「症状固定」とは「これ以上治療しても症状が改善しない」と医師が判断すること。追突事故によるむち打ち症の場合、事故発生から1、2ヵ月で損保会社が症状固定を迫り始め、3ヵ月程度で治療費などの支払いを打ち切るケースが多いという。しかし後遺障害が残った場合、その認定条件として6ヵ月間の治療が必要なため、早期の症状固定は被害者に不利となり、結果的に示談金額も低く抑えられることになる

誰の身にも降りかかりうる交通事故という悲劇。もし自分が被害者になったら、当然十分な損害賠償を得られるはず......多くの人はそう考えるだろう。しかし、損保会社に保険金をとことん値切られ、泣き寝入りしている人も多いという。「被害者救済」とは程遠い、交通事故賠償の現実とは?

* * *

■「救済してもらえる」という期待は裏切られる

もし、交通事故の被害者になったら――。自分は悪くないのだから、十分な損害賠償が得られて当然だ。そう考える人は少なくないだろう。

だが、交通事故に関わる示談や訴訟を数多く手がける弁護士法人サリュの代表弁護士で、著書に『虚像のトライアングル―国・裁判所・保険会社の不都合な真実』(幻冬舎)がある平岡将人氏はこう話す。

「納得できる賠償を受けられないまま、泣き寝入りしている被害者は多い。残念ながら、国や損保会社に『救済してもらえる』という期待の多くは裏切られます」

どういうことか? 傷害事故のケースを例に取り、その解決(示談成立)までの道のりを、平岡氏の解説に基づき説明しよう。

交通事故が発生すると、まず警察へ通報、現場での実況見分などをもとに調書が作成される。被害者は病院で治療や手術を受け、入院または通院が始まる。その際の治療費、通院のための交通費、ケガによる減収の補填(休業損害)などは加害者側の損保会社が負担する。

それらの保険金は、車の所有者すべてに加入が義務づけられている「自賠責保険」と、約7割が加入している「任意保険」から賄われる(共に損保会社が運営)。事故で負傷した場合は自賠責保険から上限120万円、それを超える分は任意保険から出る仕組みだ。

しばらく通院すると、医師が「症状固定」の判断を下す。これは、それ以上治療しても改善の見込みがない状態を表し、その時点で残った症状があれば、「後遺障害」として扱われることになる。

後遺障害は、最も重い1級から最も軽い14級までの等級に分かれ、医師の診断書をベースに、損保会社35社の会員を抱える非営利の民間法人「損害保険料率算出機構」が一括してその認定を行なう。

この後遺障害に関する賠償は、先述した治療時の賠償とは別枠で、本来健常であれば得られたであろう生涯収入の見込み額(逸失利益)と、精神的な負担を賠償する慰謝料の2種類がある。ふたつを合わせた賠償額は等級ごとに定められ、例えば、両目を失明した場合は1級(労働喪失率100%)と認定され、自賠責保険から最大3000万円、不足分は任意保険から支払われる。

症状固定、後遺障害認定を経て、最後に来るのが示談交渉だ。警察の捜査記録をベースに、当事者間の交渉、あるいは裁判によって、加害者と被害者の責任の割合(過失割合)と、賠償額の総額が決められる。例えば、賠償額が1000万円で、過失割合が【加害者7:被害者3】だった場合、被害者の過失分(300万円)を引いた額が加害者の損保会社から払われるといった具合だ。

これが解決までの大まかな流れだが、治療費の支払いから後遺障害認定の手続き、示談交渉まで、損保会社が加害者を代行して一手に引き受けるのが一般的だ。

■損保会社が保険金を出し渋る理由

だが、「損保会社はあの手この手で保険金を出し渋る傾向が強い」と平岡氏は強調する。

「損保会社は治療費の支払いを早めに打ち切る傾向があります。交通事故で最も多い、追突事故で首がむち打ち症になったケースでいうと、通院1ヵ月を過ぎた頃から損保会社から『もう治療の必要はないのでは?』などと頻繁に電話がかかってくるようになり、挙句にはまだ痛みがあって仕事も満足にできない状態が続いているのに、治療費の支払いを打ち切ると、一方的に通告してくる。私の依頼者でも大半の人がそういう扱いを受けています」

しかし、被害者がまだ痛みを訴えているのなら、医師は治療を打ち切らないのでは?

