになった。

物事が悪いほうへ転がると、主語が溶けて、液状化していく。追及する野党もメディアも国民も、その主語を探しているけれど、当人たちは「いや、オレじゃないっすね、聞いてなかったっすね」と繰り返す。主語と述語が明確にならないと疑惑は晴れない。2時間ドラマで犯人が見つからないままエンドロールが流れたら、とても恐いじゃないですか。今、国を動かすトップの人たちが平然とそれをやっているし、私たちは、そのエンドロールを「まぁ、そろそろ終わる時間だよね」と落ち着いて眺めている。犯人は誰なのでしょうか。

――日大アメフト部の問題でも、タックルをした当人として名乗り出た宮川選手以外の関係者は、明確な主語を持たなかった印象です。

武田 そうですね、主語不在の構造はあちこちに蔓延していますよね。そして、どこからともなく「会社ってそういうもんじゃん。お前だって部長の尻拭いしてきただろ」などと、下の者が率先してその構造を許す緩慢な態度がこぼれてくる。政治家の暴言についても、「まぁ、麻生さんは確かに口は悪いけど、頑張ってんじゃん。野党に任せたらもっと大変なことになるし、しょうがねえよ」と、「ザ・日本企業」的な理解で消化してしまう。

――公文書改ざんへの怒りをフェイスブックに書き込んだら、「役所なんてそんなもんなんだから、いちいち騒ぎ立てるのはどうなの」っていうコメントをもらったことがあります。

武田 フェイスブックのような、近しい知り合いだけが行き交う心地よい空間で、ピリピリするようなこと言うんじゃねぇよ、ってことなんでしょうか。食べ物の感想や旅先の写真など、楽しいものだけを共有しようよ、だからわざわざ政権批判しないでよ、という態度、とっても傲慢で危険だと思います。

「どっちもどっち論」というものがありますね。例えば、Aという人間が、嘘をつきまくる安倍政権を批判する。それに対してBが安倍政権で雇用は改善した、民主党政権時代よりずっとマシ、などと反論する。そこにCが出てきて、「うんうん、ふたりの言いたいことはよくわかるよ。どっちの主張も正しい。森友問題は確かに良くないけどさ、これからオリンピックだってあるんだし......」みたいな感じで達観した見解をぶつけ、その話自体を萎ませて、別の会話に移っていく。

自分の立場はAですが、BよりもCの存在のほうが対話できない。中立に振る舞い、その場を落ち着かせられるのが優秀な人間だと誉めそやされる風潮があり、とても違和感を覚えます。

――その風潮は、本書のタイトルにある「気配」に繫がると思うのですが、「気配」は「空気」とは何が違うんですか?

武田 「空気」というのは、すっかり「読むもの」になりました。その場の状態や気分ですから、読めるものとされている。自己主張してその場の空気を乱す者がいれば、Cのような人間が空気を整える。「空気」の前段階、周囲の状況からなんとなく感じられる程度で振る舞いを定めてしまうのが「気配」です。

自分はほとんどLINEをやらないんですが、先日、「めんどくせー」と嘆いている友人からLINEグループを見せられると、とにかく「状況を察知せよ合戦」だった。それをひとりひとりがやっている。空気を読むというか、空気が整う前の察知合戦です。そういった気配から生まれた最大の事案が、現政権を揺るがした「忖度」案件だったのではないかと思います。

――つまり気配とは、固定された空気に対して疑問や異論を差し挟む余地もないくらい、みんなに定着している状態ってことですね。

武田 そうですね。「空気読め」とは言うけど、「気配読め」とは言わない。そこにあるべき空気があって、それに合わせろと指示する人間がいるのが「空気」です。だけど、「気配」って、そこまでの明確な輪郭があるわけではなく、心の内で「こういう感じだろう」となんとなく感じているような状態。読む、読まないというより、空気の前段階で察知していくものです。気配に隷従するとか、自縛するなどと随所で書いていますが、その傾向はどんどん強まっていると思います。

――本書では、最近よく駅のトイレで見かける張り紙「いつも綺麗に使っていただいてありがとうございます」に突っ込んでいます。まさに気配を象徴する文言ですね。

武田 日本語として考えたら、おかしな表現ですよね。初めて入ったトイレに「いつも綺麗に使っていただいてありがとうございます」とあり、それに対して「いや、初めて使うんですけど!」と突っ込むのは、面白くはないけれど、当たり前のこと。少し前までは「トイレットペーパー以外は流さないで」とか「ガムは捨てるな」とか、直截的な指示が掲げられていましたよね。

――なんでそんなバカ丁寧な言い方をするんでしょうか?

武田 命令するより、ほのめかす文章で察知してもらうほうが結果的に綺麗に使ってもらえるんだろう、との読みがあるのでしょう。でもこうやって、論理的には、明らかに自分の言っていることのほうが正しいのに、「いちいちそんなことを吊るし上げなくても」なんて言われてしまう。なんか気持ち悪い、って感じたことを、なぜか、飲み込んだままにしろ、わざわざ吐き出すな、って圧が強いんです。

★後編⇒為政者の嘘に寛容な日本で「ムカつくものはムカつく」と言い続けるために必要なこと

●武田砂鉄(たけだ・さてつ)
1982年東京都生まれ。出版社勤務を経て、2014年秋よりフリーライターに。著書に『紋切型社会―言葉で固まる現代を解きほぐす』『芸能人寛容論:テレビの中のわだかまり』『コンプレックス文化論』など

●『日本の気配』 晶文社 1600円+税