無精子症の夫婦、選択的シングルマザー、同性愛者......子供が欲しくても「精子がない」人に対する、「第三者による私的な精子提供」が近年、急増している。医療機関を介さず、「倫理的にアウト」という批判もあるなかで、彼ら"精子ドナー"たちが活動を続ける理由とは? 当事者たちを直撃した。
***
■日本で精子バンクが成り立たない理由
第三者の精子を使い妊娠へと導く「AID(非配偶者間人工授精)」という医療行為がある。日本では年間約3000件が実施され、その半数以上を慶應義塾大学病院が担っている。
しかし昨年8月、慶應病院は患者の新規受け入れ停止を発表した。「精子を提供してくれるドナーが減少したためです」と、同病院の産婦人科産科診療科部長、田中守氏は言う。
慶應病院では公募をせず、「声が届く範囲でボランティアとして協力を依頼」し、ドナーを確保。ドナーの個人情報は患者にも明かさない完全匿名を大原則としていた。
しかし近年、AIDで誕生した子供が遺伝上の親の情報を知る権利――「出自を知る権利」を法律で認める動きが世界的に加速。日本でもAIDによる出生児たちが法整備を求める活動を始めている。
「法制度が未整備のまま、ドナーの情報が明かされれば、生まれた子供が将来、ドナーに扶養義務や財産分与などを求める可能性が発生します」(田中氏)
子供がドナーの情報開示を求める訴えを起こし、裁判所が開示命令を下せば、病院も応じざるをえなくなる。
2017年6月、慶應病院は匿名原則を維持しつつも、「将来、個人情報を公開せざるをえなくなる可能性がある」旨をドナーに告知。すると、「やはり尻込みするのか、それ以来、新規ドナーが現れない状況が続き」(田中氏)、やむなく患者の受け入れを停止。受け入れ再開のメドは立っていないという。
著書に『生殖医療の衝撃』(講談社現代新書)がある埼玉医科大学の石原理(おさむ)教授も法整備の遅れを指摘する。
「AIDを行なう国の多くは、子供の出自を知る権利を認めつつ、精子を提供した遺伝上の親に、AIDの出生児に対する扶養義務が発生しないことを法律で明記しています。これが土台にあるから、例えばデンマークではドナーが次々と現れ、優良な精子を世界100ヵ国以上の女性に送る民間の精子バンクが成り立っているのです。先進諸国の中で、出自を知る権利や扶養義務に関する法律がいまだにないのは日本くらい。これを整備しない限り、ドナー不足の問題は解消されないでしょう」
では、AIDという"受け皿"を失った夫婦やカップルは今後、どうなるのか?
「ネット上に『精子バンク』と名乗る人たちが存在し、彼らはボランティアと称して私的に精子を提供しています。ただ、性感染症の検査が不十分である可能性が高く、梅毒、クラミジア、HIVといった感染リスクを拡散させる存在にもなりかねない。これをボランティアと称していいのか甚(はなは)だ疑問ですが、AIDの存続が危ぶまれるなか、彼らに頼らざるをえない女性が増えることが危惧されています」(石原教授)
■25歳にして遺伝上の子供が36人
「精子提供ボランティア」でネット検索すると、100近くの個人によるサイトがヒットする。いずれも匿名で、無精子症の夫婦やレズビアンのカップル、シングルマザー志向の女性らに「無償で精子を提供します!」と謳(うた)っている。
サイトには活動実績やメールアドレス(フリーメール)とともに、プロフィールが記されている。筆者が確認した限り、年齢は30~40代、学歴は国立大卒や有名私大卒、職業はエンジニアや研究員などの理系職が多い印象で、「高校の部活動で全国大会出場」「姉は作家、弟は医師」などと自身の経歴や家系をアピールするような記述も目立った。
筆者はサイトの運営者20人に取材依頼メールを送った。これに真っ先に応じてくれたのは、正人さん(仮名)という25歳の男性だった。彼のサイトには「身長178㎝」、「中堅私大卒」、「顔は成宮(寛貴)さんと(V6の)三宅(健)さんを足して2で割った感じ【提供希望者公認】」とある。
返信のあった数日後の休日、待ち合わせ場所に現れた正人さんは確かに高身長のイケメンだった。職業はSEで、スーツを着ているのは休日出勤だったのだろうか? 正人さんはハニカミながらこう答えた。
「ただでさえ人からいかがわしいと思われることをしてるじゃないですか。だから身なりはきちんとしようと」
まず活動実績について聞いた。
「活動を始めて約3年半で、提供人数は毎年約100人。出産した子供の数は、妊娠中の赤ちゃんを含めて36人です」
25歳にして36人の子供が! 精子を提供する"年100人"の内訳は次のとおりだ。
「半数が無精子症の夫を持つ奥さまで、3割が女性から男性に性別適合手術をされたGID(性同一性障害)の方のパートナーの女性、残りの2割がシングルマザー志向の女性と、レズビアンの方です」
被提供者の女性の多くには、パートナーの男性や配偶者がいる。精子提供は彼らも納得してのことなのだろうか。
「提供前に行なう面談には、パートナーの方も同席されるケースが多い。事情を聞くと、医療機関でのAIDも検討したけど、どこも治療まで1、2年待ちで、AIDは冷凍精子を使うので妊娠率は5%程度とかなり低くなる。その点、ボランティアだと冷凍しないフレッシュな精子を使うから妊娠率がより高く、費用の負担もほとんどない。そのあたりはパートナーの男性も納得済みなのだと感じます」
では、精子の提供方法は?