「むち打ち症のような神経症状の場合、レントゲン写真などでも損傷が認めにくい。そのため、損保会社のなかには病院側に電話や書面で『痛みの原因を客観的に証明できますか?』『そろそろ症状固定では?』などと照会をかけ、暗に『もうこれ以上治療は必要ないでしょ?』と圧力をかける担当者も少なくない。本業に支障を来すのをいやがり、渋々、言いなりになる医師もいます。こうして被害者はある日突然、『これ以上通院しても回復の見込みがない』と、医師から治療の打ち切り(症状固定)を告げられるのです」

損保会社から治療費を打ち切られれば、自腹を切るしかない。しかも、交通事故の場合は被害者の治療費は加害者が負担すべきとの観点から保険診療を認めず、10割負担の自由診療で治療を行なう病院が多い。被害者自ら、健康保険組合に申請すれば保険診療に切り替えることも可能だが、「病院側がこれをいやがる」(平岡氏)。なぜだろうか?

「保険診療より自由診療のほうが、報酬額が倍ほどに高く、儲かるからです。交通事故被害者の治療には本業以外の雑務も多いので、それくらいもらわないと割に合わないという病院側の事情もあるのですが......。保険診療への切り替えを申し出た被害者には、『それなら診断書を書かないよ』などといやがらせをしてくる病院もあると聞きます」

損保会社が治療を短期で打ち切ろうとするのは、治療費や休業損害を"節約"するためだけではない。

「治療の期間は、後遺障害の賠償額を大きく左右します。ひとつは慰謝料。これは基本的に通院期間の長さがその額を決めます。そして、後遺障害の認定にも影響する。例えば、むち打ち症は最も軽度な14級と判定されるケースが多いのですが、その認定基準は通院期間が6ヵ月以上、通院頻度が週2、3回とされます。つまり、通院が半年未満なら『非該当』と判定され、被害者は後遺障害の賠償金がもらえない。だから損保会社は医師を誘導してでも症状固定を急ぐのです」

後遺障害の等級の認定を行なう算出機構の判断基準にも問題があると指摘する。

「例えば、事故で指1本が動かなくなった場合、簡単な軽作業を職業にする人ならそれほど仕事に影響しないかもしれませんが、繊細な指の動きが要求されるピアニストや外科医なら死活問題となり、後遺症に伴う逸失利益も高額になるはず。しかし、算出機構は職業に関係なく画一的に等級認定を行ないます」

損保会社がそこまで賠償額をケチる背景には何が?

「損保会社は営利目的で任意保険を運営しています。同時に、利潤も損害も出さない"ノーロス・ノープロフィット"を原則に、公的な保険である自賠責保険の運営も国から託されています。そこで損保会社は何を考えるか? 被害者に対する賠償額の査定を、自賠責保険の範囲内に抑えようとします。損保会社にとって自賠責保険の支払いはコストには当たらず、上限額の範囲内ならいくら払っても腹が痛まないからです。ここにさまざまな出し渋りを生む元凶があるのです」

■失明の賠償提示額が約1100万円

では、最終的な賠償額を決める示談交渉ではどんな出し渋りがあるのだろうか。

交通事故被害者救済センターの代表で、行政書士の秦(はた)一夫氏からこんな事例を聞いた。

数年前、大阪府内の主要道路で、加害者の車が前の車を追い抜こうとセンターラインをはみ出し、対向車と衝突する事故が発生。制限速度内で走行していた被害者からすれば、避けようがない事故だったが......。秦氏が続ける。

「このケース、100:0で加害者が悪いと思う人がほとんどでしょうが、センターラインが白色の場合、車が"少しでも動いていれば"被害者側にも過失が発生する、と損保会社は判断します。裁判所も同じ判断をするケースがあるのでそこは仕方ないにしても、交通ルールを守っていた被害者の過失割合は1割とするのが常識的なライン。しかし、このケースで損保会社は被害者に3割の過失を求めてきました。こうして賠償額を大幅に削られた被害者が相談に来たのですが、示談書に判を押してしまった後でした。一度判を押した示談書の内容を覆すのは極めて困難です」

こうした保険金の出し渋りは、被害が大きい重大事故ほどあからさまになるという。

交通事故の賠償問題を取材し続けるノンフィクション作家の柳原三佳氏が教えてくれた事例はこうだ。赤の他人に事故を起こされたケースとは異なるが、損保会社の姿勢を表す象徴的な話である。

「被害者Aさんは友人Bさんが運転する車の助手席で単独事故に遭い、片目を失明しました。その後、Bさん側の損保会社は、Aさんへの賠償額を約1100万円とする計算書を送りつけてきたのです」

