「ムカつくものにムカつくと言うのを忘れたくない」――最新刊『日本の気配』(晶文社)で、ライター・武田砂鉄さんは、とにかく怒っている。
デビュー作『紋切型社会』(2015年)以来、政治から芸能まで雑多なテーマを扱いながら、読者の痒いところ、痛いところを衝き、軽快に世相をあぶり出してきた。最新刊も手法は同じだが、社会に対する違和感、政治に対する怒りの温度が過去最高だ。その違和感や怒りの根底にある、「空気」よりも厄介な「気配」の正体を、武田さんに聞いた。
前編では、「気配」とは「空気」の前段階にあり、周囲の状況から察知し振る舞いを定めてしまうもの、と語った。そして、その「気配」は日本語をおかしくしているという――。
***
――「気配」のおかげで日本語そのものがおかしくなっている。本書で触れている「~させていただく」という言葉遣いもその一例ですか?
武田 SMAPの解散を伝える所属事務所からのファックスには「させていただく」が何度も用いられていました。自分は、EXILEをはじめとしたLDHグループを定点観測しているんですけど、テレビ番組でTAKAHIROさんが「(先輩に)テキーラを飲まさせていただいて」と言ったり、事故に遭ってリハビリ中のMAKIDAIさんが「リハビリをさせていただいて」と言ったりしていた。なぜ自分の体をケアするのに「させていただく」なのか。どこまでも礼儀の正しい人、と思わせますが、何に対しても「させていただく」を連呼するのって、やっぱり、正しいとは言えないはずですが。
――僕も仕事のメールで、「~いたします」でいい場合でも「~させていただきます」と書いてしまうことがある。過剰な敬語を使うのは、本当はすごく失礼なんですけど。
武田 相手を持ち上げる言葉遣いをしておけば問題ないだろう、揉めることはないだろうという回避が日常化しているんでしょうか。それとは少し異なりますが、断言すべきところで断言しないってことを、自分もやってしまう。
先日、あるラジオ番組に出たとき、袴田事件の再審請求を高裁が棄却した件がテーマになった。自分は、再審開始を決定した静岡地裁の判断など一連の経緯を把握した上で、冤罪だと考えています。個人の見解として、そう断定して話すのはなんら問題ないはずだけれど、「冤罪の可能性が高い」との表現に留めてしまった。終わった後で、あっ、はぐらかしちゃったな、と反省する。でも、自分を自分で慰めるようになってしまいますが、そこで反省があるか、ないかって、大きな違いだと思うんです。
「おかしいものはおかしい」「ムカつくものはムカつく」と言うためには、自分が書いたもの、言ったことに対する自己検証が必要です。言いっぱなし、書きっぱなしではいけない。本書でも詳しく書きましたが、百田尚樹や長谷川豊のような味付けの濃いことを言う人がもてはやされる。思想信条に関係なく、味付けの濃いものにお客がつくんです。だけど、その濃さに同調していくのは、ものを書く人間として絶望的なことです。
――『日本の気配』では、安倍首相の言葉にも言及していますね。
武田 思い出してみてください、共謀罪の適用範囲を国会で問われた際、首相は「そもそも罪を犯すことを目的としている集団でなければならない」と答えた。ならば、そもそも犯罪集団ではなく宗教団体だったオウム真理教は適用範囲外になるのか、と野党から問われると、「『そもそも』の意味を辞書で調べると『基本的に』という意味もある」と逃げた。しかし、各メディアがいくつもの辞書を調べても、「そもそも」に「基本的に」の意味はなかった。すると政府は「大辞林によると『そもそも』に『どだい』という意味があり、『どだい』に『基本』という意味がある」との答弁書を出した。
辞書の存在すら飛び越えようとする......自分はこれを「日本語への挑戦」と茶化して書きましたけど、彼らは言葉の意味すらも変えようとしているのです。見過ごすことはできません。
――政治家が失言を追及されたとき、「誤解を招いた」ことを陳謝するのが常套手段になっていますね。
武田 自分が悪いんじゃなくて、発言を読み取るヤツらの頭が追いつかなかったみたいで、真意を誤解しちゃったらしいんで、一応謝っておきますね、ということですね。言語という伝達手段を、偉い人たちがどこまでも軽視している。これって、政策云々とか、左右のイデオロギーを乗り越えて、国民が一丸となって非難しなければいけないことであるはず。でも、そういった政治家の言い草に、私たちはすっかり寛容です。
――なぜ、寛容でいられるのでしょうか?
