今から10年前、2011年3月11日に、日本政府は原子力緊急事態宣言を発出した。これは福島第一原子力発電所で発生した事故を受けてのものだ。そして、この"緊急事態宣言"は、今もなお続いている。
朝日新聞記者でルポライターの三浦英之氏は、事故翌日の3月12日に被災地入りし、18日間にわたって現場を取材した。そして、社に新たに設置された宮城県の「南三陸駐在」となり、約1年間、現地の様子を伝えた。
その後、アフリカ勤務を経て、自ら希望して17年に福島総局に移る。19年からは、福島県南相馬支局に異動し、現在は南相馬市で暮らしている。『南三陸日記』(12年、朝日新聞出版/後に集英社文庫)、『白い土地』(20年、集英社クリエイティブ)、『災害特派員』(21年、朝日新聞出版)は、どれもが被災地をテーマにしたルポルタージュだ。
*この記事は、『週刊プレイボーイ12号』(3月8日発売)に掲載されたものです
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――これは3部作ですか?
三浦 残念ながら3部作ではないんです。
10年前に被災地で、ガードレールがぐにゃぐにゃにねじれ曲がって、そこに遺体がくっついている状況を見ました。僕が見たほとんどの遺体は服を着ていなかった。津波に巻き込まれて、服をはがされてしまったのでしょう。
人間の体は脆(もろ)いもので、瓦礫(がれき)や車などと一緒に渦に巻き込まれると、頭や手が取れてしまうんです。そういう損壊遺体がガードレールにたくさん張りついていた。
そういう状況を僕は新聞には書けなかったけれど、その代わりに僕を取り囲む、被災地で必死に生きる人々の姿を描いたのが『南三陸日記』です。
一方で、僕はこの10年、被災地に飛び込んだ日の夢をよく見ます。瓦礫の山を登っているときに、足元に自転車に乗ったまま半分泥に埋まっている男の子の遺体があったりする。きっと、PTSD(心的外傷後ストレス障害)を患っているのだと思います。
それで、今度は被災地で生きている人ではなくて、その現場を記録した側の人間、つまり僕や津波が襲ってきたときに写真を撮り続けたカメラマンなど、僕や同僚が当時現場で何を見て、何と闘っていたのかを描いたのが『災害特派員』です。
――そして、『白い土地』は?
三浦 僕がアフリカに赴任していたとき、日本から伝えられるニュースは大きく分けて3種類でした。
ひとつは「トヨタが新しい車を出します」などの経済ネタ。もうひとつは「宮崎駿さんのアニメが公開されます」などの文化ネタ。そして「福島」です。歴史的な原発事故が起きて、原発がその後どうなったかということは世界的な関心事です。
しかし、日本に戻ってみると、原子力災害は現在進行形で続いているのにもかかわらず、もうなんとなく終わったような話になっている。
原発事故が起きて、その周辺に住んでいた人が避難したことは知っているけれども、今、その地域がどうなっているかは、ほとんど伝わっていない。それではいけないと思い、僕が実際に原発被災地で暮らしながら、そこで見た事実や、そこで暮らしている人々の日常を描いた記録が『白い土地』です。
――以前、三浦さんが記者をやりながら新聞配達を手伝っていた福島県浪江町は、今でも町の8割が帰還困難区域に指定されています。ここでは、同じ町でも"還(かえ)れる場所"と"還れない場所"が存在します。
三浦 『白い土地』は当初、『南三陸日記』のような希望の物語にしたかったんです。でも、後半部分になるに従い、内容的には希望が薄れたものになっていく。取材を進めていく過程で、東京電力や政治家などの嘘や裏切り、欺瞞(ぎまん)などが次々と浮かび上がってくるからです。
結果として『白い土地』は、最終的には悲しい物語になってしまっているような気がします。でも、それが今の福島の紛れもない現状なんです。
――三浦さんが、ここまで福島取材を続ける理由、モチベーションはなんですか?
三浦 10年前のあのときに現場に入った人ならわかると思うんですが、3月11日からの約半年は、本当に地獄みたいな日々でした。
目の前で自分の子供が亡くなっているんだけれども、火葬場に持っていくことができない。火葬場がいっぱいだからです。それで、一度、土の中に埋めて、火葬できるようになったら、土の中から遺体を掘り出して持っていく。そして「ああ、よかったね」と安堵(あんど)する親がいる。
また、原発事故で避難指示が出ているため、自分の子供がまだ見つかっていないのに逃げなきゃいけなかった親がいた。
そういう現場を目撃したのに、何も関わらないでいることは、僕には不可能でした。
最初に3部作じゃないと言った理由のひとつには、記すべき物語はまだ全然終わってはいないということがあります。『南三陸日記』がパート1だとすると、『災害特派員』がパート2です。そして、この記録はこの後もパート3、パート4とたぶん続いていくと思います。
『南三陸日記』には、震災6日前に結婚式を挙げ、津波で新郎を亡くした夫婦の話が出てきます。数ヵ月後、妊娠中だった新婦が出産する場面に僕は立ち会ったのですが、そのお子さんが小学校に入学するときにも僕は一緒に小学校に行って記念写真を撮った。卒業式も、できれば成人式もそばで見守って祝ってあげたい。
『白い土地』は、それとは少し違っています。政府や東電は、廃炉作業はあと30~40年で完了するというけれど、日本には放射性廃棄物の最終処分場はまだありませんし、あの溶けた核燃料を本当に取り出せるのかどうかは誰もわからない。
壊れた原発がある場所で、苦悩や絶望を抱えた人たちはどうやって生きていくのか。『白い土地』は、僕が記者を続けていく限り、しっかりと書き続けていかなければいけないテーマだと思っています。
――今年の3月11日、三浦さんはどこで何をしていますか?
三浦 僕は浪江町で半年ほど新聞配達をやっていたので、3月11日はその新聞販売所で各社の朝刊を読んでみたいです。11日の朝刊に何を載せるかで各報道機関のメッセージが伝わりますから。
そして実際に新聞を配りながら朝日が昇るのを見て、自分が何を思うのか。終わりの見えない福島で、いったい何を考えるのかに興味があります。
●三浦英之(みうら・ひでゆき)
1974年生まれ、神奈川県出身。朝日新聞記者、ルポライター。『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』で第13回開高健ノンフィクション賞、『牙 アフリカゾウの「密猟組織」を追って』で第25回小学館ノンフィクション大賞、『南三陸日記』で第25回平和・協同ジャーナリスト基金賞奨励賞、『日報隠蔽 南スーダンで自衛隊は何を見たのか』(布施祐仁氏との共著)で第18回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞を受賞
■『白い土地 ルポ 福島「帰還困難区域」とその周辺』
(集英社クリエイティブ 1800円+税)
福島には「白地」と呼ばれる地域がある。それは帰還困難区域の中でも国が除染を進める区域に含まれないエリア、つまり住民が将来的に帰還できる見通しがないエリアだ。その「白地」やその周辺地域の歴史や文化、そして、人々がどのような感情を抱いて生活しているかをつづったルポが、この『白い土地』だ。著者は自ら希望して福島県南相馬市に移り住んだ。そこに暮らしている人間だからこそ見えてくる真実がある。