1989年6月27日号に掲載された記事「中国、血みどろの叫び『それでも闘い続ける!』」。情勢は数号に分けて報じられた

1989年1月7日14時36分、『週刊プレイボーイ』記者・コミネは野坂昭如先生と共に取材で浅草・仲見世通りを歩いていた。そのとき街頭テレビに、小渕官房長官が新しい元号を発表する姿が映し出された。

野坂先生は「へーせー!? 取材はやめだ。飲みに行くぞ。あんな間抜けな響き! 飲むぞ!!」と怒りだした。それでも平成は30年4ヵ月続いた。当然、たくさんの事件が起き、その現場に週プレは足を運び、多くの貴重な出会いを得た。

4月22日(月)発売の『週刊プレイボーイ18・19合併号』では、平成の10の事件で現場を走った人たちに、当時を振り返ってもらった。そのなかから平成元年(1989年)に中国で起こった『天安門事件』の声をお届けする。

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■火葬場の煙が消えることはなかった

1989年6月4日、中国・北京の天安門広場前で1ヵ月にわたって中国の民主化を訴え続けてきた学生や市民たちに、突如、人民解放軍が機銃掃射を開始。戦車部隊や装甲車も突入し、辺りは血の海と化した。「天安門事件」の始まりである。

この民主化運動は、民主化を推し進めていた胡耀邦(こようほう)前総書記が4月に死去したことが発端。5月に入ると運動はさらに熱を増し、時の李鵬(りほう)体制に対する反発の意味を込めた無期限のハンガーストライキが天安門前で行なわれた。これに対し、李鵬首相は戒厳令を発令。そしてついに、冒頭の大量虐殺が発生する。

当時、週プレではジャーナリストの世良光弘氏が5月から北京に入っており、事件後も天安門広場から数km離れたホテルに身を潜め、取材を続けた。当時の混乱を世良氏が追想する。

「近隣の外交官居住区の建物も銃撃を受け、ホテルの外壁や窓も弾痕だらけでした。ある日、ホテルから編集部に電話をしていたら外で銃撃戦が始まったんです。弾が飛んでくることを考え、ベッドとベッドの間に隠れました。電話先のデスクは『なんの音だ?』と言ってました」

丸腰の市民にも軍の武力弾圧が勢いを増していくなか、広場の近辺を歩く外国人記者も命を狙われるようになる。

「見つけたら射殺するように指令が出たのでしょう。昼間にAP通信のカメラマンと建国門街を歩いていたら、突然、道路の20~30cm先に連続的に銃弾が当たって跳ねたんです。匍匐(ほふく)前進で建物に避難しましたが、あの屋上からの兵士の狙撃は確かに私たちを狙ったものでした」

戒厳令の下で軍が使用していた銃弾は、通常の貫通弾ではなく、体内で炸裂し、体の一部を吹き飛ばすほど強力なものだったという。遭遇した間一髪の危機はこれだけではない。

「テレビ局の記者と夜の天安門周辺を目立たぬように歩いていたら、突如、小銃のスライドを引きながら両脇の暗闇から兵士たちが飛び出してきて、こめかみにAK47を突きつけられ詰め所に連行されたんです。詰め所に来た中尉に『万里の長城を見に来た観光客だ!』と必死にウソを訴えて数時間後に解放されましたけど、最初の血走った目をした兵士たちが相手だったら確実に殺されていましたね」

以降、世良氏は人民服で変装し、自転車に乗って極限の緊張状態にある北京市内を記録。唯一ファクスが送れる外交官居住区にあるホテルに通い、編集部に原稿を送り続けた。

「片道数kmの距離を撃たれないように移動して、自分のホテルに戻ったら『原稿が届いていません』という。もう一回命がけの思いで戻って再送したのですが、そうしたら『ファクスの紙が詰まっていました。すみません!』とか言われて、さすがに体から力が抜けてぐったりしたことを覚えています(笑)」

世界中で民主化運動が盛んだったなかで起きた虐殺は、今なお凄惨(せいさん)な記憶として強く残っているという。

「運動を率いた学生らは、国をいきなり変えてやるなどという過激な思想を持っていたわけではなく、自分たちの力で少しでも民主化が進めばという願いを持っていただけでした。だから、あんな大量虐殺に遭うとは誰も想定できなかった」

犠牲者は3000人とも1万人ともいわれるが、「滞在している間に、北京郊外にある5ヵ所の火葬場すべてから終日、煙が消えることはなかったです」と世良氏は語った。