「シリンジ法です」
ここでいうシリンジ法とは、市販されている簡易的な注射器(シリンジ)で、精子を膣内に注入する方法だ。
「多くの場合、駅で女性と待ち合わせ、漫画喫茶に移動します。別々の個室に入り、私はアダルト動画を見ながら精液を採取、容器に入れてフリーザーバッグに包み、シリンジとセットで紙袋に入れて別室で待つ女性に手渡します」
その後、女性はその場で精子を注入するか、自宅に持ち帰るか、「夫の精子」と偽り、近隣の病院に持ち込んで人工授精を受けるのだという。
女性は妊娠の確率が高まる排卵時期に合わせてピンポイントで受け取り日を指定してくる。同時進行で複数の女性に提供するため、その日が重なることもあるようだ。
「一日に3回、別々の女性に精子を渡したこともあり、提供日が3日続くと気持ちが鬱々(うつうつ)としてきます(苦笑)」
ゆえに"射精力"を維持する日頃の体調管理も活動の一環なのだと言い切る。
「高タンパクな食事とジム通い、仕事帰りにはひと駅分をジョギングします。あと、精子の産生を阻害するボクサーパンツと自転車とサウナは使わないようにしています」
まるでアスリートのような節制ぶりだ。
精子の受け取りを急ぐ女性の要望で、悪臭が漂う駅の便所で射精を強いられたときには「なんだか悲しくなってきて......涙をこぼしながら」行為に及んだこともある。今は、不衛生な環境での提供は断っているという。
また、女性に指定された日時と場所に仕事の都合で行けない場合は、暗証番号式の駅のロッカーに精液入りの容器を保管し、後から女性がそれを取り出す"ロッカー渡し"という荒業もあった。
なぜそこまでして......と思えてくるが、この奉仕活動を始めた動機は"私欲"にあったと正人さんは明かす。
「私は大学卒業後、公立中学の教員になりました。その学校は荒れ、職場はブラック。毎朝5時半に起床して終電で帰宅する激務に追われていました。30歳までに子供をつくるという人生設計でしたが、このままではその前に死んでしまう......早くつくらなきゃ!と本能的に思ったんです」
自分の遺伝子をこの世に残さないまま死にたくない。そんなときにネットで精子提供ボランティアの存在を知った。
「活動を始めるきっかけが"私欲"だった点は批判されても仕方がないと思います。しかしその先に、子供が欲しいというごく自然な願いを叶えられず苦しんでいる女性や、そのパートナーの方たちがいる。私には彼女たちを見捨てることはできません」
■性交渉で精子を提供する方法も
正人さんの提供方法はシリンジ法のみだが、秀樹さん(45歳)と智彦さん(40代、いずれも仮名)は「タイミング法」を採り入れている。
これは、実際に性交渉をして精子を提供する方法だ。
秀樹さんは一流国立大の大学院卒で外資系金融機関に勤務。妻と13歳の娘がおり、活動歴は約8年。智彦さんは会社員で妻と6歳の息子がいて、活動歴は5年だ。
秀樹さんが活動を始めた動機はこうだ。
「職場にシングルマザー志向の女性が複数いて、彼女たちから『子供は欲しいけど結婚はムリ』『自分と釣り合う男がいない』といった話を聞いていました。そういった女性たちの気持ちに応えてあげたいと思ったのがきっかけです」
一方の智彦さんは、「身内の人間から精子提供をお願いされたことがあり、初めてそういう人たちの存在を知りました。子供をつくれない人たちの救いになればと活動を始めました」。
智彦さんは過去に10人程度を出産に導いた。9割がシリンジ法、1割がタイミング法で、「女性側から望まれたときにだけタイミング法を用いる」という。秀樹さんはこれまで15人程度の出産に成功。提供方法は「基本、タイミング法」と決めている。
医学的根拠はないが、ふたりとも「タイミング法のほうが妊娠率は高まる」という独自の見解を持っている。
「シリンジ法は注射器の先端部が短く、膣内に精子を置いてくるだけ。一方、タイミング法は射精と同時に精子が子宮に届き、女性がオーガズムに達すればより受精率が高まる」(智彦さん)
「行為中に女性の体から出てくる愛液が受精を促すという説もあります」(秀樹さん)
性交渉は安価なビジネスホテルなどで行ない、女性側が部屋代と交通費のみを負担。謝礼は求めないにしても、越えてはならない一線を踏み越えている意識はないのか?