武田 先ほども言ったように、自分たちの生活と社会の問題を分離させているからでしょう。たとえば、生活保護費をさらに削減するとの判断が下ったときに、生活がさらに困窮し、下手をすれば命を落としかねない人が出てくるかもしれない、と考える。道を歩いていて、倒れている人がいたら、救急車を呼びますね。それと同じです。それなのに、「でもまぁ、しょうがないよね、ズルしてるヤツもいるらしいし、そういうもんだろ」というような非道な見解が平気で顔を出す。
自分のこととして引き受ける。でもその一方で、シリア難民の問題を自分のこととして引き受けているのかどうか。たとえば、先日、新幹線でナタを振り回す男に3人が殺傷された事件は自分の胸に突き刺さるけど、遠く離れた国で多くの人が死んでも突き刺さってはいない。そうやって線引きしているわけです。
――その矛盾を常に意識しておくわけですね。ところで、前編で既出の「お前、中国人だろ」の話にも繋がるんですけど、この本を読んで、ベストセラーになった『君たちはどう生きるか』を思い出したんですよ。
武田 あの本はそんな内容でしたっけ?
――主人公のコペル君は、人間ひとりひとりは世界を構成する分子のようなものだと気づく。そして、自分の仲間が先輩たちに暴行されたときに、助けに行かなかったことをずっと反省しているんですよ。
武田 『日本の気配』は、平成版『君たちはどう生きるか』だと書いておいてください。うっかり数冊売れるかもしれない(笑)。今、「どう生きるか」を考えるときに、眼前の社会に、取り除かなければならない障壁が多い。だから、この時代、『君たちはどう生きるか』という問いかけに明答することがとても難しいんです。自分の本では、答えはこうです、と言い切るのではなく、とにかく、あれこれ考えませんか、という内容になっています。いちいち考えていれば、壁に潰されることはないと思っています。
――あの本はなぜ、ベストセラーになったんでしょうか?
武田 どうしてでしょう。古典である安堵感、という分析は意地悪かもしれませんが、ある程度の距離を置きながら、自分の生き方に照らしながら考えることができる。自分にナイフが突き刺さらないように生き方を考えるのではなく、君たちはどう生きるかという問いかけを受けた後で、どうしてこんなに僕たちは生きづらいのか、という今の社会への眼差しに繋げてほしいと思いますね。
――古典への向き合い方ひとつ取っても、社会の問題と自分の生活を分離させることで得られる安心感があるのかも。そんな「気配」に支配された中で、「ムカつくものはムカつく」と表明し、その怒りを忘れずにいるためには、何が必要なんでしょう?
武田 無理に怒る必要はないし、社会に対する怒りが減ることはいいことだとは思うんですけど、今は幸いにして、いや不幸にして、怒りの発生源があちこちにある。朝、新聞を開けばその題材をすぐに見つけることができてしまう。社会の問題を自分に引き寄せたときに自分から浮上してくる感情と向き合っていれば、怒りを忘れることもないし、後々でその問題を検証することもできると思います。
たとえば働き方改革法案について、数分だけでも考えてみれば、割とすぐに、これ、おかしいんじゃないかって気づくはず。自分の生活と結びつけて考えてみれば、必ず「社会」というものがそびえ立ってくる。強引に押し通そうとしている人たちは、国民に理解してもらう時間を作るのを嫌がります。それに便乗しちゃいけない。
――2015年に出版した初の単行本『紋切型社会』は、「全米が泣いた!」など社会に溢れる定型句を集めて世相を論じた作品でしたが、『日本の気配』に比べるとずいぶん穏やかな感じに思えます。
武田 確かに、2018年の今では、紋切型のフレーズが飛び交うのなんて当たり前だろ、って言われるかもしれないですね。裏を返せば、以前は、政治の問題をここまで自分に引き寄せなくても済んでいたのかもしれない。
専門家ではない、雑文書きをしている自分に、政治について書いてくれ、と要請が来る。政策云々に辿り着く前に、なぜこんな日本語が通用するのかとか、なぜ明確な嘘が許容されるのかとか、リテラシーが瓦解していく様を見せられているから、そこに突っ込まざるを得ない。そういった危機感を自身で感じ取りながら書いた一冊になりました。
●武田砂鉄(たけだ・さてつ)
1982年東京都生まれ。出版社勤務を経て、2014年秋よりフリーライターに。著書に『紋切型社会―言葉で固まる現代を解きほぐす』『芸能人寛容論:テレビの中のわだかまり』『コンプレックス文化論』など
●『日本の気配』 晶文社 1600円+税