社会が寛容になっていく過程で摩擦が生じるのは、日本に限らず、どの国の社会でも同じだと語るサンドラ・ヘフェリン氏

平成末期、セクハラやパワハラへの問題意識が高まった。マイノリティなど立場の弱い者の権利を守り、多様性を認めることで社会は「寛容」になっていく。コンプライアンスやポリティカル・コレクトネスは、それを実現するための装置でもあるだろう。

しかし、「堅苦しいコンプライアンスのせいで言いたいことが言えない」という声もよく耳にする。ほかの先進国の場合はどうなのか? 「週プレ外国人記者クラブ」第139回は、「寛容の国」ドイツ出身で、日独ハーフのコラムニスト、サンドラ・ヘフェリン氏に訊いた――。

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──現在の日本は「不寛容社会」などと言われますが、平成の31年間を通して見ると、日本社会の寛容度はどう変わったと思いますか?

サンドラ 私はドイツから日本に移り住んで20年以上になりますが、日本の社会の寛容度は明らかに高まっていると感じます。例えば、うつ病に対する理解。昭和の時代は、「気合とやる気があればうつ病になんかならない」というような根性論がまかり通っていて、平成になってからもしばらくはそのような考え方をする人も多くいましたが、今では「うつ病は病気」というのは常識です。

ほかにもLGBTの権利、過重労働、児童虐待の問題など、平成の時代に意識が高まった事柄はたくさんありますよね。平成元年には「24時間戦えますか」というCMのキャッチコピーが流行語になっていましたが、最近はコンビニエンスストアの営業時間短縮の是非が議論されるなど、過重労働を見直す動きも活発になってきたことは良い傾向だと思います。「景気」はバブル時代のほうが良かったですが、マイノリティや弱者を守るべきという「価値観」は平成も終わる現在のほうがずっと良くなっていると思います。

ただ、ヨーロッパの先進諸国に比べると「まだ足りない」と思うこともあります。たとえば現在のドイツでは同性婚が認められていますし、出生時に性別が医学的に特定できなかった、いわゆる「間性」の人たちに対して、身分証明書の性別欄に「divers(多様)」と記すことが認められています。

――マイノリティや弱者を守る装置として、コンプライアンスやポリティカル・コレクトネスといったものがあると思いますが、それを意識しすぎて「これはパワハラになるんじゃないか......」と部下を叱りにくくなったとか、「息苦しい世の中になった」といった嘆きも耳にします。

サンドラ そういった声はドイツにもありますよ。ドイツでは昔から職場など日常の風景に「雑談の文化」があります。たとえば週明けの月曜日の朝の職場では、同僚や部下、上司に「週末はどう過ごしましたか?」と訊き、互いに週末をどう過ごしていたかを話すのがあいさつの一環でもあります。今までは、たとえば男性の上司が部下の女性に対して「週末はカレシとどう過ごしたの?」と尋ねることも、いわば「雑談の一環」と見なされていましたが、今はMeToo運動の影響で、雑談の内容には気を付けなければいけません。結果として、「気軽な雑談が難しくなった」という声もあります。

このように、日常生活の中で実際に「セクハラやパワハラのボーダーラインはどこか?」を見極めることは、日本に限らず、ほかの先進国でも、それほど簡単なことではありません。

──最近、京都造形芸術大学の公開講座を受講した女性がゲスト講師の芸術家、会田誠さんの講義にショックを受け、「環境型セクハラを受けた」として大学を運営する法人を訴える騒動がありました。これに対しては、「会田誠さんの過激な作風や講義内容は調べれば事前にわかるはずだし、イヤなら受けなければいい」といった意見が大多数でした。

サンドラ 似たような騒動がフランスでもありましたよ。オルセー美術館に展示されている19世紀の画家、ギュスターヴ・クールベの「世界の起源」を写真に撮ってフェイスブックに投稿した美術教師のアカウントが停止された事件です。美術教師は「表現の自由を侵害された」としてフェイスブックを訴えました。「世界の起源」は女性器を克明に描写した絵画ですが、フランスを代表するオルセー美術館に展示されているのだから、れっきとした芸術作品です。繰り返しますが、これは「19世紀に描かれた作品」です。従来の文化や伝統と、現代社会の価値観との間で摩擦が起きているひとつの事例と言えるでしょう。

――男性の政治家の不倫報道などで「女性問題」という言葉が使われることがあります。「男性問題」という言葉は聞かないので、男女平等の現代には相応しくないのではと思ったりします。