「経験上、シリンジ法ではほぼ妊娠は望めません。失敗するたびに女性は大きなショックを受けます。これでは"希望の空売り"。だからタイミング法を使っているんです」(秀樹さん)
「旦那さんがいる女性に提供したときは心苦しい部分がありました。でも、事前に面談をしたときに『子供を授かれる道がある』ことをお示ししたら、ご夫婦そろってパッと、希望に満ちあふれた表情に変わっておられました。私はあくまでその気持ちに応えているだけなんです」(智彦さん)
不純な動機は一片もないのか?
「もし、それを求めるならそういう店に行く。やましさはありません」(秀樹さん)
「記者さんが考えるような一般常識は、この世界では通用しません。女性たちは『一刻も早く精子を提供して』と藁(わら)にもすがる思いでいるわけですから」(智彦さん)
だが、その上でふたりはこうも口をそろえるのだった。
「活動のことは自分だけの秘密です。墓場まで持っていく」
■泣き崩れた妻が今では「頑張ってね」と......
一方、前出の正人さんは妻や知人にカミングアウトした上で活動を行なっている。
「自分にはなんの後ろ暗いところもないのに、隠すほうが不自然じゃないですか? 妻に初めて告げたのは結婚前でした。もちろん彼女は猛反対で、目の前で泣き崩れ、すぐに彼女の両親にも報告されて、お義母さんには『お願いだからやめて』と涙ながらに懇願されました。
でも、私は活動を続けました。妻は精神的におかしくなるほどふさぎ込み、説得するのに相当な時間がかかりましたが、その後、私たちは結婚もして、今は納得してくれたのか、提供に行くときは『頑張ってね』と送り出してくれます」
正人さんはこう続ける。
「家族に告知できるのは、『タイミング法は望まれても絶対にやらない』と心に決めているからだと思います。それを採り入れている人の中にも奉仕精神を持つ人はいるでしょうが、なかには不特定多数の女性を妊娠させることに快楽を求める"孕(はら)ませフェチ"のような変人もいると聞きます。
傍から見れば、私の活動も同じように捉えられるかもしれませんが、その動機がまっとうなものであれ、不純なものであれ、性交渉による精子提供は相手の方を不幸にしますし、そのパートナーである無精子症の旦那様やレズビアンの方の心の救いにもなりません。だからその"一線"は絶対に越えてはならないのだと思っています」
倫理上の疑念はまだある。冒頭で記した「出自を知る権利」の問題だ。この点について前出の石原教授はこう話す。
「精子提供で生まれたことを子供に隠していても、『父親と顔が似ていない』などなんらかの理由で、育ての父と血のつながりがない事実を知ってしまうということも起こりかねない。子供はどう足掻(あが)いても遺伝上の父親の顔も名前もわからず、心に深い傷を抱えたまま、その後の人生を歩まざるをえなくなります」
正人さん、秀樹さん、智彦さんはいずれも、自身の存在を女性が子供に告知するつもりなら「それに従う」、その後、子供が自分に会いたいと望めば「会うつもり」という。
だが、3人は現在も匿名を貫き、女性に住所も携帯番号も本名も明かしてない。接点はフリーメールアドレスだけだ。そこは「将来、多額の養育費を請求されたら......」(正人さん)と尻込みする。
智彦さんはこう話す。
「確かにその問題はあるでしょう。でも、私たちは相手に望まれたから精子という幸せになるための"素材"を提供しただけ。そういう問題が起きれば相談があるでしょうし、そのときに考えればいい」
彼らは真っすぐな善意を口にする。しかしその陰に危うさを感じた筆者の胸には、モヤモヤとした澱(おり)が残った。
ならば、被提供者、つまり女性側の事情も聞かなければなるまい。