これは、「常識では考えられない低廉な金額」だった。

「失明などの場合は通常、事故時の年齢から67歳(就労可能年齢の上限)までを"労働能力が喪失した期間"とし、逸失利益を計算します。当時22歳のAさんの場合、その期間は45年になるはずでした。しかし、損保会社側はこれを『10年』としたのです」

その根拠をAさんが損保会社に問いただしたところ、こんな回答があったという。

「要約すると、『片目失明でも10年たてば、慣れて人並みに働けるから、労働能力喪失期間は10年』と......」(柳原氏)

これにはAさんも憤慨。その後、弁護士に依頼して再交渉に臨んだ結果、損保会社は賠償額を4000万円ほど上積みしてきたという。

「Aさんのケースは、"バレてもともと、バレなきゃ儲けもの"......そんな損保会社のホンネが透けて見える事例ですが、水面下では損保会社に言われるがまま、示談書に判を押してしまっている被害者はかなり多いはずです」

■トラックに衝突されて「加害者」に

「被害者が"二度泣く"のは、損保会社の出し渋りだけではなく、警察の杜撰(ずさん)な初動捜査によるところも大きい」

前出の柳原氏はそう話す。25年ほど前の話だが、現在でも十分に起こりうる、その代表的な事例を紹介しよう。

1993年11月20日の朝、後藤雅博さん(62歳 *事故当時36歳)は通勤のため東京都足立区の主要道をバイクで走行中、対向車線から急に右折してきたトラックと衝突。脳挫傷、右腕まひなどの重傷を負い、意識不明の状態となった。そして約1ヵ月後、病室で目を覚ました後藤さんは警察側の説明を聞いて愕然(がくぜん)とする。

後藤さん本人がこう話す。

「意識を失っている間に、相手の言い分だけで事故処理が進められ、主要道路と交差する細い路地から私が急に飛び出したことで事故が起きたとされていたのです」

つまり、自分は被害者だと思っていたのに、いつの間にか加害者にされていたのだ。

相手側の損保会社は後藤さんに「90%の過失がある」と、自賠責保険の支払いさえも大幅にカットしたという。

だが、後藤さんからすれば、その細い路地は「自分の通勤経路から考えて通るはずもない道」だった。後藤さんは不自由な体で足しげく現場に通い、独自に検証を重ねた。

その後、裁判を経て、事故から6年後に加害者の有罪判決が確定する。一時不停止で路地から飛び出してきたのは加害者で、これが直接の事故原因と認められたのだ。

「私のような被害者が二度と現れないことを祈ります」と後藤さんは話すが、被害者が"二度泣かされる"悲劇は繰り返された。今年1月、静岡県三島市の交差点で、会社員の男性・仲澤勝美さん(50歳)が犠牲になった死亡事故だ。

職場から原付バイクで帰宅途中だった仲澤さんが、主要道路と細道が交わる交差点でワゴン車にはねられた。

当初、警察は「相手が(主要道路から細道へ)急な右折をした」との加害者の証言をベースにこの事故を処理し、翌日の地元紙朝刊にもそう報じられた。だが、仲澤さんの長女、杏梨さんはこう話す。

「あの交差点を右折するのは父の通勤ルートではありません。父は毎日、細道を直進して交差点を通っていました」

杏梨さんら遺族はSNSなどで目撃情報を募り、やがて加害者の証言を覆す客観的な証拠が出てきた。

係争中のため詳細は明かせないが、これにより警察発表から一転、加害者による信号無視が直接の事故原因であったことが判明。その後、加害者は逮捕された。

だが、「加害者はいまだに供述を撤回せず、加害者側の損保会社も、父が急な右折で起こした事故としてこちらに7割の過失があると主張し続けている」(杏梨さん)という。

被害者が加害者に仕立て上げられる"二次被害"。これも、誰の身にも起こりうることなのだ。

前出の柳原氏は言う。

「事故に遭うと、被害者は病院に救急搬送されるケースが多く、意識不明の状態だったり、ましてや命を奪われれば、物を言うことができない。こうして"被害者不在"のまま、警察は加害者側の自己防衛的な供述だけで事故を処理し、損保会社も被害者に大きな過失を押しつけてくる。こうしたケースはドライブレコーダーの普及で減少傾向にはありますが、残念ながら、"物言えぬ被害者たち"が泣き寝入りを強いられる二次被害はいまだになくなりません」

たとえ自分に落ち度はなくても、被害者自ら動かなければ救済されない現実がある。そのことを肝に銘じておくべきだろう。