サンドラ 「女性問題」は確かにおかしい言葉ですね。男性の政治家が起こした問題なのですから、「男性問題」と言ってもいいぐらいだと思います(笑)。冗談はさておき、そこは率直に「不倫疑惑問題」と言うべきですよね。ポリティカル・コレクトネスの問題でいうと、今、ドイツでは「従来のドイツ語は女性に対して差別的だから、一部のドイツ語の文法を改めるべき」という議論があります。

どういうことかというと、ドイツ語では職業を指す名詞にも男性形と女性形があります。たとえば男性の俳優は「Schauspieler」、女優の場合は「Schauspielerin」というふうに、女性の場合は最後に「-in」が付くことが多いです。

ところが、男女ともに複数形になると、男性形単数名詞と同じ「Schauspieler」が使われているのです。そのため、「Schauspieler(男女含めた俳優全般)のなかで誰が好き?」と訊かれると、ドイツ人は無意識のうちに最初に「男性の俳優」を頭に浮かべてしまうのです。同様に、ドイツ語で男性の政治家は「Politiker」、女性の政治家は「Politikerin」ですが、男女を含む政治家全般を指す複数形は「Politiker」という男性形単数と同じ形になります。

「文法を改めよう」という主張について、「職業を表す複数形名詞が男性形単数と同じだとしても、実際には男女両方が含まれているのだから別にいいではないか」という反論があり、「言葉をいじり始めることは、言葉の死を意味する」という見解を持つ言語学者もいます。

ただ、その職業全般を指す複数形が結果的に男性形単数と同じということは、先述したように、その単語を聞いたときに、女性ではなく、男性を先に思い浮かべてしまうという問題があり、結果的に女性が「後回し」にされてしまうという弊害があるわけです。そういう意味では、現代の社会にマッチしないのなら、文法を改めることも選択肢として「あり」なのかもしれません。

――日本では、看護婦(女性)、看護士(男性)を「看護師」に統一したり、保母を「保育士」に改めたりした例がありますね。

サンドラ 日本語は女性でも男性でも、「田中」という苗字の人は、「田中様」または「田中さん」ですが、仮にこれがドイツ語だと、女性は「Frau Tanaka」、男性は「Herr Tanaka」となりますので、そういう意味では日本語のほうが性別を意識させられる場面が意外に少ないですね。

ところで今年、ドイツのテレビ番組で「ルーツ探偵」と話題になった一幕がありました。ある番組に出演した5歳の女の子に対して司会者が「あなたの出身はどこ?」と訊きました。女の子は自分が生まれ育ったドイツの街の名前を答えたのですが、女の子の容姿が東洋的だったため、その後、司会者が「でも、『もともと』はどこの出身なの?」「おじいちゃんとおばあちゃんは、どこの出身なの?」と繰り返し訊き、結局、スタジオの観客席にいた女の子の母親が「タイです」と答える場面がありました。女の子に対して執拗にルーツを尋ねた司会者に対して、その後、ドイツのインターネットでは批判の声が挙がりました。

このように最近のドイツでは、「人のルーツをむやみに探るのはよろしくないこと」だという声が、徐々にですが挙がり始めています。ドイツは現在、実質的に多民族国家ですが、移民や難民としてドイツにやって来る人たちとはまた別に、アジアやアフリカなど、自分たちとは肌の色の違う子供を養子に迎えるドイツ人もいます。なお、ドイツ家庭省は里親制度を奨励しており、州によって異なりますが、里親家庭には月600~1000ユーロ(約8万~13万円)の養育手当が支給されます。

日本でも深刻な虐待の問題などで里親を必要とする子供は多いですが、やはり「血のつながり」に対するこだわりが強いのか、里親に対するサポートも、子供に対するサポートも十分ではありません。ドイツでも児童虐待が問題になっていますが、里親制度が奨励されている背景には「暴力的な血のつながりのある家族」よりも「子供にとって良い環境を提供できる家族を」という考えがあるのです。

昔のドイツも、昔の日本も、今では虐待と見なされる行為が「親の教育が厳しかった」「親から体罰を受けた」「親からげんこつが飛んできた」というような言い回しで濁されてきました。

でも今の時代は、先進国であれば、ことの深刻性を隠さず、その上でいかに前向きで革新的な取り組みができるかどうかが問われていると思います。「社会が寛容になる」ということは、従来の価値観や文化の壁を越えて多様性を受け入れていくことだと思いますが、その過程で摩擦が生じるのは日本に限らず、どの国の社会でも同じだと思います。

●サンドラ・ヘフェリン
コラムニスト。ドイツ・ミュンヘン出身。日独ハーフであることから「多文化共生」をテーマに執筆活動をしている。著書に『ハーフが美人なんて妄想ですから!!』、共著に『男の価値は年収より「お尻」!? ドイツ人のびっくり恋愛事情』など多数

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