日本で少年時代を過ごした人なら、誰もが一度は紙飛行機を自作して飛ばしたことがあるはずだ。
その魅力に取りつかれ、人生をささげ、そして63歳になった今、夢に見続けた宇宙へとついにたどり着こうとしている男、戸田拓夫(とだ・たくお)の物語!
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■病室から窓の外へ投げ続けた紙飛行機
今年7月27日、北海道・十勝平野の広尾郡大樹町にあるインターステラテクノロジズ社(以下、IST社)の発射場で、曇天の空を心配そうに見上げる男の姿があった。
超精密鋳物(いもの)加工で有名な、広島県福山市の株式会社キャステム代表取締役・戸田拓夫(とだ・たくお/63歳)。彼のもうひとつの顔は、紙飛行機の滞空時間ギネス記録を持つ「折り紙ヒコーキ協会会長」だ。
ロケットで紙飛行機を宇宙に運び、地上に向けて飛ばす――約40年間、紙飛行機に戸田が折り込んだ無数の夢の集大成だ。
堀江貴文氏がファウンダーを務めるIST社の小型ロケット「MOMO」シリーズ3号機が、民間単独では日本初の宇宙空間到達を果たしてから3ヵ月弱。戸田の紙飛行機を載せた4号機が、いよいよ発射されようとしていた。
この時点でMOMO4号機の打ち上げは、天候不順や計器トラブルなどですでに5回も延期されていた。多忙な社長業の合間を縫って広島から大樹町まで通い続ける戸田は、「毎回、指令室で発射を待つ時間は吐きそうになるほど緊張する」という。
戸田と紙飛行機の濃密な付き合いは、意外なことに子供の頃からではなく、大学時代からだった。
早稲田大学の登山サークルに所属し、青春を謳歌(おうか)していたごく普通の青年は、突如大病を患い、無機質な天井と壁に囲まれた病院のベッドの上で2年以上を過ごすことになった。やりきれぬ思いで目の前にあった紙を丸め、外界との唯一の接点だった窓から投げ捨てると、力なく飛んだ紙は病院の庭にポトリと落ちた。
当然、看護師からは「庭にごみを捨てないでください」と注意を受ける。この言葉が、なぜか戸田の心に火をつけた。だったら庭を越えて飛ぶ紙飛行機を作ってやる――。
改良する時間は無限にあった。庭越え飛行に失敗しては看護師に叱られる毎日。いつしか、たった一枚の紙が工夫次第で遠くに飛ぶ楽しさと、自由に空を飛ぶ紙飛行機の美しい姿に心を奪われたという。
ある日、戸田はいつもどおり「病室から紙を捨てないで」と注意した看護師に対し、得意げにこう言い放った。
「病院には捨ててません。すべて敷地外まで飛んでます」
看護師はあきれて言葉を失ったが、今度は近隣の民家から「ごみを捨てるな」と苦情が来て、戸田は"不良患者"として強制退院させられることとなった。
■世界記録のために機体とフォームを探究
復学を目指し東京のアパートに戻ったが、全快のメドは立たず、天井を見つめて寝るだけの日々。やがて天井の木目が銀河系に見え始め、
「宇宙から地球に向かって紙飛行機を飛ばしたら、どうなるんだろう......」
そうぼんやりと考えるようになったという。
「宇宙から燃え尽きずに飛んで帰るためには、立体的な形のほうが有利なはず」
試行錯誤を繰り返し、500機、1000機、1500機と折り続けた頃、ついに宇宙から投下可能な"スペースシャトル型"に到達する。この紙飛行機は、後に風洞実験でマッハ7まで耐えることが実証され、世界を驚かせた。
復学を諦め故郷の広島に戻った戸田の体調は徐々に回復し、実家の会社に就職。そして、国内外に紙飛行機の楽しさを伝える伝道師となる。
2001年、福山市に約800種類の飛行機を展示した「紙ヒコーキ博物館」を開館。03年には、世界でも珍しい紙飛行機を飛ばすための「とよまつ紙ヒコーキ・タワー」を神石高原町(じんせきこうげんちょう)に完成させた。
周囲は戸田を「世界一の紙飛行機の達人」と持ち上げた。確かに紙飛行機を作った数と技術には自信があったが、世界一の明確な根拠を示せないことに違和感があった。そこで思い立ったのが、ギネスレコードへの挑戦だ。
