今を生きる多くの世代にとっては、物心ついたときから広島市は「平和都市」だろう。毎年8月6日には平和記念式典が開かれ、原爆死没者を慰霊し、平和への願いを新たにする。
しかし、式典が行なわれる平和記念公園と、今では世界中から年間170万もの人が訪れる「広島平和記念資料館」が完成するまでには、多くの人間の苦闘があった。
作家・石井光太(こうた)氏はノンフィクション『原爆 広島を復興させた人びと』で、4人の男たち――資料館初代館長・長岡省吾、広島市長・浜井信三、建築家・丹下健三、被爆者・高橋昭博を軸に、「75年は草木も生えない」といわれた広島が平和都市としてよみがえった、その知られざる歴史を描いている。
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―東京で生まれ育った石井さんが、広島を描きたいと思った動機はなんですか?
石井 大学生のとき、親しくしていた広島出身の女性が、「私は被爆しているかもしれないから子供をつくっちゃいけないの」とつぶやくように言ったことが、僕と「ヒロシマ」との出会いでした。彼女は僕より数歳年下でしたが、やはり広島の人々の中で原爆の悲劇は消えることがないのだと実感しました。
作家になってから、あの戦争について書きたいという思いは持っていましたが、ノンフィクションというのは自分の中に「書く理由」がないといけない。本書を書く決心をしたのは、2014年にNHKの番組で広島を訪れたとき、長岡省吾を知ったことがきっかけでした。
長岡は、原爆投下直後から原爆研究の資料として瓦礫(がれき)を拾い集め、それが平和記念資料館建設へとつながっていった。長岡たちは何を思い瓦礫を収集し、広島を平和都市としてよみがえらせたのか。
その思いは広島県民だけではなく、後世を生きる私たちすべてに向けられ託されているはず。それならば広島出身ではない僕にも書く権利があるのではないかと思ったのです。
―長岡省吾はなぜ、原爆資料を収集したのですか?
石井 広島県佐伯郡玖波(くば)村(現・大竹市)に育った長岡は、地質学・鉱物学の研究者でした。原爆投下時、旧制広島文理科大学に勤め、陸軍の依頼により山口県で地質調査をしていた。
8月8日、大学の同僚たちの安否を確認するため広島市内に入った彼は、溶けた神社の石灯籠を見て、これは噂に聞く原子爆弾によるものに違いない、石についた被爆の痕を調べれば、原爆の熱線や爆風、爆心地が明らかになると確信したんです。
「ピカの毒に侵されている」といわれた焼け野原で瓦礫を拾い歩く長岡の姿は、多くの人の目に奇怪に移り、嘲笑されもした。長岡は原爆症を発症しながらも資料を収集し、平和記念資料館の前身である「原爆参考資料陳列室」を作ったんです。
しかし長岡は戦前、「陸軍特務機関」という諜報(ちょうほう)機関にいたことで経歴を明かせなかったこともあり、彼についての資料は極めて少なく、現在もその存在はほとんど知られていません。
また、彼は大学を出ていないので、アカデミズムの世界で出世する道はなかった。そのことに忸怩(じくじ)たる思いを抱き、原爆資料の収集・研究に執心したのでしょう。
のちに"世界のタンゲ"と称される丹下健三も、若い頃は挫折の連続でした。幼少期を中国と愛媛県今治市で過ごした彼は、旧制広島高校に進学。学生たちの遊び場は、爆心地となった中島本町(現・中区)という繁華街でした。
東京帝国大学大学院時代には、数々の建築コンペで受賞しましたが、戦況悪化の影響もあって、賞を獲(と)った作品が実際の建造物になることはなかった。背水の陣で広島の復興都市計画に参加し、平和記念公園や資料館の設計を手がけることになったのです。
美談だけではない、そういった個人的な負のエネルギーも含めて、彼らの強さを描きたかった。長岡、丹下に加えて、原爆投下直後から市民の食料や衣類の確保に奔走し、のちに原爆症に苦しみながら市長になった浜井信三、そして、爆心地から約1.4kmの距離で被爆し全身に重度の障害を負いながら、市職員として原爆ドームの保管に貢献した高橋昭博――この4人が交差する群像劇となりました。
―しかし、平和公園や資料館の建設は、当初から市民の賛同を得ていたわけではなかった。
石井 当然、予算の問題もあるし、公園なんか造るよりもっとやるべきことがあるだろうという声もありました。建設予定地の中島本町は繁華街だったから、もともとの土地所有者がいたし、すでに多くの人がこの地で新たな生活を始めていた。爆心地なので「ピカドンの毒」が蔓延(まんえん)しているとされ、そこに公園を造ることを疑問視する向きもあった。
さらに、ここには墓地もあったんです。それでも戦後わずか10年で公園や資料館が完成したのは、市民たちの平和への願いが、原爆の悲劇を上回ったからなのだと思います。死の中から立ち上がる生のエネルギー。その光景こそ、最も描きたかったものでした。
―資料館が完成する前年、1954年にビキニ環礁で第五福竜丸が米軍の水爆実験によって「死の灰」を浴び、日本全国で原水爆反対運動が吹き荒れました。そこで中曽根康弘や正力松太郎らが「原子力の平和利用」啓発キャンペーンを起こし、資料館も巻き込まれていきます。
石井 国民の平和への願いを政治家が利用するというのは、昔も今も変わりません。55年11月、まずは東京で行なわれた「平和利用博覧会」には36万人もの人が訪れました。名古屋、京都、大阪でも大盛況となり、広島にも回ってきたのですが、なんとその会場となったのは資料館でした。
長岡たちが収集した原爆資料がことごとく撤去され、アメリカから持ち込まれた平和利用をアピールする品々が置かれた。長岡は、原子力の平和利用には一定の理解を示していましたが、資料館は純粋に原爆の悲劇を伝えるものでなければならないと、強く反対していました。
―現在の、原発再稼働や核禁止条約不参加の是非を問う議論ともつながっている気がします。
石井 当然、本書を読めば、原発、東日本大震災の復興、あるいは憲法改正など、現在の問題を想起するでしょう。本書は、なぜ同じ歴史が70年もたって繰り返されているのか、私たちが記録し、闘わなければならないものはなんなのかを示してくれるはずです。歴史から学ぶことを、私たちは永遠に続けていかなければならないのです。
●石井光太(いしい・こうた)
1977年生まれ、東京都出身。2005年『物乞う仏陀』(文春文庫)で作家デビュー。ノンフィクションを中心に、小説や児童書など幅広く執筆活動を行なう。主な著書に『神の棄てた裸体』『絶対貧困』『レンタルチャイルド』『遺体』『蛍の森』『浮浪児1945-』(以上、新潮文庫)、『感染宣告』(講談社文庫)、『「鬼畜」の家』(新潮社)、『43回の殺意』(双葉社)などがある
■『原爆 広島を復興させた人びと』
(集英社 1600円+税)
一発の原子爆弾により死の街と化した広島が、いかにして「平和都市」としてよみがえったのか。「広島平和記念資料館」初代館長・長岡省吾、"原爆市長"浜井信三、世界的建築家・丹下健三、被爆者・高橋昭博の4人の闘いを軸に、奇跡の復興の歴史を描いた感動の群像ノンフィクション。1950年代に資料館が「原子力の平和利用」啓発キャンペーンに利用された経緯にも触れ、現在の原発再稼働や核の問題についても考えさせられる一冊