当時、紙飛行機の屋内滞空時間の世界記録は27.6秒。戸田の自己ベストは19秒だった。滞空時間を伸ばすなら、翼面積(よくめんせき)が広いほうが有利だが、そうすると今度は機体強度が落ち、高く投げ上げることが難しくなる。いくら筋力をつけて力任せに投げ上げても、たった2gの紙は高くは上がらない。
行き着いたのは、地面スレスレに腰を落とした状態から大きなフォロースルーでスムーズに投げ上げるフォーム。子供の頃、森田健作の『おれは男だ!』に憧れて始めた剣道の体の使い方が役に立った。
09年4月11日、戸田が投げ上げた紙飛行機は、美しい弧を描いて飛び続けた。10秒、20秒、まだまだ飛んでいる。滞空時間27秒90! 戸田はついにギネス記録を手にした。これは機体製作にテープを使用したものだったが、その1年半後にはテープ未使用の機体で滞空時間29秒20と、さらに記録を更新した。
誰も文句がつけられない世界記録を手にした戸田は、いよいよ宇宙からの紙飛行機投下という夢に向けて邁進(まいしん)する。
■夢をつないだホリエモンとの出会い
NASA(米宇宙航空局)やJAXA(宇宙航空研究開発機構)と可能性を探っていくうちに、夢のプロジェクトは実現寸前までこぎ着けた。しかし、立ちふさがったのは日米の監督官庁の壁だった。
「前例がない」
「もし国境を越えて他国の領空に侵入したらどうなるのか」
平和の象徴ともいえる紙飛行機。しかし折悪く、日本を取り巻く東アジア情勢は緊張を増していた。北朝鮮、中国、ロシアといった周辺諸国とのトラブルを恐れる役所にとって、戸田の夢は"判断しかねる事例"だった。
転機が訪れたのは、日本の経済界などのリーダーが集う今年2月のG1サミット。ここで戸田は堀江氏と出会い、「紙飛行機を宇宙から飛ばしたい」という夢を語った。
「それ、やりましょう!」
即答した堀江氏に、戸田は何度も「本気ですか?」と問い返した。堀江氏にあらためて真意を問うと、笑顔でこう答えてくれた。
「宇宙開発には、お金も夢も必要。その両輪がなければ前に進まない。僕自身も宇宙を飛ぶ紙飛行機を見てみたいし、これは絶対にビジネスにつながると思いました」
引き絞った弓矢が解き放たれるように、ここからプロジェクトは一気に進んでいく。
とはいえ、NASAやJAXAの大型ロケットと比べ、IST社のロケットは非常に小さい。MOMOの全長は10m、直径は50cmほどで、紙飛行機を打ち出す射出筒の直径はわずか2cmが限界。前述したスペースシャトル型などの既存の紙飛行機を放出することは不可能だ。
再び壁にぶち当たった戸田は、弟子たちの作品を見つめるなかで、扇式の紙飛行機に注目した。完成した形の紙飛行機を搭載するのが難しいなら、放出後に蛇腹状の翼が広がるようにすればいいというアイデアだ。日本古来の扇を投げる遊び"投扇興"のイメージにも重なる、オール国産ロケットの企画にふさわしいデザインとなった。
そして7月27日16時20分。「ペイターズドリーム MOMO4号機」は打ち上げに成功した。しかし約64.3秒後、機体のコンピューターが異常を検知しエンジンが緊急停止。警戒区域内の海面へ落下させることになった。
最大高度は13.3km。宇宙空間到達の目安となる100kmには届かず、地上で待つ戸田のもとに紙飛行機の発射映像が届くことはなかった。
ただ、戸田や関係者の表情は明るかった。宇宙開発における失敗は、成功のノウハウを蓄えるための工程だ。宇宙空間から紙飛行機を飛ばすという夢物語が、現実のものとなる手応えは確かにあった。
戸田はいつか、紙飛行機に地上からコントロール可能な方向舵(ほうこうだ)と超小型カメラを搭載し、宇宙からの映像を配信したいと真剣に考えている。
スタンリー・キューブリック監督の映画『2001年宇宙の旅』のオープニングに、猿が動物の骨を棍棒(こんぼう)代わりに使うことを覚え、人類への進化の扉を開くシーンがある。投げ上げた動物の骨が宇宙船に変わる映像は印象的だ。
しかし、もしキューブリックが戸田の紙飛行機のことを知っていたら、この映画のオープニングシーンは別のものになっていたかもしれない。
たった一枚の紙に人生を変えられた男の紙飛行機が、宇宙から地上に舞い降りるシーン。今から待ち遠しい。